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 この町に学校と呼ばれる建物は一つしかない。その学校は小中一貫の学校で、僕はかつてそこに通っていた。

 校舎は海の近くにあり、僕が中学を卒業しこの町を出て行った時の生徒数は小学生と中学生を合わせても二十人程度だった。

 だからなのか、小学生だろうが中学生だろうがあの学校に通っていた人間は全員仲が良かったと思う。喧嘩こそあったけれど、所謂いじめと呼ばれるようなものは無かった。

 今振り返ると、あの学校で過ごした日々はどうしようもなく眩しいものだったように感じる。

 僕はまだピアノを弾いていて、夢を追いかけるだけのやる気と希望を持ち合わせていて、きっと僕はあの学校で過ごす時間が好きだった。

 同級生は僕を除き二人いた。

一人は鳴海達也という男の子で、鳴海はとにかく運動が得意で、加えて勉強も出来る奴だった。おまけに顔も整っていて面倒見のいい奴だったから、中学三年生にもなると年下の小学生中学生全員から慕われていた。ただ面倒見が良すぎて踏み込んで欲しくないところまで踏み込んでくることがあった。でも、その点を除けば、隙の無い良い奴だった。

 そんな鳴海は僕にとって唯一はっきり友人だと言える存在だった。

小学生だった六年間と、中学生だった三年間、つまり九年間ずっと一緒に過ごしたのだ。鳴海ほど同じ時間を共有した同性で同い年の人間はいない。

 僕にとって鳴海は大切な友人だったのは確かだろう。喧嘩こそ何度かしたけれど、それでも放課後だとか休みの日はよく一緒に遊んでいたほど仲が良かった。

しかし、僕は今鳴海がどこで何をしているのか知らないのだ。中学校を卒業すると共に、僕はそういったこれまで積み重ねて来たものを全て捨ててこの町を出た。だから僕は中学校を卒業して以来、一度も鳴海と連絡を取ってはいないし会ってもいない。

鳴海は中学校を卒業した後、この町からでも通える高校に進学したということは知っている。その進学した高校はこの辺りで一番頭の良い学校で、やっぱり僕は鳴海には敵わないなと思った事を今でも覚えている。

 鳴海は今、どんな風に過ごしているのだろう。少なくとも今の僕のような人間になっていないことは確かなのだと思う。

 鳴海と仲良く遊んでいたのは小学三年生までだった。放課後は近くの海で日が暮れるまで何が楽しいのかゲラゲラと笑いながら砂浜を走り回っていたことが思い出される。

 砂浜で駆けっこをすると、決まって鳴海は僕よりも速く駆けて行って、僕はいつも遅れてばかりいた。

 小学三年生以降になると、僕は増々ピアノに打ち込むようになって、鳴海と外でそんな風に遊ぶといったことはしなくなった。

 ただ、ピアノの練習をしていた僕の所に鳴海はよく顔を出してくれて、いつも僕の弾くピアノの音色を聞いては「やっぱ信世はすげぇな!」なんて屈託ない笑みを浮かべていた。

 鳴海。僕はそんなにも凄い奴ではなかったよ。確かにこの町でなら僕はピアノに限って誰にも負けないほど凄い奴だったのかもしれない。でも、ほんの少し広い所に出てみればこの様だ。今の僕を鳴海が見たら果たしてなんと言うのだろう。それが怖くて仕方がない。

 そして、もう一人の同級生というのが数時間前に祖母の葬儀で顔を合わせた秋野優という女の子だった。

 彼女はとにかく優しく笑う子だった。鳴海のように運動が得意だったという訳ではなかったけれど、彼女は僕達三人の中で一番頭が良く、誰にでも優しくて、時々優しすぎて自分のことを蔑ろにするところがあったが、それも彼女の優しさを表していたように思う。

僕と鳴海が喧嘩をした時は必ず彼女が止めに入ってくれた。鳴海と喧嘩をした後は大抵僕が泣くのだが、そんな僕を彼女はよく慰めてくれた。おまけに彼女は僕の手を引かれて鳴海の元にまで連れて行ってくれた。

