八月二日 金曜日

 篤志と過ごす時間は穏やかだった。呪いを退ける祝いの力に、どれほどの効果があるのか、単なる気の持ちようといわれてしまえばそれだけのことだが、それでもひとりで過ごすよりもずっと、体調が落ち着いていた。

 僕が原稿を書いている向かいで、篤志は帳簿を付けていた。電卓を叩くリズミカルな音がカタカタと響く。古い扇風機はガタガタと震えながら首を振り、飛んできた蝉がどこか近くで鳴いていた。風鈴はチリンチリンと高い音色で揺れて、時々、車が通り過ぎる音や、鳥の羽ばたきが届いた。僕たちは黙ったままではなかったけれど、間にあるのは適度な会話だけで、沈黙は苦にならなかったし、篤志も無理をしているようには見えなかった。

 昼食には篤志のおばさんが持たせてくれたおかずを食べた。食後はふたりで畳に寝転がった。

「毎日が夏休みみたいだな」

 そう言って笑った篤志は、すぐに眠ってしまった。僕も目を閉じた。汗ばむ風は少し不快だったけれど、すんなりと眠ることが出来た。篤志のスマートフォンのタイマーが鳴るまで、僕たちは昼下がりの惰眠を貪った。起き上がった頬に畳の跡が付いて、汗を掻いた顔を洗いながら笑い合った。

 それだけのこと、と誰もが思うだろう。そんなことくらいで、と。だけど、たったそれだけのことに僕がどれほど恋い焦がれていたか、他の誰にも分かりはしないだろう。何を幸福とし、何が幸運で、そんなこと、他人の尺度で決められるのは嫌だ。僕を憐れむのは僕だけで良い。

 座敷童は恨めしげに日陰から僕たちを睨んでいた。篤志はハコや呪いのことについては触れなかった。何事も無いかのように振る舞う篤志の態度は、本当のところそれこそ何も無いのではないかと僕に無駄な希望を抱かせた。いっそのことすべてが夏の幻で、目が覚めたら僕たちは二十年前、出会ったばかりの幼稚園時代に戻っている。そうであれば、良かったのに。

 夕方になって上がり始めた熱が、身体を蝕まれていることから目を背けるなと訴えてくる。冷たいタオルを首の後ろや脇の下に挟んで、僕はぐったりと横になっていた。どれほど希望を考えてみたところで、現実の僕はどうしようもなく、僕だった。篤志は団扇でパタパタと僕のことを扇いでくれた。

「あ、そういえば、気分転換になればって、持ってきたんだった」

 篤志は何かを思い出したらしい。持参した荷物をごそごそと漁っていた。しばらくして取り出したのは一冊のアルバムだった。どことなく見覚えがある。

「幼稚園の、ほら」

 そう言って篤志はページを捲り、僕に差し出して見せてくれた。

「人数が少ないからすぐに見付けられる」

 お遊戯会、遠足、散歩道。遠い記憶が曖昧に蘇る。アルバムに写る僕は、昔から変わらず色が白く、元気に走り回っている写真なんて一枚も無い。けれども、はにかんでいた。幼い僕は、とても楽しそうに写っている。

「これ、篤志だ」

 僕が指差す先に篤志が写っていた。よく日に焼けて、写真だけで活発だと分かる。他の子たちの名前は思い出せなかった。

「お、正解。これは下郷と本郷の間のキャンプ場だな」

「ふぅん」

「ほら、リョウちゃんも居る」

「えぇ、全く記憶に無いよ。キャンプなんてあったかなぁ」

「日帰りだったと思う、オレもテントを張って泊まった思い出は無いから」

 キャンプの写真には僕を含めた子供たちが並んで川面を見詰めている光景もあったけれど、僕は少しも思い出せなかった。

 次のページは、登山道のようだった。

「僕、篤志に背負われている、不細工だ」

 幼い僕は幼い篤志に背負われていた。僕は不機嫌そうに頬を膨らませていた。

「これは、中郷の坑道跡へ行ったときだな。オレ、この日のことは記憶にある」

 記憶に残っていないだけで、僕は昔からずっと篤志の世話になりっぱなしだったようだ。憶えていないことが申し訳なくなってくる。

「肝試しみたいなもんだよ、昔の採掘場っていうのが残っていて、ちょっとした洞窟があるんだ。そこへ行く、ただそれだけ」

「僕は機嫌が悪かったみたいだね」

「ああ、それはさ、リョウちゃんはまだ自分で登れるって言ったのに、オレがリョウちゃんのことを無理矢理背負ったからだよ。幼い正義感っていうか、何だろうな、うん、邪魔してごめん」

