七月二十五日 木曜日 午前

 祖父のことが大好きだった。

 皺だらけの大きくて厚い手は、土の匂いがした。優しい手だった。白髪交じりの短い髪は威厳を保っていた。笑う時の、大きな口。畑仕事で鍛えたという足腰。

 瞳は黒、真っ黒な色。一筋の光を保つ、深い黒。優しい眼をしていた。土の匂いと混ざり合った花の香り。祖母が愛したという、花々。

 この家に漂う祖父の香りが好きだったのは、そこに祖母への愛を感じられたからだろう。亡くなった祖母のために祖父は毎朝、仏壇に花を供えていた。野山で摘まれた一輪の野花。畑で育てた向日葵。庭の紫陽花。梅の花。名前も知らない花。

 畦道を歩くとき、祖父は必ず僕の手を繋いだ。兄が少し先を歩く。従兄弟たちは好き勝手に走り出して、もう見えなくなりそうだった。それが夏であっても、冬だとしても、祖父は決して僕をひとりにはしなかった。

 僕が疲れてしまうと、祖父は僕を背負い、兄が祖父の荷物を持った。改めて思い返してみれば、兄の性格は祖父にも大きく影響されている。

「颯佑は聡い。思慮深い子だ」

 兄も祖父のことが好きだった。大きな手で頭を撫でてもらうと、兄は顔を綻ばせた。

「涼弥は優しい。慈悲深い子だ」

 祖父の低い声を僕は祖父の背中で聞いていた。僕が褒められると、兄は自分のことのように喜んでいた。

 愛されていたのだ。祖父の愛情も、両親の愛情も、兄の愛情もあった。

 その愛情をどこに向ければ良いのか分からず、僕は苦しい。

 与えられる人になりたい。守られるばかりの日々が僕を責めているような気がした。


 夜明けの前に目を覚ました。山の稜線が薄らと白み始めていた。祖父に背負われて畦道を帰る夢を見た。幸福な夢だった。

 僕は枕元の水を飲んで息を吐いた。気の早い蝉がジュッと鳴いて飛び立った。

 熱は三十八度五分まで下がっていた。全身に疲れがあるものの、気分は良かった。夢の名残の幸福感だろう。

 薄暗い台所で藤田さんからお裾分けしてもらったトマトを洗って食べた。相変わらず食欲はない。けれど、食べ物が喉を通った。

 僕は原稿用紙とシャープペンシルを取り出して机の上に広げた。田舎暮らしで意欲が湧くかもしれないとマヤさんは言っていたが、これは祖父の夢を見たからだろう。祖父の思い出を書き留めておきたい気分だった。

 印象的だったこと。心に刻まれたこと。忘れがたい、何か。

 進んでは止まり、進んでは止まり、朝焼けの中でゆっくりと筆が動く。記憶の奥底に眠る祖父のこと、その皺ひとつ、仕草ひとつを思い出す。どこかで見守ってくれているのだろうか。それともどこかにあるという天国で祖母との再会を果たしているのだろうか。今もまだ、低い鼻歌をまといながら庭先からひょっこりと顔を見せるのではないかと思ってしまう。

 死を理解出来ないほど幼くはないし、乗り越えられるほど強くもない。成仏していてほしいと願いながら、傍に居てほしいと望む。僕の心は漂っていた。

 書いているうちに眠ってしまっていた。聞き慣れない車の音で目が覚めた。机に突っ伏していた僕は顔を上げた。夜が明けて明るくなった庭先に黒いSUVが止まっていた。丁度、いつも篤志が軽トラックを止める辺りだ。

 僕はスマートフォンを確認した。午前八時。篤志から電話が入っていたようだが僕はさっぱり気が付かなかった。僕は寝ぼけまなこで車のほうに視線を戻した。篤志が降りてきて濡れ縁からこちらを窺っていた。田舎の人たちは朝が早い。

