第1章

1-1

 死にたい。目を覚ましてまずそんな事を思った。

 もう何度見た夢だろうか。この夢を見た朝は必ず死にたくなる。

 夢というのは本当の自分を映し出すものらしいが、もしそうだとしたら僕はどうしようもなく惨めで小さな存在なのだと思う。

 こんな未来を望んでいたわけではない。こんなはずじゃあなかった。きっと、そんな思いを抱く人は珍しくなくて、むしろ僕のような奴はそこら中に溢れているのだと思う。それでも皆はそんな思いを受け入れて、区切りをつけて、頑張って、それなりに幸せを感じて日々を生きているのだろう。そして、それがきっと大人になるということで、皆はしっかりと現実を見ていて立派だと心底思う。

 それに比べて僕はどうだろう。あんな夢を見てしまうあたり、きっとまだ区切りをつけることが出来ないでいる。ずっと過去ばかりを見つめていて、今を見つめていない。

 可笑しい話だろう。これ以上ないほど未来についてはあれこれと考えて不安を募らせるのに、いつか未来だった今をこんな中途半端に生きているのだから。


「…………」


 天井を見上げた後、時計に目を向けると時刻は既に七時を回っていた。いつまでもベッドの上で感傷に浸っている訳にもいかない。

 朝目を覚ましてアパートの部屋から出て行くまでの過程はもう無意識に出来てしまうほど繰り返してきた。

 ベッドから起き上がり、洗面所で顔を洗い、髭を剃ってもう一度顔を洗う。鏡に映った自分の顔にため息をついて、ゴワゴワのタオルで顔を拭き、一枚の食パンをコーヒーで流し込む。白いワイシャツに袖を通し、ネクタイで程よく首を絞めたら黒いスーツを身に纏う。黒い鞄を肩にかけ、ゴミ袋を持って外に出て鍵を閉める。

 外に出てみると、夏の残り香のようなものが鼻を掠めていった。もう九月も半ばだというのに一向に秋になる気配は無い。

 九月も折り返しだ。あっという間に冬が来て、今年が終わるだろう。

 今年はどうだっただろうか。思い返してみるけれど、何もなかったということを改めて確認するだけだった。

 朝起きて、働いて、とりあえず生きているという生活を初めてもうじき三年経つのかと、ゴミ袋を捨てながらそんな事を思う。

 三年という月日は長かったかと問われたらどう答えるだろう。正直答えに困ってしまう。

 時間の歩幅は変わらない。一分は一分。一日は一日。一年は一年。昔も今も同じだ。でも、体感する時間は確実に変わっているような気がしていて、だから変わったのは僕の方なのだろう。

 過去の僕が今の僕を見たらどう思うだろう。きっと、昔の僕は今の僕を見て涙を流す。そして、涙を流す過去の僕を見て僕は蹲るのだ。

 周囲に人が増え、皆吸い込まれるように最寄り駅へと足を進める。相変わらずどこから集まるのかと不思議に思えるほど人で溢れ返っていて、皆スーツを着て、同じような格好に同じような顔つきで、僕もそんな群衆の一人だった。

 定期券をかざして改札を通る。改札を通る際、僕は躊躇いを覚える。「もうこの改札を通ったら後戻りできない、昨日を繰り返すだけだ」と毎回誰かに言われているような気がする。

そんな声は聞こえない、気のせいだと無理やり足を動かして僕は改札を通り駅のホームに立つ。

 多くの人がスーツを着ていて、僕はそんな光景を見たくなくて俯く。スーツは嫌いだ。首が閉まって息苦しいし、肩は凝り固まる。何より白と黒のコントラストがピアノを彷彿とさせて見ていられない。

 電車がホームに到着すると、すでに電車という小さな箱の中には人がこれでもかと敷き詰められていて、そこへさらに多くの人が押し込まれていく。

 僕は物なのだ。電車は物を運ぶもので、扉の閉まった電車はガタガタと音を立てて僕を運んでいく。決まったレールを走って、同じ場所を何度も行き来する。

 駅へ止まる度に多くの人が降り、多くの人が乗り込み、ギュウギュウに縮こまって、でもこの不快感に助けられている僕がいる。

 この息苦しさが朝の虚しい感情を深い奥底へ沈めてくれるのだ。感情自体を忘れることが出来る。四十分も電車に揺られて改札を出て、歩いて会社に着く頃には、すっかりと僕は落ち着いていて、「おはようございます」と今日初めて声を出して挨拶をしていた。

 僕は大丈夫。僕は大丈夫。そう繰り返して、今日もまた仕事を始める。


「安達、ちょっと来い!」

「はい」


 僕は大丈夫。そう繰り返す。

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