第24話 「ワンス・アポン・ア・タイム」

 ヨハナと礼一少年が店を出たのは入ってから一時間ほどしてからだった。その一時間で孤児院の子供たちは、食事の分け前の不平等などの「社会矛盾」や日頃の様々な軋轢が噴出し「青銅派」と「真鍮派」の二派閥に別れ内戦寸前になっており、二部屋に陣営を分かち、布団やタオルを塹壕代わりににらみ合うほどになっていたのだが、それはもちろん礼一少年たちには知る由もないことだ(後にその対立は『ヨハナのカミナリ』によって調停された)。


 彼がその一時間を経て思っていたのは、その一時間が本当に経ったのかということだった。見渡す限り、市場は一時間前と同様、形而下的にも形而上的にも鮮やかでカラフルで色とりどりであった。


 ある一角のある商人は「ふっかけ」、ある旅人は値切り、ある人はその商人が最初から旅人がそうするを見越していたのを知っていてニヤニヤと意地悪く笑っていた。


 またある一角ではおしゃべりの好きそうな母親が八百屋の親父と、近頃物騒だけどお宅はどうですか、などと世間話をしてはその足下にいる子供たちを退屈させていた。ただその退屈は息子と八百屋の娘の出会いを促し、そこに甘酸っぱい恋ともまだ呼べぬ恋の物語が生まれたのだがそれはまた別の話。


 そことは更に別の一角では、魔導拳銃を腰につけた、「元の世界」でいうところの警察官に当たるらしい男がサンドイッチを食べながらそこの看板娘にあれやこれやと言い寄っていた。娘も世間話程度に留めながらも、時折は男の語り口に耳を傾けそれを頬と一緒に赤くしていた。それを近所の悪ガキ共が寄ってたかってからかいに来たので、娘が炎でも上げるのではないかというほど恋とは別に顔を真っ赤にして追い払った。


 往路は見えていなかったのに復路ではこうしてはっきり分かったのは、礼一少年がその多さにやや慣れたせいなのだろう。余裕がやや出てくれば、その細かな様子も見えてくる。人々の、民草の、一市民の、そういう素朴な暮らしはさながら何かの芸術に描かれたもののようですらあった。タイトルを付けるなら「ルメンシスの市場にて」……これはあまりにありきたりか、と礼一少年は思った。そこに関してはもう彼がそういうセンスに全く欠けていたのが悪い。


 しかし、今少しでも礼一少年に時間があって、そういった芸術的センスもあって、かつ道具がそろっていたならきっと彼はそれをキャンバスに写し取ろうとしたに違いない。


 往路までの驚愕に近い感動と違い、今はそういう芸術性の強い感動であった。それにおいては、よりヨハナが感じているものに近くなったと言えよう。そこにはかなり大きな隔たり――それは彼らの過ごしてきた時間差と合同な長さを持っている――があるのだが、礼一少年にとってはその近づいた一歩が最も偉大な一歩であったように感じられた。


 「ローマは一日にしてならず」、ということだ。


 ……この世界ではひょっとすると「ルメンシスは一日にしてならず」とでもなるのかもしれない。


 とにかく、礼一少年は少しでもヨハナを理解したかったし、こうしたことをもっと明かしてほしかった。もっと近づいて、ずっとそうしていたかった。彼女に直接それを伝えなかったのは、彼の遠慮がちな性格故か、単にそれが怖かったのか……あるいはそのどちらもかである。


 だから彼にできたのは日頃においては孤児たちの世話を手伝うことだったり、裏でコロシアムに出てその賞金で家計を助けたり、今この場においては、人混みの中にいてはぐれそうだからという方便で彼女にギリギリまで近づくことだった。もちろん節度を持った上で、である。太陽の色をした長い金髪が彼女の一挙手一投足に従って揺れる。時折礼一少年が着いてきてるかと彼女が振り返ると、そこに今日の青空のような瞳と少しそこに浮かんでいる白雲のような肌が加わって、たった一人で空模様を表すようだった。


 晴れ晴れとした空模様の下、晴れ晴れとした空模様に着いていくと、そう長く歩かない内に市場の出口に着いた。出口と言っても、何かゲートのようなものがあるわけではなく、人通りや建物の並びが変わるから、何となく雰囲気が変わるだけのことだった。しかしそこを一歩出た瞬間に礼一少年は少し寂しいようなそんな気持ちがした。その気持ちに足を取られて、立ち止まってしまった。


