4-5


 音楽室でピアノの練習をすることが習慣と成り始めた頃、十二月も半ばに差し掛かりもうじき今年が終わろうとしていた。

 二学期の終業式が間近に迫り、生徒数は少ないと言え長期休暇を目前に控えどこか浮つく空気が校内に満ちている。そんな空気を吸うのは何年振りだろうかと、そんなことを考えながら今日も音楽室の鍵を受け取りに職員室に足を向けると、そこにはある女子中学生の姿があった。

 その女子中学生は北川先生と話をしていて、背中を向けている少女の顔は見えなかったが、北川先生の顔つきは妙に真剣で、それはいつの日か見たことのある表情だった。

 取り込み中だろうかと思い鍵は後から受け取ろうと向きを変えて職員室から出ようとした時、ちょうど北川先生と視線が合って「信世君」と手招きされる。北川先生のそんな声につられるかのように女子中学生もこちらに顔を向けたのだが、僕はその顔を知っていた。

「あ、変な人」と、その女子中学生は声を漏らす。その淡泊な声と、芯のある瞳は確かに防波堤の先端で出会った女子中学生だった。


「信世君、立花さんと面識があるのかい?」

「ええ、まあ」


 どうやらこの女子中学生は立花という名前らしい。思えば僕はこの女子中学生の名前を知らなかった。少女の方も「あんた、信世って言うんだ」なんて、どうやら僕と同じようなことを考えていたようだ。


「音楽室の鍵をお借りしに来たんですけど、お取込み中でしたか?」

「いえ、大丈夫ですよ。話はもう終わりましたから」


 そう言って北川先生は立ち上がり音楽室の鍵を取りに行ってくれる。

そんな北川先生の後ろ姿をぼんやりと眺めていると、隣にいる少女が「音楽室って、ピアノでも弾きに行くの?」とそう尋ねて来た。


「そうだよ」


 僕がそう答えると、興味があるのかないのか分からないような気の抜ける「ふーん」という返事をし、少女は足元に置かれた紺色の鞄を持ってコツコツと職員室を出て行く。

少女と入れ替わるように北川先生が音楽室の鍵を持って戻って来る。


「あれ、立花さんは?」

「帰っちゃったみたいです」


 僕がそう答えると、北川先生は「そうですか」と、少しだけ眉を顰めつつ、「これ、音楽室の鍵です」と僕に手渡してくれた。

「ありがとうございます」と、お礼を言った後、僕は職員室を出て行く。

 冬の廊下はそっけなく、立花という少女はまだどこかにいるのだろうかとも思ったが廊下に人影はない。


「…………」


 いつの日か見たことのある表情。あの北川先生の表情は果たしていつ見たものだったか。階段を上りながら記憶を遡る。中学生だった時のことを思い浮かべ、ほどなくして僕は自然と「ああ」なんて声を漏らしていた。

 そうだ。あの表情は僕が中学三年生の時、どこの高校へ進学するか北川先生に相談していた時に先生が僕に見せていた表情だった。

 本当にここでいいのか。もっと他の高校の方がいいのではないのか。そう憂いているが、しかし僕の意見を尊重し反対することは出来ない。そういう表情だ。

 僕は音楽科のある高校に進学するつもりでいて、実際にそうしたのだが、北川先生は僕のその進路にあまり乗り気ではなかった。ピアノなら何も音楽科に行かなくたって出来る。本格的にピアノにのめり込むのは大学に行ってからでもいいのではないのか。確かあの時、北川先生からそう言われたのを覚えている。

「秋野さんや鳴海君と同じ高校へ行くのは僕の成績だと難しい。でも、だからと言って町を出て遠く離れた音楽科のある高校へ行くこともない。この町からでも通うことの出来る普通科の高校へ行き、ピアノをやって、三年という高校生活の間でそれでもピアノがやりたいと思うのなら音大へ進めばいい」あの時、北川先生からはっきりとそう言わなかったけれど、きっと先生はこんな風に思っていたのだと今なら分かる。そして、それは現実と夢とのバランスを考えた上で最適な選択なのだろう。

