【書籍版試し読み】第4話 水浴びは、命懸け!

◆水浴びは、命懸け!


 結局、白兎との死闘から丸4日間、水場らしい水場が無く、ただただ歩いて、ただただ樹に登る毎日を送る事になった。未だに町らしいものは見えず、先を行く集団の通った跡以外に、人の痕跡は見付けられなかった。

 喉の渇きと疲労でよろよろと歩いていると、遂に行く手に川が見えてきた。

「やれやれ……」

 勢いよく流れている川の流れを見付けて、年寄りじみた溜め息をつきながら、ポイポイ服を脱いで水に入る。

「冷たっ!」

 思わず身を縮めるくらいに川の水は冷たかった。

 それでも、汚れきった体を洗いたい。杖代わりの短槍で川底を確かめながら、もう少しだけ深い場所へと進む。冷たさを我慢しながら全身を強張らせて震えると、一気に首まで浸かった。

 冷たさを紛らわせるために、ゴシゴシと体を擦り、薄皮のように体に粘り着いたものを洗い流す。

 まあ、綺麗な着替えが無いから、気休めの域を出ないのだが……。

 思い切って、頭まで冷水に浸かって、乱暴に頭を擦りあげる。

「……はぁぁぁ」

 これは気持ち良い。癖になりそうだ。もう一度、頭まで潜って思いっきり頭を指で掻き回す。

(これ、気持ち良いなぁ)

 水面に顔を出して、しみじみと息をついた。そのまま少し固まった。いや、動けなくなった。

(……えぇ……っと?)

 水辺に、大きな熊が居た。

 さっきまで、そんな気配は無かったのに、いきなり降って湧いたように、いつぞやの白兎と同じくらいの、小山のような巨体をした黒い熊が川の水を飲んでいた。

 既にこちらを見付けているらしく、金色の双眸でじっと見つめている。

 川の深さは、小柄な俺がしゃがんで頭まで浸かる程度だ。巨熊にとったら水溜まりと変わらないだろう。

 どうする? どうしよう?

(……死んだフリ? 川の中で?)

 巨熊との距離は、わずか3メートルほどだ。ちょっと歩けば熊の手が俺に届く。フゴフゴ……と、巨熊が鼻を鳴らす音が聴こえる距離だ。

(とりあえず、逃げ回るしか……)

 俺は短槍を手にゆっくりと立ち上がった。動きに反応して、水を飲んでいた巨熊が顔を上げる。

 次の瞬間、俺は滑るように足を送って斜め前へと踏み込んでいた。入身といって、相手の死角へ真っ直ぐに踏み込む技だ。

 やや遅れるようにして、熊の巨体が先ほどまで俺が居た場所へと飛び込んで来た。

 ガラ空きの脇腹を短槍で突いてみる。兎の獣皮みたいに硬くて弾かれるかと思ったが、意外にも穂先の半分ほどだが突き入れる事ができた。

 ゴァァァァ―……

 巨熊が咆哮をあげて身を捻りながら前脚を振って掴みかかってくる。俺は同じ方向へ回転して熊を避けながら、前脚の届かない位置を維持する。

(……見えるな)

 巨熊の動き出し、脚の送りが事前に感じ取れる。気持ちの上では余裕を持てていた。

(そう来るか)

 巨熊が後脚で立ち上がりながら、両腕を拡げて倒れ込むようにして襲いかかって来た。巨体を生かした強引な仕掛けだ。

 川底の石に短槍の石突きを当てつつ、槍を残して前脚を潜るようにして背後へと抜け出る。地響きを立てて倒れ込んだ巨熊が激しい怒号を張りあげ、猛り狂いながら血走った眼で俺を追って向きを変えた。

 その回転に合わせ、俺も巨熊の脇近くに身を寄せたまま移動する。熊の攻撃を回避しつつ短槍を探すと、短槍は巨熊の後脚の付け根辺りに刺さっていた。川の流れに、かなりの量の鮮血が拡がっている。

 怒りで痛みを感じていないのか、脚から腹にかけて短槍が刺さったままの巨熊が、ゴウッゴウッ……と吠えたて、何とか俺を正面に捉えようとして追って来る。

(ちょ……もう、そろそろ……勘弁して)

 巨熊の動きはよく見えているし、正確に予測できているのだが、残念ながら俺の息があがってきた。明らかな体力不足である。

 許して欲しい。俺は、ただの高校生。高校生男子の平均を下回った体力しかないのだから……。

 しかし、よっぽど頭に血が上ったのか、巨熊は諦める素振りも無く、猛り狂った形相で牙を剥き、吠え声をあげながら追いかけ回してくる。

 合気道の円転。本来は相手に手刀を触れた状態で円を描いて動くのだが、俺は相手に触れないままに円を描いて立ち位置を移している。これが、円転の真理の効果だろうか。

(本当に、達人の人達……御免なさい!)