「おはよう」

 僕たちは互いに朝の挨拶を交わした。篤志はやはり律儀に玄関まで回って家に入ってきた。

「悪い、起こしたか? 一応、電話したんだけど」

 二度寝していたと僕は謝った。

「ごめん、すぐに支度するからちょっと待って」

 僕は急いで洗面所に向かった。歯を磨いて顔を洗う。寝ていた跡が頬に残っていた。服を脱ぎながら廊下を歩く。部屋に戻ってシャツを羽織る。

 篤志は僕の原稿をまじまじと見つめていた。

「リョウちゃん、悪い。勝手に読んだ。あとオレ、リョウちゃんのこと無職かと思っていた」

 しまったと僕は思ったが遅かった。書きかけの原稿を片付けていなかった僕が悪い。どこから漏れてしまうか分からないのだから、僕が小説家であることは家族以外には内緒にしておかなければならなかったのだ。それがマヤさんとの約束だ。

「ああ、だから昨日、先生って呼ばれたんだな」

「マヤさんが篤志にお礼を言っていた。僕からも言っておくよ、色々とありがとう。マヤさんは僕の担当なんだ」

「へえ。そういうこと、オレには分かんねぇや。それよりもリョウちゃん、字が上手だな」

 篤志は原稿の中身よりも、僕の筆跡のほうに興味があったらしい。

「ああ、母親の影響だよ。昔から、勉強しろとか言われたことはなかったけれど、字は綺麗に書きなさいって言われてきた」

「リョウちゃん、朝飯は?」

「あー、トマトを食べた」

「そんなもん、朝飯なんて言わねぇよ。途中で食べて行こうぜ」

 篤志がそう言ったので、僕たちは朝食をどこかで食べることとなった。ふと僕は肝心なことを聞いていないことに気が付いた。

「そういえば、診察時間とか聞いていない。というか、八時に来るとは思わなかった」

「だって言ってねぇもん。抜き打ちで来ないとリョウちゃんは何でもないフリをするだろう。それに、今日は木曜日だから医者は休みだぜ」

 何の悪気もなさそうに篤志がそう答えた。僕は篤志の背中を見た。視線に気が付いた篤志が僕を振り返る。

「だから特別診療。時間は何時でもいいってよ。それなら涼しいうちがいいかと思ってさ」

「酒屋の仕事は大丈夫なのか」

「リョウちゃんは心配しなくてもいいんだよ、うちの両親は元気だからな」

 僕が原稿用紙を片付けて布団を畳んでいる間に、篤志は戸締りをしてくれた。それから、行こうぜ、と言って、篤志は入ってきたときと同じく玄関から出て行った。僕は財布とスマートフォンと鍵だけを持って家を出た。

 篤志の車は近くで見ると黒ではなく紺色だった。里見酒店の軽トラックよりも乗り心地が良かった。


 車は山道を走る。林道は爽やかで、木々の間から差し込む光が山を色鮮やかに照らしていた。車内には古い洋楽が流れていた。

「曲、好きなの掛けてくれていいぜ。でも電波が悪いから気を付けろ」

 篤志はそう言ったけれど、僕はそのまま往年の名曲を聴いていた。白黒映画のワンシーンが浮かんでくる。

 十五分ほどで上郷に出た。上郷の景色は奥郷とさほど変わらない。人口が少し多いくらいだ。僕たちは上郷の駅前にある喫茶店で朝食にした。篤志はホットケーキを、僕はハムのホットサンドを頼んだ。篤志はどうやら甘いものが好みのようだった。

 上郷を抜けて川を渡る時に橋から下を覗けば、川遊びをする少年たちが目に入った。この町は上流にあるので、どこへ行っても川の水は清く澄んでいる。本郷と下郷の間にはキャンプ場もあるはずだ。少年たちは大きな岩から次々に飛び込んでいた。夏を満喫する少年たちの姿が眩しかった。

 中郷は谷底にあるような集落だ。この辺りは地形が少し複雑で、グネグネと曲がりくねった道が続く。露出した山肌はゴツゴツとした岩が多い。鉱物を採掘していたという話も聞くし、天狗が削った山だという昔話も聞いたことがある。昔々の山崩れの名残だと聞いたこともあるので、実際のところどの説が正解なのか不明だ。

 蛇のような道を進むと下郷に出る。深緑の山の中に、神社の茜色の鳥居が点々と続いている。町の夏祭りはあの神社の祭事だ。幼い頃の記憶では、急な石段の先に本殿があったように思う。僕はいつも祖父に背負われていた。