 中学三年生という夢ばかりを見ていた僕は、現実とのバランスを考えられるほど一歩引くことは出来なかった。おそらく今の僕が当時の僕に「普通の高校へ行くべきだ」と言ったところで、「それでも僕は音楽科のある高校へ行く」と言い切るだろう。

 果たしてその選択は間違っていたのか。正直に話すと、高校で過ごした日々の記憶はとてつもなく薄い。ピアノに打ち込んでいたという漠然とした記憶しかなくて、小学生、中学生だった時の記憶ほど色鮮やかではない。

 僕には分からない。あの時、もしも現実と夢とのバランスを考えられるほど大人であったなら、また違う道もあったのだろうか。もしも別の道を歩んでいたのなら、こんな風に廃校前の学校の音楽室に足を向けている今の僕はいなかったのだろうか。

 今更になってそんなことを考えた所で意味なんてないのだと分かってはいるけれど、生憎僕はこれまでに歩んできた道を振り返っては勝手に落ち込んできた。それは憎むことの出来ない僕の悪い癖で、それだけは確かなことだと言い切ることが出来る。一体いつからこんな癖がついてしまったのか覚えはないが、大人と呼ばれる歳を軽々と越えた今の僕にとって、それは手足のように馴染んでしまった悪い癖だ。

 気が付けば振り返ってばかりで、いつかこの時も振り返る時が来るのだろうか。その時が来た時、僕はどう思い返すのだろう。この選択は間違っていたと後悔するのか、それとも良い記憶として僕の胸の内に刻まれることになるのだろうか。

 階段を一歩一歩上り、音楽教室のある階が見えてくる。意味もなく階段を一つ飛ばしで駆けあがり、ほんの少し早歩きになって廊下を進む。

 すると、今日は珍しく音楽室の前に人の影があった。誰だろうかと考えながら音楽室へ歩くと、その人影は僕の方に顔を向けて「遅い」なんて呟く。

 てっきり帰ったものだと思っていたのに、どういう訳か先ほど職員室であった立花という少女が壁に背中を預けて立っていた。

「どうしたの?」と僕が尋ねると、少女は「暇だから」とそれだけ呟き、「早く」なんて音楽室を開けるよう顎を使う。

 そんな態度がまさしく僕が防波堤の先端で見た少女そのもので、なんだかとても可笑しかった。


「何笑ってんの?」

「ああいや、何でもないよ。開けるから」


 音楽室の鍵を差し込み、回す。カチャリという音が冬の空気に響いた後、僕は音楽室の扉を開けた。

 僕よりも先に音楽室に入った少女は「さむ」と暖房をつけると、音楽室の端に置かれたパイプイスを一つ持ち出し、ピアノのから程よく離れた場所に広げるのだった。


「なに?」

「何でもないよ」


 ピアノを開け、ピアノの前に座る。少女はどうしているのかと左の方に目を向けると、鞄を漁って中からカメラを取り出していた。そのカメラを見つめる眼差しが、憎いほど僕だった。こいつがあれば他に何もいらない。こいつと一緒にいる。きっとどこまでもいける。そう信じている眼差しで、でも心のどこかでそう信じきることが出来ないでいる。


「楽しい?」

「そこそこ」


 言葉こそ正直ではないけれど、しかしカメラを見つめているその瞳は正直だった。本当、中学の頃の僕にそっくりで、でも僕とは違ってしっかりと夢と現実のバランスを取っているのだと思う。防波堤の先端で少女と交わした言葉が、何よりの証拠だろう。

 少女はカメラを音楽室の天井に向ける。そうして「どこの高校に行くか、話をしてた」という少女の呟きが静まり返った音楽室に響く。


「参考までに聞きたいんだけど、変な人はどこの高校に行ったの?」


 僕は、「参考になるかは分からないけれど」と、前置きしたうえで、少女の問いに答える。

 僕はこの町を出て、音楽科のある高校へ進学した。


「それは、やっぱりプロになるため?」


 そう。僕は本気でピアニストになりたかったし、なれると信じていた。


「そうして良かったって思う?」


 それは、正直な所分からない。だって、僕は結局夢を叶えることは出来なかったのだから。仮に僕が夢を叶えプロのピアニストになることが出来たのなら、きっと迷うことなく「正しい選択をした」と言い切るだろう。だから、結局は結果論でしかないのだと思う。良いか悪いかなんて分かるはずがなくて、ある程度の結果を得ることが出来た時、初めて選び取った道に自己評価をつける。良かった悪かったに関わらず、時には無理やり納得するために。