 こんな貧弱な高校生が、合気道の極みだの真理だのと、分不相応な技を使ってしまって申し訳無い気持ちでいっぱいだ。

(でも……)

 とにかく、死にたく無いのだ。命を1つ失ってしまっている。次は生き返らずに死んでしまう。

 巨熊が必死なら、こちらも必死だ。これは、絶対に負けられない鬼ごっこなのだ。

(こいつ……違うのか?)

 大きな白兎は、雷を放ったり、角を光らせて突進したりしたが、巨熊は体が大きいだけで、特に変わった事はやって来ない。その上、少しずつだが巨熊の動きが鈍くなってきたようだ。

 このまま逃げ回って時間を稼げば諦めるかも知れない。

 そう期待した俺が馬鹿でした。

 ガアァァァァァァァァ―……

 いきなり後脚で立ち上がったかと思ったら、長々とした咆哮をあげながら、真っ黒な煙を噴き出して来た。

「うわっ……ちゃっ!」

 ギリギリで大きく川へとダイブする。

「ぃっ……だだだだだっ……」

 強烈な痛みが眼と鼻を襲って来た。眼から鼻から色々な液体が溢れ出てくる。ダダ漏れである。

 川の水で薄まって、この威力だ。まともに浴びていたら、あまりの痛みに狂い死にしていたかも知れない。俺は冷水の中でジタバタと足を暴れさせ、もんどり打って身悶えしていた。

「あぁぁぁぁ―」

 思いっきり声を出して、少しでも痛みを紛らわそうとするが、どうやったって痛いものは痛いっ!

 もう熊なんか意識からすっ飛んで何も考えられない。

「ぐうぅぅぅ……うううううう」

 川中に蹲って顔を冷水に浸け、唸り声をあげ続ける。

 もう一歩も動けない。

 こんな痛みを感じたのは、生まれて初めての事だ。

 気が狂いそうだった。

 ブクブクと……気泡を噴き出しながら川中に沈み、顔を上げて息を吸い込んで、今度は喉の痛みが肺まで拡がって噎せ返る。

(もう嫌だ……もう……止めてくれ……止めろ……止めろっ!)

 土下座するように川に蹲ったまま俺は背を大きく震わせた。瞬間、胸奥からこみ上げた激情をそのまま吐き出すように、俺は身を仰け反らせ、あらん限りの声を振り絞って叫んでいた。

「うあぁぁぁぁぁ―」

 俺の絶叫に雷鳴が重なって響き渡り、無数の雷が俺を中心に放射されると、青白い雷光が辺り一帯を暴れ狂った。大量の川水が蒸発し、河岸の石が灼け、草木が炭化して、もうもうと白煙が立ちこめる。

 しばらくして、川面に顔を持ち上げた時、俺は少し痛みが引いた事に気が付いた。

(……痛くない?)

 灼けるようだった眼も、引き裂かれるようだった鼻腔も、喉も、胸も……いつの間にか痛みが治まっていた。

「ぁ……く、熊はっ!?」

 突然、巨熊の事を思い出して、俺は大慌てで川の中に立ち上がった。

「え……?」

 巨大な黒い熊が川辺で倒れて動かなくなっていた。




◆流民って……。


 黒い巨大熊との死闘から10日後の昼下がり、行く手の木々の合間を抜けた途端、目の前に石造りの壁が現れた。高さが30メートルほどの石壁だった。

 ……どうしてだろう。なんだか、涙が止まりません。

 男のくせにとは言わないで欲しい。何か、我慢する間も無く、涙腺が崩壊してしまったのだ。

 はらはらと壊れた蛇口のように涙が流れ出し、頬を伝って裸の上半身まで濡らす。

 ワイシャツだった物を引き裂いて褌のように股間に巻いただけの姿で、短槍を杖に立ち尽くし、俺は涙を流しながら石壁を見上げていた。

 ここまで色々あった。とにかく必死だった。

「……よし」

 自分に気合を入れるように頷いて、石壁を左手に見ながら歩き出す。壁沿いに歩けば、どこかに入口があるだろう。

(なんか、匂いがする……料理かなぁ?)

