<四日目> Immortality

 生物圏バイオスフィアは普遍的ではない。

 状態に、環境に時として劇的な変化は訪れる。適応できぬ種に未来はない。


 ――こんな風に考えたことはないか?


 進化が必要だから遺伝子に多様性が求められ、多様性を追求するからこそ繁殖に特化した「種」が誕生した。進化を必要としない世の中であったならば、生命は、個体はいくらでも不老不死を極められたはずだ。

 多様性を維持するには増えることが最重要事項である。その一環として「老い」が存在する。子孫を未来へ進めさせる為に、旧き邪魔者は去らねばならない。資源は無限大ではないからな。


 ――個体のみで多様性を体現できるなら、それこそ繁殖も老いも無い末恐ろしい世界になるだろうね。


 贅沢な望みだよ、と教授は笑った。





 次に目が覚めた時。

 天井や監視カメラに視線を這わせながら――来年まで生きられないだろうなと私は漠然と思った。天井に向けて伸ばした腕は、楕円形の平な膿疱のうほうに覆い尽くされている。赤黒い傷から血が滲み出ていた。思えばこれは麻酔から覚めた日に、唯一動かせた腕だった。


 死ぬのが怖いやら、悲しいやら、惜しいとすら思わなかった。


 ――うつさねば――


 強い使命感に震えた途端、行動に移していた。身体を慢性的に蝕む疲労感を押しのけて肩をならす。

 素早く台から飛び降り、それを壁の方に思いっきり押し寄せる。マジックミラーでもある壁の向こうから、驚愕の叫びが聴こえる。構わずに私は台に上った。


「He's going for the vent!」(換気口を目指してるぞ!)

「We gotta stop him!」(止めないと!)


 バタバタと物音がした。やはり構わずに私は何度か跳び上がる。

 今頃はみな慌てて防護服を着ているのだろう。愚かなことだ。警備員とて自分がかわいいのは仕方ない。私に下手に触れて、感染したくないのだろう。


(同情するよ)


 換気口の縁に手をかけて上る。もともとこの独房は私が逃亡に使えるような道具を誤って与えないためか、物が極めて少ない。換気口にはカバー(あればネジが要される)すらかかっていないくらいだ。

 すんなり入れた。幸い私は東洋人の基準でも小柄なようで、肩幅も広くない。急な暗さに目が慣れるまで、何度も瞬いた。

 建物内に警報が鳴り響き、空洞が振動した。上の階も人々が走り回っているようだ。無駄な足掻きだ。この狭さでは防護服を着た人間は誰も追って来れまい。

 狭い空間を私は肘を使って進んだ。問題は、どこから出ようと必ず待ち伏せに遭うであろう点だ。


(その時になればまた考えればいいか。美織の手助けも期待できたりして……)


 薄ら寒くて埃っぽい闇の中を押し進みながら、私はいつの間にか取り戻していた記憶を反芻する。


 ――フェーズ・ゼロ。


 私が働いていたラボではある新薬の効果を試していて、既に動物実験を終えた段階にあった。第一相フェーズワン臨床試験用の健康なボランティアを募る前に、研究員たち数人を対象に試験しようという運びになったのだった。

 詳細はまだ忘却の霧に阻まれている。それでも、自らが末恐ろしい世界を目指す狂った学者の一人だったのは確信が持てる。


(ユセフ、ナジラさん、メアリ・アン、テリーさん、ジェフリー)


 同志は残らず命を散らせてしまった。死に際の様子までは思い出せないが、それは封印していい記憶であろう。

 黙祷した。そして私以外の三人の日本人男性――羽鳥、斉藤、長谷川、または淀橋のどれか。名前も顔も思い出せない他の同僚たちなどに思いを馳せた。

 顔に触れてみると、口元は笑みの形を作っていた。嬉しいのだろうか。数人の被験者と数多の研究員の内、生き残れたのは私だけだった。

 予定していた結果とは違ったが、変化に成功した。胸中にはこれといった感慨が沸かないのに、表情筋は勝手に動く。

 きっと今の私は、かつて私だった人格とは違った倫理観で世界を見ている。

 喜んでいるのは「私自身」ではないかもしれない。


『換気口は迷路だ。見つかるのは時間の問題だよ。どう頑張ったって、君は逃げられない』


 警報が急に静まったかと思えば、主任からの挑発的な放送が響いた。それに呼応するように美織の声が私を包む。


『気にすんなよ羽鳥。アンタが逃げるのは簡単だ。何も失うモンが無いからな。アイツらはアンタを制御しつつ、自分をも守らなきゃなんないんだよ』

「私は何も気にしちゃいない」

『ふっ、アタシんとこに来る気になったか? 嬉しいよ』

「あの独房で朽ちるわけには行かない、と思っただけだ」

『理由なんてなんだっていい。会えるのを待ってるよ、斉藤』


 ふいに私はピタリと動きを止めた。

 煙のような、零した薬品のような、不快な臭いが鼻腔をくすぐったからだ。

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