4-10

 時は、ほんの少しばかり駆け足になって進んで行った。

 新しい年を、僕は彼女や立花さん、晴君と琴音さん、そして北川先生と共に学校の屋上で迎えた。

 こんな風に新しい年を誰かと一緒に迎えるなんて数か月前までは想像すらしていなかったし、この学校の屋上で初日の出を見る時が来るなんて思いもしなかった。

 まだ暗い早朝五時頃に校門前に集まって、ひんやりとした校内を歩いて階段を上り、晴君と琴音さんは眠たそうに目を擦っていて、そんな二人の手を握って彼女は今屋上に立っている。

 北川先生は僕の少し後ろで薄らいできた海と空を眺め、立花さんはそんな光景を切り取るためにカメラを構えている。

 鳴海は結婚相手と一緒に新年を迎える予定らしく、「閉校式でまた会おうな」と言い残し今日の午前中の電車で帰った。そのため屋上に彼の姿はなかったが、しかし彼もまたどこかで同じものを待ちわびているのだと思うとそれだけでいいと思えた。

 少しずつ、太陽が昇る。

 きっと、この場所でこの人達と一緒にこうしていられるのは今しかないのだと、僕は強く思った。

 来年になればこの校舎は無くなってしまうのだし、彼女も北川先生も、もっと別の場所へ行ってしまうかもしれない。晴君や琴音さんだってこの校舎が無くなった後は別の学校に転校するだろう。

 そして、何より僕自身これからどのような道を歩んでいくのか全く以て見当がついていない。

 それでも、今この時だけはとても良い時間だと素直に思えた。これから先なんて分かるはずもなくて、でも今僕が見ているものは確かに今ここにあるものだと、何ら違和感なく受け入れることが出来た。

 陽が昇り、小さな二人の子供は声を上げて人差し指で指し、彼女はそんな子供に笑顔で答えていて、夢見る少女は無言でシャッターを切って、北川先生はそんな僕等を優しい眼差しで見守っていて、そうして僕は、ただただ昇って行く真新しい太陽を見つめ、その先にあるものを目にしたいと、そう思った。


「信世君もおいでよ」


 そう言って笑う彼女が、本当に心の底から嬉しそうにしているものだから、僕もつられて理由もなく嬉しくなり、そんな風に僕の新しい年は始まった。

 新しい年の始まりは、いつだって寒い冬だった。冬は別れの季節で、出会いの季節などと言われる春を迎えるためには、どうしようもなく必要な季節だった。

 三学期が始まり、僕は閉校式に向けてより一層ピアノに打ち込んだ。

 弾く曲は二曲。一曲は僕が中学卒業式に彼女と鳴海のために弾くことが出来なかった自作の曲。そしてもう一曲はキラキラ星。

 本当は一曲だけしか弾かないつもりだったのだが、お正月が過ぎた後、両親と共に祖母のお墓参りに行った際、母親から「今なら言っても大丈夫だと思うけど、おばあちゃん最後まであんたのピアノがもう一度聞きたいって話していたよ」とそう言われ、僕は閉校式にキラキラ星を弾くことに決めた。弾かなければならないと、僕はそう思った。

 北川先生に閉校式で弾く曲を伝え、それからはとにかくピアノと向き合った。高校生や大学生だった時ほど長くピアノを弾いてはいなかったけれど、今の僕に出来る限界の所までピアノと時間を共にした。

 それから何度か雪が降って、この町がすっかり白く染まった頃、立花さんが夢を叶える一歩目として選んだ高校の入学試験へ向かった。

 夢見る少女が選んだ高校はこの町がある県内の普通科の高校だった。別段その高校の写真部がコンクール等に度々入賞するほど有名だという訳でもなく、少女はどこにでもあるような普通の高校に進むことを選んだ。

 少女曰く、「私が辞めなければずっと写真は撮り続けられるんだし、私がものすごい写真を撮ればいいだけなんだから、場所はどこだっていいんだ」とそう話していた。本当、全くその通りだと僕は何一つ少女の言葉をかけることは出来なかった。ただただそう語る少女が夢に輝いていて、そのことが純粋に美しいと思えた。

 雪が降る朝。僕は彼女と共に少女を見送った。少女は母親から受け取ったお守りを照れながら受け取った後、僕と彼女に「行ってくる」と笑って見せた。

 別れ際、僕は少女が以前言っていた「カメラが好きだというよりは、切り取るのが好きなんだと思う」という言葉の真意を尋ねたのだが、少女はただ一言「今をこれからも持ち歩きたいってこと」と、そう言い残して一人電車に乗って一歩目を踏み出していった。

 それから、僕達は順調に冬の終わりへと歩んで行った。

そして、雪が解け始め少しずつ空気が変わり始めた今、僕は溜息のような海風が吹き込む自室で手紙を書いている。この手紙は閉校式を迎えるために必要で、いつかまた、遠い未来に今と再会するために必要なものだった。

 今後、校舎やプール、体育館といった建物は取り壊されるが、グラウンドは特に何もされることはなくそのまま残るらしく、今後は町民の運動場として開放されるのだそうだ。加え、僕達が以前タイムカプセルを埋めたあの松の木も残るらしい。

 だから、僕は一つ北川先生に提案をした。それは閉校式に参加する人に対し、希望する人はタイムカプセル用の手紙を書いて持参してもらい、当日閉校式が終わった後、松の木の下にみんなでそのタイムカプセルを埋めようというものだ。

 この話を初めて北川先生に持ちかけた時、北川先生は「いいと思います。ただ、掘り起こす時に私がまだ生きているか分からないですけどね」なんて冗談を言って笑いながら了承してくれた。

 タイムカプセルを掘り起こすのは閉校式が行われた日付から十年後で、僕は三十五歳になっている。

 左側についこの間掘り起こした小学生だった僕からの手紙を置いて、今の僕はさらに十年後の僕へ向けて手紙を書いている。

 目の前にある真っ白な紙に、今抱えている不安だとか、後悔だとか、全く以て見通すことの出来ない今後に対する恐怖心、この町に帰って来た取り戻すことの出来た記憶や忘れていた思いを言葉にして書き止める。

 祖母に対する申し訳なさ。両親への思い。この町で出会った夢に向かって歩む少女の美しさと、変わらぬ故郷の海。大人になった鳴海と、大人になった彼女。小学生の頃には見えなかった余計なものが視界に入り、現実を知り死にたくなった僕。死にたくなって、ピアノが怖くなって、それでも再びピアノを弾くために生きている僕。

 終わりを迎える準備をしている僕は、しかし小学生だった僕や中学生、高校生だった僕の延長線上にあって、その線を辿る時、いつだってピアノが隣にあった。彼女や鳴海、祖母や両親だとか、北川先生と過ごした時間にもピアノがある。


「…………」


 過去から届いた手紙の一行目は「あなたはまだピアノをひいていますか」

 今の僕はどうだろう。今の僕がさらに十年後の僕へ何かを伝えるのだとしたら、どのような言葉になるか。

今の僕が書く未来への手紙。

それは「僕はピアノに感謝しています」という言葉から始まった。

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