「そういえば」

 僕は鼻歌混じりの篤志に話し掛けた。

「今年の夏祭りにはハコがあるとご近所さんたちが言っていたけれど、ハコって何だ」

 あー、と篤志は困ったように答えた。

「オレもハコが何のか知らねぇんだけど、ハコのある年は本祭ともうひとつ、宵祭があるんだよ」

「そうなのか、行ったことがないな」

「まあそりゃそうだ。ハコがあるのは十年に一度くらいだからな。毎年、春の神事でその年の夏祭りにハコがあるかどうか決まるんだけど、正直なところ、ハコがあると祭が長くなるってくらいにしか思ってねぇから、何って聞かれてもなぁ」

 よく分からん、と篤志は答えた。そっか、と僕は言って神社のほうを見た。茜色の鳥居は山に打ち立てられた杭のようにも見える。不自然な赤だった。


 家を出てから一時間と少しで本郷に着いた。駅前は田舎なりに賑わっている場所だ。高校生たちがダラダラと歩いていた。

「あれ、オレの母校」

 前方の右側に見える校舎を指差して篤志が言った。耐震工事の際に塗り直したという外壁は水色を含んだような白で、青空によく映えていた。篤志はどんな高校生だったのだろうか。きっと、クラスの中心だっただろう。

 高校の手前で車は左折した。しばらく行くと、ここだと言って篤志は僕を車から降ろした。

 弐羽醫院。

 大正時代か昭和初期に建てられたような洋館だった。重圧にも似た重厚感に僕は圧倒されていた。医院の裏手にある駐車場へ車を止めに行った篤志を待つ間、僕は日陰で緊張していた。確か、高校のもう少し先には町立の総合病院があったはずだが、どうやらそこではなかったらしい。僕は医院を見上げた。どこからか誰かに見られているような薄気味悪さがあった。篤志はすぐに戻ってきた。

「これでニワじゃなくてフタハネって読むんだぜ、珍しいだろ。町で一番歴史のある病院だ」

 篤志は玄関脇のブザーを押した。ズーという音が響いて、少しの間のあと、建物と同じく重厚な玄関扉がキーと悲鳴のように軋みながらゆっくりと開いた。

「……どうぞ」

 血の気のない顔をした若い女性が立っていた。僕はいつのまにか篤志の服の裾を掴んでいた。服装からしてどうやら看護師のようだが、とても生きている人間には見えなかった。

 看護師に続いて院内へ入る。休診日とはいえ、言いようのない息苦しさの漂う空間だった。灯りは点いておらず、吹き抜けのステンドグラスから差し込む虹色の光が広がっていたが、それが幻想的だとは思えなかった。むしろ僕には不気味に感じられた。

 不意に視界がぐらりと揺れた。

「待って、篤志」

 僕は掴んでいた篤志の服を引っ張った。篤志が肩越しに僕を振り返る。

「鼻血……」

 空いたほうの手で鼻を押さえるが、みるみるうちに指の間から漏れた血が腕を伝う。篤志は素早く僕を背負った。今朝はずっと体調が良かったはずだった。僕は両手で血を受け止めようとしたが、堪え切れなかった血が篤志の肩や床に散った。痛みはないからいつもの発作ではないが、苦しいことに変わりはない。

「あら、重篤」

 静かにそう言った看護師の表情は先程とはうってかわって生き生きと輝いている。んふふふ、と笑いながら診察室の扉を開けた。

「弐羽先生、急患です」

 狐だと思った。診察室の窓際に立って庭を眺めていた白衣の男性が振り返った時、僕は咄嗟に狐だと思った。細身の長身に、吊り上がった目、弧を描く口元、年のころは恐らくは三十代。長い髪を高い位置でひとつに結って、薄らと笑っていた。

 怖い。僕は篤志の肩を掴んだ。この病院の人たちはどうしてこうも怖いのか。篤志は怖くないのだろうか。僕は目を逸らした。幸いにも血はすぐに治まった。

「君が黒岡涼弥君だね」

 篤志は僕を真っ白なベッドの上に横に寝かせた。ひとりにしないでほしいと、僕は離れる篤志の腕を掴んだ。篤志は僕の表情を見て、背もたれのない丸椅子を引っ張ってベッドの脇に座った。

「年齢は篤志君と同じだから二十五か」

 僕は言葉を発することが出来ず、ただ首を横に振った。看護師が僕の顔の下にタオルを敷いた。続けて僕のサンダルを脱がせて、仰向きにし、シャツを捲る。僕は篤志の腕を離さなかった。

