第27話 「来訪者」

 あの事件から数日が経過した。


 ついこの間あんなことがあったばかりではあったが、ヨハナは礼一少年をミヤシタ商会に送り出した。


 腕の件で一週間の休みが出たらしく、それでしばらくは刃物を持つことすら少し怖くなっていたヨハナの代わりを勤めていたが、ヨハナが、もう大丈夫だから、と伝えたのだった。


 いつまでも自分がまだ怖く思っているからといって子供たちに朝食を作らないわけにはいかない。


 何しろ朝は誰にでも平等にやってくるのだ。これは神が決めた世界の法則だ、とヨハナは知っていた。

 この孤児たちにも、商人の息子や娘にも、顔も名前も知らない異世界の人たちにだって、それは平等だ。そして、神はその与えた一日がどのように使われたのか見ているのだ。


 だから、昨日がどうあれ、今日を休む理由にはならない。


 欲なく、正直に、純潔を守り、そして神を信じていなければならない。


 それが教えであり、つまり彼女の行動倫理だった。


 その行動倫理に従えば、次は洗濯をするのがよいだろう、とヨハナは考えた。たらいいっぱいに水を貯めて、そこにそれなりの量の洗濯物を入れて、裸足でそれを踏むのだ。これが中々に疲れるのだが、遊びたい盛りの子供たちには丁度いいようである、というのが今までのヨハナの所感であった。


 事実、今回も、子供たちの何人かはヨハナの後ろに着いていて、彼女がたらいを持った途端に各々の方向に走り、一人は仲間たちへそれを伝えに、また一人は何人かと一緒に洗濯物を取りに、また他の一人は仲間の分のたらいを取るのを手伝った。


 そうして、ヨハナが気持ちいい日差しを浴びながら、裸足になってたらいの中のそれを一生懸命に踏んでいた。と、一台の車が孤児院の前に止まった。


 すると、魔導エンジンも切らないで中から慌てたように少し年輩の男性が飛び出してきた。背の高い方のヨハナよりも更に背の高い男だった。


 というのも、孤児院の塀から目元から上が見えていたから分かったことだ。身体的特徴はこの前の通り魔に少し似通っていて、少し怯えたものの、七三分けの髪型はいかにも真面目そうで、例の男がしそうにもないものだった。


 開きっぱなしにしている門から躊躇う様子もなく中に入ってくると、ヨハナを見つけて、「この孤児院の方ですか!?」と、いかにも余裕なさげな表情で彼女を呼んだ。ヨハナは洗濯を続けるように、つまりはそこにいるように子供たちに告げ、その応対に行った。


「そうですが……どうかされたんですか?」

「私はミヤシタ商会のものですが……その、礼一君が通勤中に例の通り魔に襲われたようで、それで今病院にいるので、今すぐ着いてきていただけますか!?」


 心臓を悪魔に捕まれたように思えて、ヨハナはそこに倒れそうになった。そんな、と膝から崩れ落ちそうになるが、子供たちの手前、それだけは何とか避ける。


 自分が送り出してしまったから、と自分をつい責めてしまう。


 そうするな、と彼はこの前の件で言ったけれども、これはヨハナのヨハナたる所以ですらあり、一朝一夕に治るものではなかった。何より、そう言ってくれた彼が今死のうとしているのだから、そうなってしまうのも仕方のないことだろう。


 こちらへ、と塀の外に停めてある車――ドアは開け放たれたままであった――やや老いた姿の彼に勧められるまでもなく、ヨハナはそこへ吸い込まれるように歩いていった。走らなかったのは単に服装がそれには向かないからである。


 しかし彼女は確かに走るべきだったのだ。だがしかし、それは少なくとも車に向かってではない。車から遠ざかるように、彼から逃げるように走るべきだったのだ。だがもう遅い。初老は開け放たれた門から死角になることを確認してから、彼女を手刀で一撃した。


 ふっ、と彼女の意識はここで消失する。


 首に打撃を受けて倒れたヨハナを、地面との衝突音がしないように老人は受け止めた。礼儀正しそうな七三分けにしていた髪型を、ブンブンと乱暴に頭を振っていつもの乱雑無秩序ヘアスタイル未満に戻す。


「連日で肉体労働はするもんじゃないなぁ」


 と、呑気にそう言って、気絶させた彼女の口に縄を噛ませて、即席の猿轡にしつつ、手足も縛った。その後魔導車の後部座席にそれを放り込むと、ペダルを思いっきり踏み込んで、ルメンシス郊外を後にした。


「さあて、最終段階と行こうか、礼一君。僕も久しぶりにちゃんと顔が見たいんだよ」


 老人はそう言って、ギラギラギトギトとした目を輝かせ、その目尻に届かんばかりに口角を跳ね上げて笑った。


「状況開始だよん」

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