 だから僕は「正しくはなかったのかもしれない」と、今無理やり決めつけてやった。

 だって、僕は結局夢を叶えることが出来なかったのだから。だって、僕はこんなにも情けない人間になってしまったのだから。だから、今手もとに残っている結果から決めるのなら、きっと僕が選び取った道は正しくなかった。


「秋野さんともう一人同級生の友人がいたんだ。その二人はこの町から通うことの出来る一番頭の良い普通科の高校へ進学した。立花さんも知っていると思う。でね、やっぱり時々思ってしまうんだよ。もしも僕も二人と同じ高校に進学していたら、もっと違っていたのかもしれないって」


 もしも二人と同じ高校に進学していたら僕の持っている高校時代の記憶はもっと色鮮やかなものになっていたのかもしれない。ありきたりな、所謂青春と名付けられる夏の空のように清々しくもどこか悲しい時間を彼女や鳴海と過ごし、その中でピアノに変わるやりたいことを見つけることが出来たかもしれない。

 全く以て無意味な想像だ。妄想とも言っていい。そんなことを考えること自体、過去の自分を否定するようなことだろうが、それでもどうしたって考えてしまう。


「女々しいだけだよ。結局、僕は夢を叶えることが出来なかったから『もしかしたら』なんて想像をしてしまう。それだけ」


 少女は「分からないけど、何となく分かる気がする」と言ってシャッターを切った。少女の言葉は野良猫のようで、今の僕にとってはそれくらいが心地よかった。

 僕は少女に何も言うことが出来ない。どちらかと言えば僕はダメな人間だ。失敗した人間だ。そんな人間が少女のためになる言葉をかけることなど出来るわけがなかった。


「決めたのは僕だ。だから、どうなろうと受け入れなければいけないのだと思う。受け入れて、死にたくなったり、こんなはずじゃなかったなんて思ったりして、何もかもが嫌いになったりすることもあるだろうけれど、最終的にすべて自分で決断して無理やりにでも納得する他ないんだ」


 半分は本当で半分は嘘だ。納得なんて出来そうにない。僕は今、きっと少女と会話をすることで無理やり納得しようとしている。


「それでも、変な人はまた弾こうとしているんでしょ?」

「そうだね。本当よく分からないよね」


 彼女の言葉があったから。夢見る少女がいたから。


「とりあえず吐かずに弾けるようにはなったよ」


 鍵盤に触れる。触れるとまだ微かに奥の深い所がざわつくけれど、全く指が動かなくなるほどではない。

 鍵盤を押し込めば音が出るように、すべてがそれくらい単純であったのならどれほどいいだろうかと、神様にでも言ってやりたくなる。

 そんなことを考えながら、僕はピアノを弾き始めた。少女はそんな僕の様子をカメラで捉えて時折シャッターを切っている。

 少しして、僕の奏でるピアノの音に引き寄せられるように「あ、お兄さんだ」と言いながら晴君と琴音さんがやって来た。


「こんにちは、お兄さん!」

「こんにちは」


 僕が「帰りの会はもう終わったの?」と尋ねると、晴君は「うん!」とまさしく少年らしい青々とした返事をし、そんな小さな少年と少女は手を繋ぎながら僕の右隣までやって来る。

 それから、晴君は「俺も!」なんて言いながら僕の弾く曲に合わせて無邪気に鍵盤を押し始めた。

 小さな子供の笑い声に、微笑む女子中学生のシャッター音。ピアノの音に、そして何より自分自身が笑っていた。

 そう、僕は笑っていたのだ。それもピアノを前にして笑っていた。

 最後にこうしてピアノを弾きながら笑ったのはいつだっただろう。もう思い出せないほど昔のことだ。

 それなのに、今僕はこうしてピアノを弾きながら笑っていた。

 そのことが信じられなくて、だけど不思議なほど心の隙間に収まって、今日の音楽室はいつもよりも賑やかだった。

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