 今にして振り返ると随分恥ずかしい思い出だ。でもそんな日々はもう失われた過去なのだなと思うと、胸の奥底がキリキリと音を立てて削られていく。

 小学生だった頃は異性だとかそういうことを意識せずに彼女と一緒に日々を過ごしていたけれど、中学生になった途端、彼女がどんどん大人びていって、そのことに僕は不安を抱いて行った。

 どんどん大人びていって、昔は短かった髪の毛も少しずつ伸びていき、「ああ、僕なんかとは違うのだ」と感じるようになった。

 中学三年生にもなると彼女は校内では言うところ姉のような存在になって、鳴海とはまた別の側面で学校中の皆から慕われるようになっていった。

 僕から見て鳴海と彼女は仲が良くて、二人が並んで楽しそうに話している姿はそれだけで絵になっていた。それは何も僕だけがそう感じていただけでは無くて、校内中の皆が口を揃えて「あの二人はお似合いだ」なんて二人をからかっていた。

 九年間彼等と一緒に同じ時間を同じ場所で過ごしていたつもりだったけれど、どこで間違えたのか二人はどこか遠くへ行ってしまったような気がする。

明確にそのことを意識したのは、中学二年生になってすぐの時だったと思う。僕達は授業の一環で、「将来どのように生きて行くか」「将来の夢は何か」という良くあるテーマについて話し合いをしたことがあった。

 当時の僕は二人のように勉強が良くできる訳でもなく、その時からピアノしか能の無い人間だった。

ずっとピアノが弾ければそれでいい。そう思っていた僕は、当然「未来について」などという漠然としたテーマに対し具体的に考えをまとめることなど出来なかった。

 なのに、鳴海も彼女もしっかりと自身の未来について考えていた。将来は何がしたくて、そのためにはどんな進路を選んでいけばいいのか、僕以上にしっかりと考えを巡らせていた。

 鳴海は将来スポーツ選手を支える仕事がしたいと言い、だから大学では体や運動等について勉強することが出来るところへ行きたいと語っていた。

 彼女は将来、学校の先生になることが夢だと言い、そのために、大学は教育学部のある大学へ進学し、出来る事ならこの学校で働きたいのだと語っていた。

 同じ時間、同じ場所で過ごしてきたのに、どうしてこの二人はこんなにも遠くへどんどんと進んで行ってしまうのだろうと、僕はその時思った。僕だけが取り残されているような気がして、僕はただピアノが弾ければそれでいいと思っていて、二人のように誰かのために何かをしたいだとか、そんな事など考えてはいなかった。

 結局僕は、「未来のことは分からないけれど、きっと僕はピアノを弾き続けていると思います」なんてあの二人の前で話したのだ。

 その時の自分自身に言ってやりたい。お前が言ったその発言は、将来鋭利な刃物になって自身の喉元に突きつけられることになると。近い未来現実を知り、好きだというだけでは続けて行くことなど出来ないということを教えてやりたい。

 お前はピアノを弾くことが出来なくなる。ピアノを恐怖の対象として捉えるようになる。未来に希望は無く、死という言葉が魅力的なものであるように感じるようになる。でも実際に死のうとするだけの惨めな度胸すらなく、宙ぶらりんのまま当てもなく再び捨てた町に帰って来るのだと。

 僕はとにかくあの二人のように遠くへ行きたかったのだと思う。あの二人がどうしようもなく僕から離れて行ってしまうような気がしていて、取り残されたくなかったのだ。

 おそらく、ピアノに縋りつくようになったのはそれからだ。中学を卒業するという時の流れと共に、僕は何が何でもピアノを弾き続けるのだという風に考えるようになり、とにかくあの二人のように僕も歩みたいと思うようになった。

 逃げた訳ではない。でも、前向きな気持ちで町を出て行ったわけでもない。

 こんな僕が、今更どうやってあの二人と会えばいいのだろう。話がしたい。会いたい。確かに僕はそういう気持ちを抱いている。情けない話だけれど、過去の記憶に救いを求めていたことは事実だろう。