「先生」


 立ち止まったことに気づかず数歩先へ行ったヨハナが振り返った。意外そうに少しその宝石の目を見開いている。それから、清楚な唇が、どうしたんですか、と呟いた。


「また、いつかでいいのでもう一度一緒にここに来てもいいですか」


 何だ、そんなことですか、とヨハナは微笑ましそうに笑った。礼一少年は何となく恥ずかしかった。からかうような声でも表情でも性格でも彼女はなかった。それなのに自分の顔が赤くなったのは、きっと暑さが悪さをしたのだ、と思うことにした。そして、来たい理由はあのパスタのせいにして、それだけは口にして伝えた。すると彼女は、パスタという言葉を聞いた途端に笑顔の種類を変えた。子供が自分のドジを取り繕うのを見るような顔をした、そんな風に礼一少年には見えた。


「もちろん、構いません。でも、今度ですよ? それに毎日はあのパスタを食べるわけではありませんからね?」


 礼一少年はそれに苦笑するしかなかった。それもそうだ、外食というのは基本的に少し高い。自分だけ得をするということは滅多にしないのが彼女だ。それに普段は夕方に出掛けて買いに行くから、食べる必要もないわけだ。


「ふふっ、レイイチさん、案外美食家なんですね? それだったら、毎日あそこのパスタを真似てみましょうか?」


「あ、いえ、そういうわけではなくて……」


「冗談ですよ、そんなに困らないでください」


 そう言ってヨハナは更に目を細めた。普段あまりしたいことだとか、されたいことだとかを言わないレイイチが「自分」を少し見せたのが、何というか不思議だったが同時に嬉しかったのもある。


 しかし、対して、礼一少年は自分の頬が何故か引きつっているのに気がついた。ヨハナが笑っているのが気に食わないということでは全くないのに、何か笑っていられないことが、そういう危険事態が迫っているような気がしてならなかった。頭の中は警報が鳴り響いていた。


 しかし体は動かない。


 いや、どう動くべきか分からないという方が正しい。


 だから、建物に切り取られた空の中の太陽が礼一少年の頭の天辺を炎のごとく熱しているだけだった。その熱さとアラーム音とを誤魔化すように、笑うふりをした。ヨハナは鈍いからそれに気づいていない。


 彼女の後ろに迫る、「それ」にも。


 それはこの街に似合わないほど真っ黒で、この昼間だというのに真っ暗だった。しかし、出口近く、すぐそこの角から姿を現したそれに誰も気づいてはいない。誰もの視界の盲点に入り込んでしまっているかのようでもある。しかしそれは礼一少年には知覚された。


 それはゆっくりと近づいてくる。歩いているのだ。それを含めても奇妙なことは何もしていない。奇妙な見た目というだけだ。奇妙な見た目ならいくらでも、この辺りにはいるじゃないか。自分の感じていることは気のせいだ。


 気のせいだ。


 気のせいだ。


 気のせい……ではない!


 次の瞬間には、礼一少年の勘はその闇の集合体の右手の辺りに向いていた。


 そこには、ギラリと銀色に輝くオリカルクム製のナイフがあったのだ。それが近づいてくる。ゆっくりと呼ぶには速く、素早くというには遅い、絶妙な速度で、その殺意が近づいてくる!


 「あのとき」に似ている、と礼一少年は思った。細かいところや細かいイメージは異なるが、この蛇に睨まれたようなゲッソリとする生物的な感覚はこの世界に来るときに二度も味わったものとよく似ている。どちらも、どれも、悪意のようなマイナスイメージが破壊の原動力になってこちらやあちらに向いている。


 いや――今、完全にこちらに向いた! ドロドロギラギラとした血走ったような狂気の目! 何もかもを失って、もう奪われるものがなくなった人物特有の、既視感のある攻撃的な目!


 ヨハナは気づかない。気づいていない。足音に気がついて振り返っても、そこに何があるかを理解していない。悪意に疎く殺意に鈍い彼女は、形而上的にも形而下的にも、何が自分に向けられているかに無関心で、無頓着ですらあった。彼女は笑顔を浮かべたままだろう。そうして、そのまま自分が何をされたのか理解しないまま、冷たく何もないところへ沈んでいくのだ。


 それを思ったとき、礼一少年の足はようやく見えない鎖を引きちぎって前に出た。そして彼女の名前を叫ぶ。

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