 どこからか、鼻腔をくすぐる良い匂いが漂ってくる。

(……無事に町に入れて貰えるかな?)

 今になって、そんな不安が湧き起こる。

 手にした短槍は多少の汚れはあるが、まあ血が臭うような状態ではない。褌にしているワイシャツは少し臭うが……。体の方は水場を見付ける都度拭っている。

 他の衣類は血塗れだ。洗っても色が落ちなかった。さすがに、あれは着て歩けない。

 何だかんだで、この世界に棄てられてから20日くらい経っただろうか。

 巨大な白兎と巨大な黒熊、その他はまあ驚くような鳥獣に出くわさず、ここまで辿り着けた。

 智精霊に聴いていた山犬の群れに襲われなかったのは不幸中の幸いか。物音に過敏になっているためか、何かが枯れ葉を踏んで歩く音や低木の枝が擦れたり折れたりする音など、怖いくらいにはっきりと聴こえてくる。

 おかげで、ほとんど寝付けない日が続いていた。〈適性化〉がなければ既に力尽きていただろう。

(あっ……)

 延々と続いていた石壁が途切れ、左手へ曲がったところで足を止めた。

 かなり遠いが、荷を背負った人が歩いているのが見えた。行く先に扉か、門があるのだろう。

(まあ……仕方無いよな)

 自分の残念な姿を見回して、小さく嘆息すると、ゆっくりとした足取りで近付いて行った。

(……っていうか、言葉とか通じるの?)

 新たな不安が込み上げるが、

(とにかく行ってみるか)

 石でも投げられたら、そこで対応を考えるしか無い。泣いて拝んで土下座して、それでも駄目なら森に逃げ戻るか。そんな事を考えながら辿り着いた先は、門というよりトンネルみたいだった。

 それだけ石壁の厚みが凄いのだ。入口近くには、ゴツい鉄格子が吊り上げられた状態でぶら下がっている。背が高い人なら身を屈めないと頭を打ちそうな隙間だった。

(あぁ……)

 石壁のトンネルの先、鋲打ちされた木扉がある辺りから、槍に斧がくっついたような長い武器を持った男達が次々と駆け出て向かってくるのが見える。

(これ、ヤバいかなぁ……)

 襲われたら、逃げるしか無いが……。

「おいっ、おまえっ!」

 先頭を走ってくる若い男が声を張り上げた。全員が鎖を編んだような鎧を着ていた。

(あ……言葉が分かるじゃん)

 妙なところで安堵しつつ、

「こんにちは!」

 大きな声で挨拶をしてお辞儀をした。

「あん? ……おまえ、流人か?」

 あまり品がよろしく無い感じの若い男が裸も同然の俺をじろじろと見ながら、胡散臭げに眉をひそめて訊いてくる。

「日本の港上山高校の2年、結城浩太です」

「……流人か」

 後からやって来た中年の男が、苦々しく顔を歪めて俺の恰好を見回して、大きく舌打ちをする。

「先に二条松高校の人達が来ていませんか? 俺……ボク、はぐれちゃったんですけど」

 努めて不安そうに、泣きそうな表情で訊いてみる。

「……着いてるぞ。もう2週間も前だけどな」

 男がもう一度舌打ちをして、後続の兵士達に道を空けるように指示をして左右へ退かせた。

「俺達には流人をどうこう出来ねぇ。さっさと中に入って流民局に出頭しな」

「流民局ですね。分かりました。ありがとうございます」

 俺は丁寧に頭を下げた。

(流民局? 町にそんな役所があるの? そんなに大勢の異世界人が連れて来られてんの?)