 でも、実際に先ほど彼女と会った時、僕は一度目を合わせた後すぐに目を逸らしてしまった。

 僕という人間はそういう奴なのだ。どこまでも臆病で、根本的な所は昔と変わらず、泣き虫で、やりたかったことも、好きだったことも、その全てをボトボトと落とす。

 彼女を前にした僕は、遠ざかって行く彼女の背中を見ていることしか出来なかった。

 話したいことは沢山あった。彼女ともう一度会いたいと思っていた。それなのに、僕は彼女のことを見ていることしか出来なかったのだ。


「…………」


 トン、と背中を叩かれて我に返る。

 振り返ると、そこには見覚えのある男性の顔があった。

 その男性は、「久しぶりだなぁ! 元気してたか!」と大きな声を出して笑った。

 その途端、辺りの騒がしさが僕の耳に入り込み、頭の中で渦巻いていた雑念が全てかき消されて行った。


「ん? どうかしたか?」

「いえ」


 この見覚えのある男性は、おそらく親戚の誰かだと思う。頭は剥げていて、スーツはよれよれで、でも元気だけはあるぞと、そんな事を主張するような表情を僕に向けている。


「お前さん、今どこで暮らしてるんだ?」

「一応、東京です」

「おお、そうか! そりゃあ立派なもんだな! 俺とは段違いだ」


 男性は繰り返すように大声で笑う。すると、その男性の妻らしき女性が「こんな場所で大声出して笑わないでください。恥ずかしい」と悪態をつく。

 男性は「へへ」と苦笑いをした後、「それじゃあな」と言い残し、また違う人の傍に行っては僕に話しかけた時と同じ言葉を繰り返すのだった。

 改めて周囲を見渡す。葬儀を終え火葬場へと移動した僕達は、現在祖母の火葬が終わるのを控室で待っていた。

 周囲を見渡すと、あの男性ほどではないが笑いながら話をしている人の姿がそれなりに見受けられた。

 祖母が死んだのに、人はこんな風にすぐ笑って時間を過ごすことが出来るのだなと、控室の様子を見ていると頭の中に雲がかかる。

 もちろん悲しそうな面持ちでいる人もいる。でも、一方で先ほどの男性のように笑いながら誰かと話をしている人もいる。もしかしたら笑うことで悲しいことから立ち直ろうとしているのかもしれない。でも、談笑している様子は表面上僕にとってとても奇妙に映った。

 今見ている光景は、一つだけピースを失った未完成のジグソーパズルのように気持ちが悪かった。

 だから僕は逃げるように、何かを探すように控室を出ることにした。

 そう言えば、控室には両親の姿が無かった。特にすることもなかったため両親はどこに居るのだろうかと辺りを歩く。すると、思いの外すぐに両親は見つかった。しかし、僕は両親の傍に行くことが出来なかった。

 給水場にいる母が涙を流していたからだ。父はそんな母の傍で湯呑を洗っている。

 両親の後ろ姿がとても小さく見える。

 無くしたものがある。傍から見ればそれは小さなものだろう。でも、誰かにとってそれはどうしようもなく大切で大きなものなのだと思う。

 両親は、もしも僕が死んでしまったらこんな風に誰もいないところで人知れず涙を流すのだろうか。悲しむのだろうか。


「…………」


 結局、僕は両親に声をかけることなく控室へと戻った。

 それから二時間ほど経ったところで祖母の火葬が終わったという連絡が入り、僕達は移動した。

 火葬場で働いているらしい人が、「ここはこういう部位の骨で」と説明を始める。そうして僕達は祖母の骨を長い箸で掴み、丸い陶器につめて行った。

 熱気が漂う。

果たしてここにいる皆はどのような気持ちでここに立っているのだろう。

 涙を流していた母は、母の傍で湯呑を洗っていた父は、先ほど大声で笑っていた男性は、果たして今何を思っているのだろう。

 ただ確かなことは皆静かに骨を長い箸で掴んでいたということだけで、僕は祖母の骨を長い箸で掴みながら祖母の家で彼女と過ごした日々のことを思い返していた。


「…………」


 ポトリと、何かが落ちる音が頭の中に響いた。

 それは、忘れてはいけない大切な記憶だった。

 どうして今まで忘れてしまっていたのだろう。

 人間は忘れてしまう。祖母のように、何もかもを忘れてしまう。

 そのことが怖くて、僕も祖母と同じようにこんなにも大切なものを忘れてしまっていたのかと、自分自身がとても悲しく思えて来る。

 悲しくて、骨になった祖母を見つめて、僕は堪えるように唇を噛んだ。

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