「そうか、まだ二十四だね。身長と体重はまあ後回しかな。細いね、白いし。若い男の肌は綺麗だねぇ」

 シャツを捲って露わになった僕の胸元を弐羽先生はツーッと指でなぞった。冷たい指先に、思わず全身がビクリと跳ねた。掴んだままの篤志の腕に爪が食い込んだかもしれない。「そう怯えなくても食べたりしないよ」

 薄らした笑みを浮かべたまま、弐羽先生は僕の胸に聴診器を当てた。じっとりとした視線が舐め回すように僕を見詰めてくる。

「ふーん、なるほどねぇ」

 弐羽先生はそう言うと一度、診察室を出て行った。看護師が僕の服を元に戻し、体温計を渡した。僕は腋の下に体温計を挟んでゆっくりと起き上がった。心臓が痛いほどに脈が速い。起き上がったものの、僕は呆然としていた。

「大丈夫か」

 篤志の言葉に、僕は曖昧に頷いた。僕はようやく篤志の腕を離した。

 弐羽先生はすぐに戻ってきた。手には分厚いファイルを抱えている。年代物のファイルをパラパラと捲りながら、弐羽先生は僕に尋ねた。

「食欲は?」

「あんまり」

「昔から体が弱かったかな?」

「はい」

「血を吐くようになったのは、最近?」

「高校生になってからです」

 体温計がピピッと小さく鳴った。計測が終わった体温計を看護師に返す。

「三十八度七分」

 看護師は淡々と数値を告げた。

「高いね。いつもこれくらいかな?」

「まあだいたい……もう少し低い時もあります」

 弐羽先生はページを捲る手を止めた。

「これからいくつか質問をする。不躾な質問だ。篤志君には退席してもらったほうが涼弥君のためだと思うんだけどね、どうする」

「あ、オレ」

 立ち上がろうとした篤志の腕を僕は引っ張って押し留めた。

「そう、涼弥君がいいのならそれで構わない。質問は気に障るかもしれないけれど、正直に答えるんだよ。いいね」

 僕は頷いた。

「では始めよう」

 弐羽先生の声を合図に、看護師はカーテンを引いた。薄暗くなった診察室に弐羽先生の声が広がる。

「自分を護るためではなく、他人を蹴落とすために嘘を吐いたことは?」

「いいえ」

「他人に暴力を振るったことは?」

「一度も」

「誰かを殺したことは?」

「まさか」

 質問を重ねるたびに、弐羽先生の細い瞳がさらに細く鋭くなっていく。

「その身体を蝕む何かを、他人の所為にしたことは?」

「ありません」

「その病がなければ、何をしてみたかったかな」

「一度でいいから修学旅行に参加したかったです」

「気の毒に。誰かから憎まれる覚えは?」

「分かりません。でも、自覚のないままに恨みを買っているかもしれません」

 弐羽先生の声は静かで、答える僕の声もささやかだった。時計の針の音がコツコツと規則正しく響いていた。

「他人から理不尽な暴力を振るわれたことは?」

「ありません」

「乱暴をされたことは?」

「いいえ」

「朝がやって来ることに感じるのは、歓喜、それとも恐怖かな」

「どちらかといえば歓喜です」

「眠っているときに夢は?」

「見ます」

「赤と青はどちらが好きかな」

「青です」

「理由は?」

「夜の迫る藍色の空が好きなので」

「なるほど。ではもう一度尋ねよう。誰かに乱暴されたことは?」

 鋭い眼差しが僕の瞳を射抜く。僕は一度口を開いて、閉じた。息を吸って、吐き出す。それから答える。

「ありません」

「一番悲しかったことは」

「祖父が亡くなったことです」

「一番つらかった思い出は?」

「代わってやりたいと兄が泣いたことです」

「一番苦しいことは」

「……生きているはずがないと言われること」

「よろしい、ではこれが最後の質問だ」

 僕は頷いた。

「目には見えないものに力が宿っていると信じるかい?」

「……たとえば?」

「祟り、呪い、幽霊。そういった心霊現象もそう。悲哀、友情、希望。そういった心象も、そう。ありとあらゆる可視化出来ないものたちに、何かしらの力があると涼弥君は信じるかな」