「本当に? 僕が自分で歩けるなんて言ったの、そんなの虚栄だよ」

「確かになぁ、結局は帰り道、先生に背負われて下山していた」

「そんなことだろうと思った」

 ふふ、と僕が笑ったので、篤志もニコニコ笑っていた。熱で思考は鈍っているし、頭痛もするけれど、篤志が話をして気を紛らわせてくれるおかげで、いつもよりもずっと過ごしやすかった。

 そういえば兄も、僕が寝込んでいるときには本を読み聞かせてくれた。あれは、兄なりに僕の思考を熱や痛みから解放してくれようと考えていたのかもしれない。想像や空想の中の僕は自由で、そこは到底、苦しみなんて届かないほどの場所だった。あの時間が無ければ今頃、僕は作家になっていなかっただろう。

 それからしばらくの間、そうやって昔に思いを馳せていたけれど、やがて僕の口数が減る。言葉の代わりに熱い息だけが漏れて、鼻血まで出てきた。篤志が居間と洗面所や台所をバタバタと行ったり来たりして、冷たいタオルを用意してくれた。ぼんやりと視界が霞む。

「眠っていろよ、リョウちゃん。雑炊か何か、食べられそうなものを用意するから」

 僕は目を閉じた。瞼の裏に暗闇が広がる。篤志の気配を感じていたけれど、僕の意識はゆっくりと暗闇の中に落ちていった。


 夢を見ていた気がする。


「リョウちゃん」

 僕は揺り起こされて目を開けた。部屋は薄暗い。廊下からの灯りで照らされているだけだ。すっかり日は暮れて夜になっていた。

「起きて、リョウちゃん、起きろ」

 篤志が僕の身体を支えて起き上がらせる。熱は少し下がっていた。寝起きでぼんやりしている僕を篤志が正面から抱きかかえる。その様子だけで分かる、篤志は何かに酷く怯えていた。

「何か居る」

 僕を抱く篤志の腕に力が入っている。僕は腕の中で振り返って耳を澄ませた。

 家の中に、僕たち以外の何かが蠢く気配を確かに感じた。

 ズルッズルッ。ザリッザリッ。

 僕は上を見た。二階だろうかと気配を探る。

 引き摺っているのか、這い回っているのか?

 違うな、と僕は廊下の先を見た。これは、引っ掻く音。縋り付こうと、あるいは、こじ開けようと、懸命に何かを捕まえようとする音だ。座敷童ではない、黒い人影でもない。彼らとは別の存在が、この家の中にある。

 僕は自分でも意外なほどに冷静だった。次から次へと、この家はどうなっているんだ。

「奥だ」

 中庭より向こう側の廊下は灯りが点いていない。その暗闇の先に何かが居るのだと僕は感じた。

「奥って、何があるんだ」

 篤志が尋ねる。

「祖父母の部屋。ばあちゃんは僕が生まれる前に亡くなっているからずっと空き部屋だし、じいちゃんの部屋は」

 そこまで言って、僕は口を噤んだ。じいちゃんの部屋は。僕は一昨日の夜を思い出していた。僕はあの部屋で捕まった。

「何も無いはずだ、だって全部持っていかれた。じいちゃんの遺品は、金目のものは親戚が全部売ってしまって、ガラクタばかりで少しの儲けにもならなかったと笑って、思い出も形見も残してはくれなかった」

 それなのに、と僕は篤志の腕から抜け出して、停電のときから置きっぱなしにしていた懐中電灯を手に取り、廊下の先へと光を向けた。

「僕からまだ奪おうと言うのか」

 冷静だったわけじゃない、僕は怒っていたのだ。

 理不尽な呪いも、薄情な親戚も、座敷童も黒いハコも。

 こうして篤志を怯えさせる何者かも。

「リョウちゃん」

 僕は廊下に出た。ヒタヒタと歩き、先の電灯のスイッチを入れた。灯りに照らされて廊下に家の奥から伸びる黒い筋が浮き上がる。それは僕が引き摺られたときのものだろう。篤志が僕の後ろにピッタリと付いてきた。僕たちは床に続く黒い筋を辿った。

