第11話 「まどろみの中へ」

 下手なカメラマンが撮影ミスをしたみたいに、礼一少年が瞬きをした次の瞬間にはどこかのベッドに彼は寝かされていた。ひょっとすると現代に戻れたんじゃないか、アレは全て夢だったのではとほのかな期待を抱いたが、布団の端に書いてあった文字はやはり文字化けめいて見える例のそれであった。もちろん、礼一少年は少しばかりそれに失望した。


 寝ぼけているのか、頭にもやがかかっているような状態で礼一少年は部屋を見回した。そこに以前のトラウマがあったのは言うまでもなかろう。しかしそこにあるのは黄ばんだカーテンでも、ボロボロの棚でもなく、椅子に座ってうたた寝している一人の女の子だけであった。こじんまりとした部屋で眠る十歳にも満たないあどけない顔が、変に汚れていない寝具類と一緒にここは安全だと訴えた。礼一少年はいつの間にか恐怖に高鳴っていた心臓がゆっくりと静まっていくのを感じた。


 そのまま何となく少女を眺めていると――誤解を招かないように言っておくと、礼一少年は単に起こすべきか否かを悩んでいたのであって、突如としてロリータコンプレックスであるのを暴露したわけでも、それに目覚めたのでもない――彼女はパチリと目を開けた。それから礼一少年と目が合うと、何かの使命を思い出したようにドアへ駆け出した。ちょっと、と礼一少年が声をかけるのも聞こえていないようである。彼としては、せめてここがどこなのかだけでも聞いておきたかったのだが。


 それから程なくしてドアの開いて、さっきの彼女とそれより何十センチか背の高い女性が入ってきた。彼女には見覚えがあった。あの灼熱の道路で礼一少年を起こしたあの女性である。


「よかった、お加減はいかかですか? こんな狭い部屋で申し訳ないのですが」


 と、彼女は優しそうな声で言った。そのとき、礼一少年はようやく彼女を細部まではっきり見たのである。柔らかそうな白い肌、光るような金髪。なだらかな垂れ目の真ん中には青い目があってそれがまたダイヤモンドのようであった。ならば先ほどの金髪は金細工とでも例えるのがよいだろうか。顔全てが学校の美術室にあった彫刻のように均整が取れていた。そしてそれはその下の体においても同じようで、禁欲だとか清貧だとか純潔だとかを想起させる修道女めいた服装ですら隠せない美があった。もし彼女が世俗的服装でいたなら、そしてその生き方を選んだのなら、彼女はシンデレラだって蹴落とすことができるだろう。しかしもちろん彼女はそんなことはしない。現に礼一少年を、薄汚い格好をしていて道端に倒れていた異国風の不審な少年を助けているのだから。


 礼一少年はここまでしてようやく、何か自分の中に奇妙な心情があることに気づいた。礼一少年は今まで、肖像画を描き得るのではないかというほどに人をしっかりと細部まで見て、瞼を閉じれば姿が思い浮かぶほど強く深く誰かを想ったことはなかった。それは心地よかった。そのくせ胸が苦しかった。しかしそれは今までの緊張や恐怖の苦しさとは違って重苦しくなく、味覚で例えるならどちらかといえば酸味で、視覚で例えるならクリーム色で、嗅覚で例えれば摘みたての苺のような爽やかな香りであった。


「私の名前はヨハナ・フェーゲラインと言います。気軽にヨハナと及びくだされば嬉しいです」


 水辺に咲いた小さな花のような口が清流の立てるような慎ましい音を紡いだ。礼一少年はそれに聞きほれている自分がいることに少しばかり戸惑いながら、自分の名前を答えた。


「ナカジマ・レイイチさん――えっと、レイイチが姓でしょうか?」


 ヨハナが戸惑うのを見て、レイイチは慌ててそれに訂正を加えた。自分の母国では姓を先に表記するのだ、と打ち消した。少しぼうっとしていたに違いない。でなければ、こんな外国人名の単純なルールを忘れているはずがない(もちろん、彼女の話す言語を日本語であると『認識』しているというせいもあるのだが)。


 礼一少年は、その動揺を打ち消した。動揺するべきではない。動揺は、結局のところ思考のまとまりを阻害するだけだ。


 彼は彼女の顔を見た。慈悲に満ちた微笑みが優しく彼を不思議そうに眺めた。彼は、彼女の全てを信頼することにした。


「その、フェーゲラインさん」


「ヨハナとお呼びください」


「……フェーゲラインさん」


「ヨハナと」


「…………ヨハナさん」


「うふふ、何でしょう?」


 礼一少年は彼女の深く引き込まれそうな瞳を見て言った。


「この世界のことを、教えていただけませんか――僕は、転生者らしいのです」




 礼一少年は実はあの道路での会話の後、意識が朦朧としてしまったのだ(故に礼一少年はそのことをよく覚えていない)。答えは簡単、熱中症・脱水症である。一日何も飲み食いせず汗をかき続ければどこの季節であれどの人物であれそうなる。だから、そのままでは危険だと思ったヨハナが引き取ったのだ。


 どこに? ――彼女の所有する孤児院にである。


 彼女は見た目通り聖職者で、まだ若いながら教会の運営する孤児院の院長であった。ここルメンシス教国首都たるルメンシスでポピュラーなその名もルメンシス国教会所属であるそうで、北方の「神聖帝国」ではまたこれとは別の宗派があるとのことだった。礼一少年は毎年年末にはクリスマスを祝い、除夜の鐘を聞きながら紅白歌合戦を見て、それから初詣に行くような典型的日本人だったものだから、あまりその宗派対立というのは馴染みのないものだったが、しかしその地理的情報――質問したらなんと地図まで見せてくれた――は非常に有益なものだった。その地図に示されていたのはやや見慣れない形ではあったが、礼一少年はどうやら彼の世界で言うところのイタリアはローマにいるらしいということをそこから理解できた。先も出てきた神聖帝国というのはドイツの辺りのことを指すようである。


 しかし不可解だったのは「イタリア」の異様なまでの広さであった。恐らくアフリカ大陸北岸らしき「南方大陸」、フランスであるべき「グリアン地方」、スペインやポルトガルのように見える「ウィスポン半島」、トルコやギリシャの辺りだったと記憶している「旧都市国家半島」……。その全てが一色で染まっていた。しかも、前述の神聖帝国も元々は同じ色であったというのだ。二十年近く前に独立戦争があってようやく帝国のみ色が変わったとか言う話である。その東にはブリテン島らしい小さな島が「イグルンランド連合王国」という名前で存在していて、その更に東には「コロンボ共和国」がある……これは、ひょっとするとアメリカのことか?


 歴史は、やはり大帝国特有の、征服戦争のそれであった。元はルメンシスという名の一都市国家でしかなかったそれがここまで膨れ上がったのは、一人の「大魔導師」と呼ばれる本名不詳の人物による魔導技術開発で他国を大きく追い抜かしたからなのだそうだ。


 その他色々聞いて、ローマ帝国だ、と礼一少年は思った。版図は全盛期よりやや小さく、歴史も――誰だ、大魔導師なる人物は――政治体制もかなり違うようだが、連想するものと言えばやはりそれしかなかった。


 ヨハナはそれらを要領よく一通り説明し終わると、夕ご飯の用意があるから、と部屋を出ていった。礼一少年はまだ疲れているのか、またも眠くなり、もう夕方だというのにそれからもう一度寝てしまった。

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