「信じます。僕はそう信じたい」

 僕の答えに弐羽先生はクックッと喉で笑った。そうかと思えば、突然、大声で笑い始めた。僕は篤志を見た。篤志も何が起こったのかと驚いた顔をしている。

「ハーッハッハッ! 実に! いや実によろしい!」

 狂ったように笑っていた弐羽先生は唐突に僕の両頬を手で挟み込んだ。グッと顔を近づけてくる。

「涼弥君。君はよくこの町に戻ってきたねぇ」

 僕は弐羽先生の手を払いのけようとしたが、力ではとても敵わない。僕がもがいても、弐羽先生は僕を捕える力を緩めない。看護師がカルテでスパンと弐羽先生の後頭部を叩いた。

「先生、患者が困っています」

「おっと失礼」

 弐羽先生は窓際までコツコツと歩き、カーテンを開けた。日差しが差し込み、診察室が明るくなった。

「本物を目にするのは君が初めてで、少し興奮しすぎたようだ」

 僕には先生が何を言いたいのか分からなかった。

「ふふふ、柏木さん、この子らを応接室に案内してくれ。私はお茶の準備をしよう」

 弐羽先生がそう言ったので、看護師、柏木さんが僕たちを促した。柏木さんは無表情に戻っていた。


 応接室は豪勢だった。ソファーはフカフカで、高そうな調度品が並んでいた。ソファーに腰掛けた僕たちはどちらからともなく引っ付くように座っていた。部屋の隅に立つ柏木さんが僕たちのことをじっと見ていた。綺麗だが、人形のような人だ。

 弐羽先生はご機嫌な様子で現れた。僕たちの前にアイスティーを置く。弐羽先生は僕たちの向かいに座った。白衣は脱いで、無地の黒いシャツを着ていた。それは今から話す内容が、医者としての見解ではないということだろうか。

「スケープゴートという言葉を知っているかい」

 質問の真意が分からず、僕は眉をひそめた。

「身代わり、ですか」

「そういう意味の英単語だね。身代わり、生贄。もともとは聖書に由来する言葉だ、ヘブライ聖書、いわゆる旧約聖書だ。読んだことは?」

 僕と篤志は首を横に振った。

「宗教的な儀式だ。簡単に言えば、自分たちの罪を山羊に背負わせて、野に放つんだ。それで人間たちの罪は赦される。それがスケープゴートの原義だよ」

 はぁ、と僕は曖昧に頷いた。弐羽先生は続ける。

「ユダヤ教だけでなく、世界中どこにでも似たような話はある。古代ギリシャでも、アステカでも中国でも。人身御供というのは理由や目的がどうであれ、選ばれた者にすべてを背負わせる、興味深い習慣だよ」

 僕は弐羽先生を見た。それから柏木さんを見て、篤志を見た。グラスの中の氷がカランと音を立てた。

「……僕が、それだと?」

「話を続けよう」

 弐羽先生は僕の問いには答えなかった。

「もちろん、日本においてもそういった因習はあった。人柱という言葉なら聞いたことがあるだろう。雨乞いの時や、橋を築く時などにね」

「先生」

 僕は弐羽先生の言葉を遮った。心臓の辺りがギュッと掴まれたように痛む。しかし、そんなことはどうでもいい。熱も上がっているだろう。けれど、そんなことを気にしている暇はない。

「……先生」

 縋り付くような声が出た。僕は視線を自分の膝の上に落とした。握りしめた手が震えていた。ここに答えがある。この人は答えを知っている。ずっと求め続けてきた答えが、今ここにあるのだ。

 やれやれと弐羽先生が小さく笑った。

「知っているかい、涼弥君。今年の夏祭りにはハコがあるんだよ」

 弐羽先生はそう言うとアイスティーをかき混ぜた。カランコロンと鳴る氷の音がいつまでも耳の奥にこびり付いていた。

 そのハコの中には人々の罪や苦難、懺悔といったものが詰め込まれているのだと弐羽先生は言った。

「お天道様に顔向け出来ないとか言うように、外には見せられない秘密というものを誰しもが抱えているものだろう。だがそれはいつの日か天に、神に、あるいは世間に赦されなければならない。そのために人々はハコに負の感情を溜める」