 受け入れてなどいない、受け入れられるわけなどない。僕はそれらを絶対に許容しない。

 僕は祖父の部屋を開けた。そこに何かが居るはずだと思った。懐中電灯で照らした室内は、主を喪ったまま時間が止まっていた。僕がこの部屋で黒い影と争ったことなど嘘のように、あまりにも静かな空間があった。僕は部屋に入って電灯から伸びる紐を引っ張った。灯りが広がる。

「何も、居ない」

 拍子抜けしたように篤志が言った。ふたりで部屋を見回す。本当に何も無かった。祖父が大切にしていたであろう宝物たちも、思い出の詰まった愛すべきガラクタたちも。何も、何も、何ひとつ残っていなかった。僕はそれらを残すことが出来なかった。守ってやれなかった。

「空っぽだな」

 棚の引き出しを開けては閉めていた篤志が、そう言って押し入れの襖に手を掛けた。

 僕は振り返った。

 その襖は僕が。

 僕が捕らえられたときに、黒い人影によって開けられて。

「開けるな、篤志!」

 誰も閉めていないはずの、襖だ。

 けれども襖は呆気なく、まるでその瞬間を待ち構えていたかのように、すんなりと開いてしまった。

 篤志はストンと膝から崩れ落ちた。

 何が起こったのか分からない、一瞬のことだった。篤志の開けた押し入れの中は空っぽで、何かの気配はすでに去り、僕は気を失った篤志を引き摺って居間へと戻った。自分よりずっと体格の良い篤志を動かすのは一苦労で、僕は少し進んでは休み、少し進んでは休みと、なかなか居間へ辿り着けなかった。

 布団に寝かせてみたものの、何度呼び掛けても応えない。僕の呼び声はもはや悲鳴とも似て、それでも篤志は目を開けない。

 庭の片隅で座敷童が笑っていた。ニタニタと下卑た笑みを浮かべて、そのまま僕のほうへと歩み寄ってきた。お前の好きにさせるものかと、僕は篤志を抱える。篤志には指一本触れさせるものか。僕は座敷童を睨んだが、座敷童のほうが有利なのは言うまでも無い。僕の虚勢など見向きもしない。座敷童は部屋に踏み入れようと縁側に足を掛けた。

 そのときだった。

「うぅ……」

 篤志が目を覚ました。座敷童がその場で動きを止める。篤志は起き上がって身体をさすった。

「背中が痛い……」

 たぶんその痛みは僕が篤志を引き摺って出来たものだろう。僕は顔を上げた。座敷童は姿を消していた。

「ああ、リョウちゃん、えっと、何をしていたんだっけ」

 どこからか記憶が曖昧なのか、篤志は頭を重たげに抱えた。

「よ、夜になったから」

 僕は庭に座敷童の姿を探しながら答えた。

「晩ご飯をつくってくれたんじゃないの」

 座敷童の姿はどこにもなく、さっきまでの緊張感は嘘のように、虫が鳴く穏やかな夏の夜が広がっているばかりだった。

「あ、そうだ、雑炊をつくったんだった。食べられそうか?」

 篤志は何事も無かったかのように台所へ向かった。僕はのろのろと篤志の後に続いた。複雑な安堵だった。何事も無かった、なんて、そんなことは有り得ない。何かが確かにあったのだ。篤志の意識を奪うような何かが、僕には見えない何かが、確かにあったのだ。僕に霊感というものがあればその正体が分かっただろうか。

 食卓を囲む篤志は変わりなく、本当に違和感ひとつ漂わない。僕を起こした辺りからの記憶が曖昧になっているが、さほど気にはしていないらしい。あるいは気にしていないように振る舞っているだけかもしれない。僕もまた、何事も無かったかのように振る舞った。

 だが、偽りの平穏、まやかしの幸福。偽物だと分かっていても、縋り付きたい。手放したくない。僕はあまりにも意気地無しだった。

 シャワーを浴びて、髪を雑に乾かして、布団を並べて敷いた。幼い頃にはよく、兄と祖父とこうして布団を並べて眠った。ただ布団が並んでいるだけなのに、どうしようもなく楽しくて嬉しくて仕方が無かったことを思い出した。

