偶然よりも確立が低い

あおいまな

第1話偶然よりも確立が低い

名古屋から特急で北上すること三時間、山に囲まれた盆地の田舎町で、おれは生まれ育った。


 春が遅く、夏は日差しが強いものの爽やかで過ごしやすい。一方で、秋は短いうえに早足で、冬は長く雪に埋もれる。


 町の人口は約五万人。とはいえ、面積が東京都とほぼ同じなので人口密度は低い。特急が停まる駅周辺の地域がもっとも栄えており、おれもそこに暮らしている。


 飲食店、商店街、旅館にホテルもあるが、駅前の横断歩道には信号がなく、ロータリーの横の駐車場は無料というのどかさだ。


 名所といえば、真っ先に浮かぶのが衛門岳えもんだけ、この町のシンボルだ。二千メートル級の高さを誇り、町の南西に鎮座している。町中のどこからでも雄大なその姿を眺めることができた。


 そして那珂川なかがわの渓谷。こちらは町の南東に位置しており、切り立った両岸の幅は約二百メートル。真ん中を大きな岩を避けるようにして澄んだ水が南へ向かい走り下っている。夏は釣り人が立ち、秋は川沿いの紅葉が美しい。川に近い場所へ降りて見上げてもよいが、川から約二十メートルの高さにかかる国道の赤くて長い鉄橋から全体を見渡してもいい。


 さらに、三ッ滝。北東の加賀山から南の那珂川へと流れ込む支流の保室ほむろ川が作っている。川幅は約八メートルと狭いが落差が大きく、約十メートルの高さからに三段階に渡って落ちる滝は一見に値する。


 その先には、はやて温泉。少し離れた山腹にへばりつき狭い山道さんどうの先にある。旅館は二軒程度だが、源泉かけ流しの湯が豊富で地元民が通っている。


 町の西は平坦で白樺林や森が広がっている。衛門岳が町中よりも間近に望めたので、ペンションや別荘が多少あり、都会に家があるひとたちが都会の風をもって憩いにやってきた。


 駅前に戻ると、駅前大通りの約二キロメートル先に、町で一番大きな神社がある。


 町の唯一のイベントは、この大きな神社で催される夏まつりだった。


 目玉は江戸時代から続く人形の浄瑠璃。上演後の盆踊り大会も人々の楽しみであり、その日は町に大勢の観光客が詰めかけた。




 一年前、おれは二十三歳だった。


 あの八月の日のことをよく覚えている。


 夕方、いつものように職場からスポーツタイプの自転車で二十分走り、ひとりで暮らすアパートの部屋へ戻った。


 午後休が取れなかったため、汗にぬれた服を脱ぎすてると、大急ぎでシャワーを浴びてドライヤーで髪を乾かす。窓辺のハンガーからデニムのパンツをとり、“No Life”と書かれた洗いたての白いTシャツを着る。鏡を覗いてツーブロックのヘアスタイルを適当に整え、再びスニーカーに足を突っ込んで紐を結ぶと、小さなリュックをつかんで部屋をあとにした。


 表に出て、また自転車に乗ろうとしたところで初めて風が運んだお囃子に気づいた。


 それでも、ペダルをこいで行ってみる。


 あそこへ向かうための近道にしていたはずの神社が、黄昏のなか赤々と薪に照らされているのを見て厄介に感じた。


 今日がその日だということを忘れていた。少し迷ったものの自転車から降りてそれを押した。


 裏門から境内に入ると、夏まつりの主役であるからくり人形の上演はすでに終わっており、ぼんぼりが灯るなか、集まった大勢の人々が、浴衣の者も、そうでない者も、うちわで扇ぎながら盆踊りの始まりを楽しそうに待っていた。


 それを避けると、屋台の呼び声から逃れつつ、にぎやかな長い参道を人の流れに逆らって表へ向かった。


 石畳に弾む下駄の音が、突然、耳に響いた。


 顔を上げると、誰かと話しながら歩いてきた彼が目に入った。


 屈託のない笑顔。


 明るい色の柔らかそうなくせ毛は額で分けられて首の後ろで小さく結ばれている。少しだけ頬にかかったところがとても美しく心を奪われた。

藍染の浴衣もよく似合っていた。


 彼がおれに気づいた。長く目があったが、そらされて、おれもよそを向いた。


 通り過ぎてしばらくしてから足を止め、もう一度見ると彼も振り返っておれを見つめた。


 サドルが固定されたように動かせなくなった。


 視線をさまよわせたあと、自転車を持ち上げて行列からはずし屋台の裏手の林に押し込んだ。


 その日のうちに、おれの部屋で体を重ねた。


 二十歳だと聞かされた。


 部屋の外の名札は裏返してあり、お互いに名乗らなかった。そのまま、別れた。


 思いのほか、引きずった。


 落ち葉が舞い、雪が積もっても、人気ひとけのない参道に立って彼を探した。桜が散り、青葉がきらめき、ひぐらしが鳴き出すと、望みを託した夏まつりが来た。


 にぎわう参道で彼を見つけた。


 彼が見つけやすいように、おれは去年と同じ格好でいた。


 彼は、髪を結んでおらず、波がプリントされた水色のTシャツに、紺のハーフパンツ、カジュアルな黒い靴を履いて、ひとりで立っていた。


 その手をつかんだ。


 屋台が並ぶ参道から離れて脇道に入り、山腹にある小さな稲荷へ続く苔むした石段を上った。


 もっともっと高いところへ行って、ふたりきりになりたかった。一刻も早くキスをしたかった。


 だが、二十五段目で彼は足をとめる。


「去年のことは奇跡です。どういうことかと言うと……。偶然よりも確立が低い。ぼくがあなたと抱き合うことは二度とない」


「それを伝えに来ました」


 長い一年がすぎて再会した彼が発した言葉に、おれは落胆した。


 だが、ごまかしようのない愛しさが強くこみあげて掴んでいた手を離し、おれより細い体を抱きしめると耳元でささやいた。


「偶然よりも確立が低い奇跡を日常にはできないのか」


 彼は目を閉じた。


 二度とないはずの夜をふたりで越えた。言葉にならない声をあげて、それぞれの四季をさかのぼった。


 二度目の朝を迎える。


 知りたいことがたくさんある。


 同じシーツで横になり背中から腕を回すと、彼は手を重ねてきた。

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