2-3

 空気なんてどこも変わらないと思っていたけれど、数年ぶりに吸い込んだ故郷の空気は否応なく過去の記憶を刺激した。海の匂いが混じった少し冷たい冬の風が、電車を降りホームに立った僕を出迎えた。

 小さな駅の改札を通る。駅前のコンビニと郵便局。錆びついたバス停と小さな交番。

駅から先は商店街通りになっていて、さらに進むと住宅地がポツポツと姿を見せ、そしてさらに進むと海に出る。

 今も行われているのかどうなのかは分からないが、少なくとも僕がまだこの町に住んでいた頃は年に一度夏祭りが行われていた。商店街通りには提灯が並び、出店が軒を連ね、まだ小学生だった頃は毎年夏祭りが行われるのを楽しみにしていたものだった。

 ふと、そういえば何度か祖母と一緒に夏祭りに行ったことがあったことを思い出す。電車に乗っている間祖母のことを考えていた時には思い出すことが出来なかったのに、改札を通ってこの町に足を踏み入れた直後に忘れていた記憶が蘇った。

 やはり、この町には過去の自分自身がそこら中に染み込んでいる。

 駅前の木造ベンチも幾分か古ぼけているけれど、あの時と変わることなくここにあった。

 時の流れが分からなくなりそうだった。あまり変わることのないこの町の存在が、どうしようもなく変わってしまった僕を責め立てる様で、やはり帰って来たくはなかったと逃げるように視線が空へと移る。

 どこにいても空だけは変わらない。青い絵の具でムラなく染まった空だけが、あの時も今も変わらず頭上に広がっていた。

 こんな風にじっくりと青空を見上げるのは久しぶりだった。最近外に出る時は必ず夜中で、見上げていたのは燻っていた夜空だった。

 鳥の鳴き声が遠くから聞こえる。どこかの木々が風にそよぐ音が聞こえる。

 都会では聞くことの出来なかった音の中、車が走る音が聞こえて来た。

 視線を空から戻し、音のした方に目を向けると見知った車が此方に近づいてくる。

 剥げた黄色の軽自動車。僕の近くで止まると、運転席から人が一人降りてくる。


「信世、久しぶり」


 母の姿を見るのは何年振りだろうか。大学に入学してからは一度もこの町に帰って来ていないし、母親も祖母の介護が忙しくて僕の住んでいるアパートに来ることもなかった。だから、五年ぶりくらいに母親の姿を見る。


「元気だった?」


 少し痩せたようにも見える母は、昔と変わらない笑みを浮かべて僕にそう言った。

 元気だった。メールでならそう返せるだろう。でも、こうして実際に会って、自分の言葉にして虚勢を張ることがとても難しい。

 もう限界だ。仕事を失った。ピアノが怖くなってしまった。もうピアノを弾くことが出来なくなってしまった。

 でも、そんなことを自分の口から言えるわけがない。何より、そう口にしてしまうことで、今いる場所はどうしようもないほど現実であるということを認めてしまうような気がして言葉に出来ない。

 この町にいる間は泣かない。そう決めた。

 だから僕は、笑って「大丈夫」と言葉を返した。

 僕は大丈夫。心配することは何もない。一人でもやっていける。


「そう」


 母は微笑み、「行きましょうか」と僕を助手席に乗るよう促した。

 母が運転する軽自動車は僕を乗せて町を走り始める。


「おばあちゃんの葬儀は今日の午後からだから、家に着いたらすぐに出かけるからね」

「分かった」

「着るものは持ってきた?」

「持ってきたよ。スーツで良いよね?」

「いいよ。そう言えば、信世のスーツ姿を見るのはこれが初めてかもしれない」

「そうだっけ?」

「そうよ。だってあんた、全く帰って来ないし成人式の時すら忙しいって帰って来なかったじゃない」

「そうだね」

「そうよ」


 すでに喪服に着替えている母は車を運転しながらそう話す。

 僕を乗せた車は町を走る。商店街はシャッターが閉まっている店が多くなっていて、人もあまり出歩いていない。僕の記憶にある商店街と、今車の窓ガラス越しに見る商店街の様子は少し異なっていた。


「何か、シャッターがおりているお店が多くなった?」

「そうね、最近増えているかもしれない」


 母は「そういう時代だから仕方がないかもしれないわ」とため息交じりに呟く。

 そういう時代。この町は確かに田舎だろう。都会にある目の眩むような背の高いビルはどこにもないし、電車の本数だって少ない。車は全く走っていないし、人すら見かけない。

 商店街を抜けて、住宅がポツポツと姿を現す。古い家ばかりで、中には真新しい新居らしい住宅もあるが、一方でもう誰も住んでいないようなボロ屋敷も見受けられた。

 この町も少しずつ変わっているのかもしれない。そんな事を思う。確かに昔と変わらない様子はそこら中にあるけれど、僕の知らない今の町の姿も確かにあるようだった。

 閑散とした道を行き海が見え始める。母の運転する軽自動車は海沿いの道に出て、防波堤に沿って道路を走る。

 防波堤の先に揺らぐ海が見える。こんなにも海を間近で見るのは何年振りだろう。


「窓ガラス、開けてもいい?」

「なに急に? 別に聞かなくても勝手に開けていいわよ」


 窓ガラスを開ける。真っ先に海独特の香りが僕の体の中に染み込んでくる。風を切る音に交じって、海の音が聞こえて来る。

 本当に帰って来てしまったんだなと、改めてそう思った。


「ほら、着いたよ」


 数年ぶりに見た実家。もう僕の帰るべき場所ではなくなった海沿いにある家。黒い外壁が少しばかり剥げていた。


「父さんは?」

「先に葬儀の会場に行っているよ」

「そう」


 車から降りる。母の後に続くように、僕は玄関の前まで歩く。


「信世、おかえり」


 母は玄関口に立って僕の方を向く。


「ただいまって、言ってもいいのかな」


 だって、もう何年もこの家に帰って来ていない。もうここは僕の居場所ではなくなってしまった。それでも、僕に「ただいま」を言う資格があるのだろうか。

 一瞬、母は驚いたように目を少し見開く。しかしすぐにその目を細めて微笑んだ。


「何言ってんの。ここはいつまでもあんたの家よ。少なくとも私はそう思ってる」


 そして母はもう一度、「おかえり」と笑う。

 僕は一度俯いた後、「ただいま」と返す。泣かないよう我慢して、きっとぎこちない笑顔になっていると思う。

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