 篤志がストレッチをすると言ったので、僕はその背中を押した。

「リョウちゃん、軽すぎるからな」

 僕が精一杯押しても、たいした負荷にはならないようだ。うつ伏せに寝転がった篤志の上に乗ってみたが、篤志は僕の体重をものともせず、腕立て伏せをやってのけた。

「あまりにも不公平だ」

 篤志の背中で不満を口にすると、篤志が笑って振動が伝わってきた。

「あれだ、得手不得手ってやつじゃないの、それか適材適所」

「それは健康だから言えることだ」

 僕がそう答えると、篤志は唸った。

「確かにリョウちゃんはハコのせいで病気がちだけど、だけどその虚弱なところがリョウちゃんの本質ではないだろう」

「どういうこと?」

「リョウちゃんが持っているたくさんの良いところが、ハコのせいで全部霞んで見えなくなったら嫌だなってこと」

 篤志が伸ばしていた腕を折り、寝返りを打ったので、背中に乗っていた僕はごろんと布団の上に落ちた。篤志は布団の上で大の字になった。

「字が綺麗なところとか、お化けが平気な格好良いところとか、小説を書ける文才とか、あと、意外と料理上手なところとか」

「意外は余計だ」

 僕は篤志の無防備な腹の上に馬乗りになり、篤志の両頬を引っ張った。篤志が笑うたびにまた振動が伝わる。

「あと負けず嫌いなところ、そんな自覚がないところ。そういうのが全部、ハコの呪いに負けてしまって、リョウちゃんはハコだったっていうことしか残らないんだとしたら、オレはそれが悔しいし、悲しいって感じるから」

 笑いたいのか、それとも泣きたいのか。篤志は複雑な表情で言葉を紡いだ。

「長生きしてほしい。出来るだけたくさんの思い出をつくりたいよ、ここで過ごす日々が楽しかったなって毎晩寝る前に思ってほしい。やってみたいこと、全部試そう。一緒に出来るからオレは、リョウちゃんがこの町に戻ってきてくれて嬉しい。ハコなんかじゃ収まりきらないくらいの幸せで、いっぱいになってほしいんだよ」

 泣いたのは僕のほうだった。

 ああ、これが祝いの力か。僕を生かしてくれる力なんだ。苦しいほどに、幸福だ。苦しいほどの、幸福だ。

 この幸福を、あなたがたに還すことが出来たならば。

 僕たちは並んで眠りについた。篤志の規則正しい寝息を聞いているうちに、僕もいつのまにか眠っていた。


 真夜中に目が覚めた。

 隣に寝ていた篤志が起きていた。上半身を起こして、遠くを見ている。僕が目を覚ましたことには気が付いていないようだ。寝惚けているのだろうか。僕は黙ったまま動きもせずに篤志を見ていた。

「……て」

 篤志が何かを言ったがうまく聞き取れなかった。けれど、次の言葉はハッキリとその意味を理解した。篤志は両手で顔を覆った。

「手」

 ゾワゾワと寒気が全身を駆け巡った。

「指、腕」

 篤志は続けて言うと、指を動かし、腕を曲げ伸ばす。僕は金縛りに遭ったわけでもないのに、篤志から目が離せずにいた。篤志の声と動作はまるで身体の部位をひとつずつ確かめているようだった。

「目。鼻。耳。口、声」

 ペタペタと触って形を確かめていた篤志は不意に動きを止めた。呼吸が、一回、二回。

 スッと僕を見た。

 視線がしっかりと交わった。

「リョウちゃん」

 篤志は愛しい者を呼ぶような声で僕を呼び、ニッコリと笑った、かと思えばフッと力が抜けて布団に倒れ込んだ。すぐにまた寝息を立て始める。僕はしばらくの間、何も出来ずに篤志の寝顔をぼんやりと見詰めていた。

 誰だ。

 篤志の中に、誰かが入っている。ああ、あの押し入れに潜んでいた何かが、篤志の中に居る。

 ああ、と僕はギュッと目を瞑った。心臓が凍り付いたようだ。発作とは異なる胸の痛みに僕は声を殺して震えていた。

 篤志だけは、と願っていた。たとえ僕がハコに打ち勝つことが出来なかったとしても、篤志にだけはどうか、救いのある明日が訪れてほしいと。そう、願っていたのだ。望んでいた。叶えてほしかった。

 ああ、篤志。

 やはり僕は何も救えやしないのだ。

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