 僕のアイスティーはグラスの中で分離していた。グラスを伝った結露がコースターに染み込まれた。僕は拳に込めた力を抜くことが出来なかった。

「そのハコを開くのが宵祭だ。長ったらしい祝詞を連ねるだけの退屈な神事だ。その後、役目を終えたハコは壊される。というのも、通常、ハコはその名の通り、ただの木箱だからだ。ハコと呼ばれる木箱は神社に保管されている。誰もが、神社にあるそれをハコだと信じている。ハコの選び方については宮司にでも聞いてくれ」

 長い溜息を吐き出した弐羽先生は身を前に乗り出した

「弐羽醫院の歴史は長いが、君のような患者の診療記録は片手で数えられる程しかない。最後の記録は戦前か戦時中だ。だが、別の言い方をすれば、極めて稀な例だとしても、ハコが神社にある木箱ではなかった年があるということだ」

「僕がそのハコだとして、この不調との関連性はどこにあるんですか」

「人を呪い殺せると思うかい?」

 弐羽先生は僕と篤志を交互に見た。

「丑三つ時に五寸釘で、不幸の手紙で、コックリさんでもいい。呪いが人の命を奪うと思うかい?」

 出来るとも思うし、そんなものは馬鹿げているとも思う。咄嗟に答えることが出来なかった。僕と篤志は黙った。

「君は答えたじゃないか。目には見えないものにも力が宿っていると。呪いなんてその最たる例だ。ハコに詰め込まれた恨み、妬みも憎しみも、生命力を奪うには充分だろう。生きているはずがないというのは、本当のことだ。たとえそれが君を傷付ける言葉だとしてもね」

 深刻な表情をしていた弐羽先生は急に笑顔になった。

「生きているはずのない君が、こうして生きている。それがどういうことか分かるかい。つまり、君の息の根を止めようとする呪いの力と、君を生かそうとする祝いの力が、君の中で戦っているわけだ」

 僕は篤志と顔を見合わせた。

「マイナスの力があればプラスの力もあって然るべきじゃないか。そうだろう。そうでなければ不公平だ」

「僕を生かそうとする力、ですか」

「身に覚えはあるだろう。熱を出したら家族が看病してくれたのではないかい。君の将来のことを考えてくれる人は? 弱ったときに支えになる存在は?」

「それは……」

 この身をもって思い知っている。僕は決してひとりではないのだと、僕は分かっている。僕を愛してくれた祖父も、朗らかに育ててくれた両親も、過保護な兄も、お節介な篤志も。僕は知っている。悲しくなる程に知っている。

「自覚しているのならそれに越したことはない。大事にしなさい。医学の世界でもそうだ。奇跡を起こすのは憎しみではなく愛情だからね。こう見えて私は奇跡というものを信じるタチだ」

 僕は両手で顔を覆った。全身から力が抜ける。涙が零れた。僕の命を願ってくれる人たちがいる。理不尽な呪いの中に輝く光がある。篤志が僕の肩を抱いた。

「お取込み中のところ、ひとつよろしいですか」

 柏木さんの声に、僕は指の隙間から柏木さんを見た。柏木さんは淡々とした声で言った。

「お忘れのようですからお伝えしておきます。宵祭のクライマックスはハコを破壊することです。涼弥さんがハコだと知られたならば、どうなるでしょうね」

 その言葉に、僕の身体は再び緊張した。重たい何かがドッとのしかかってくる。

「バレなきゃいいんだろ。それに、たとえバレたとしても、悪いようにはしないだろう」

 篤志の声が震えていた。僕の肩を抱く手から不安が伝わってきた。柏木さんはツカツカと歩み寄ってきた。

「そうだといいのですけれどね。壊されずして贖罪が達成するのでしょうか。すべての神事が完結しなければ、呪いは終結しないかもしれませんよ。愛が奇跡を起こすと先生はおっしゃいましたが、わたし、愛に救われるより、愛が止めを刺す結末のほうが好みですので」

 意地悪な声で柏木さんがそう言うと、篤志は柏木さんから守るように僕を引き寄せた。威嚇するように篤志が言う。

「アンタはリョウちゃんを殺したいのか」

「いいえ、まさか。男同士の熱い友情は大好物ですよ。ですから貴方たちのために進言したのです。本祭は八月三日、宵祭は八月十日。楽観的なことばかり言ってはいられません」

 ひとまず、と柏木さんは続けた。

「ハコのカルテをご用意しますね」

 少しも表情を変えずに柏木さんは言った。

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