 兵士達の流人慣れした感じに、俺は頭を下げたまま顔をしかめていた。

「ちっ……また、何だってこんな細っこいのが来やがるんだ? 女みたいな顔しやがって! 尻で稼ぐつもりかぁ?」

 若い男が吐き捨てるように言ったのが聴こえたが、柔和な表情を維持したまま無視する。

「それでは、失礼します」

 俺は何度も頭を下げながら、男達の間を通って石壁のトンネルへと入った。

(くそぉ……あいつ、顔は覚えたぞ)

 胸内で、ギリギリと歯ぎしりしながら、格子戸を下から見上げつつ、アーチ状の天井を見回す。中間に、もう一ヶ所、格子戸が填まりそうな溝が彫ってあったが何も無かった。

 最後は、分厚い木の扉だった。表面に鉄板を貼って鉄鋲を打った丈夫そうな扉だ。

「……流人か?」

 扉の左右に立っていた男が、さりげなく腰に吊した剣の柄へ手をやりながら近付いて来た。

「流民局へ行くよう言われました」

 余計な事を言わず、それだけを告げた。

「この道を真っ直ぐ行くと噴水池のある広場に出る。北側の石橋を渡って道を進めば左手に見えてくるだろう。迷ったら、その辺で人に訊け」

「分かりました。ありがとうございます」

 丁寧にお辞儀をして、もう一人の方にも会釈をしつつ、そそくさと道を歩く。

 この辺りは、馬車や馬などを停めておく場所になっているらしく、小さな荷馬車から、大きな幌のある馬車まで色々と並べられていた。馬に与える水や飼い葉を抱えて売り込みをやっている少年達は6、7歳くらいだろうか。ちらと、こちらを見たようだったが、褌一丁の姿を見て、眼中から消したらしく、そっぽを向いて走り去って行った。

(裸に褌とか……お巡りさんコイツです、って流れだよな)

 ちらちらと向けられる視線に晒されながら、噴水池の広場まで歩くと、なるほど池を渡るように石橋があり、その先に石畳の道が続いている。

(ふうん……必ず看板があって、小さく文字が彫ってあるな)

 店をやるときの決め事なのか、どの店にも小さな銅製の板を扉脇の軒にぶら下げてあった。少し近寄って文字を読めるか確かめてみると、

(調剤屋?)

 拍子抜けするくらい簡単に文字が読めた。ミミズののたくったような形の文字なのだが……。

(言葉と文字が分かるんなら、何とかなるのかな?)

 いくぶんか表情を明るくしながら、人通りの疎らな道を歩いて行くと、番兵らしい男が扉の前に立っている館が見えてきた。

「こんにちは! 流民局へ行きたいんですが?」

 声を掛けられるより先に訊いてみる。

「向かいだ!」

 髪に白い物が交じる番兵が向かい側の建物を顎でしゃくってみせた。

「ありがとうございます」

 丁寧に頭を下げて、建物に近付いてみるが、どこにもそれらしい看板は見当たらない。しばらく、うろうろと見回していると、扉に紋章のような物が彫られている事に気付いた。

(まあ、入ってみるか)

 とりあえず、扉をノックしてみる。

 当然のように無反応だが……。

「入って2階に流民局の受付がある」

 後ろから、先ほどの番兵が大声で教えてくれた。案外、中の人間に聴こえるように言ってくれたのかも知れない。

 俺はもう一度、番兵に向けて頭を下げてから扉を開けてみた。

 シン……と静まりかえった踊り場があり、奥には飲み屋のカウンターのような作り付けの机が見えたが誰も居なかった。

「失礼します。流民局へ行くように言われて参りました!」

 とりあえず声を張り上げてから、中に入って扉を閉じた。

(……誰も居ない?)

 少し考えてから、奥にある階段を上がろうとした時、今閉めたばかりの扉が勢いよく開かれて、外から女性が飛び込んで来た。歳は30代半ばくらいだろうか。化粧気は無く、赤い髪は乱暴に纏めてピンで留めただけ。体型は小太りで、少々全体的に緩み気味だろうか。世話好きの近所のおばさんといった感じだ。

「あらあらぁ~、あなたが流人なの? どうして裸? 他の人はとっくに着いてるけど、何してたの?」

 無遠慮にじろじろ見ながら、矢継ぎ早に早口でまくしたてる。

「日本の港上山高校の2年、結城浩太です」

 外でやったのと同じように名乗ってみた。

「ニホンね。やっぱり、前に来た人達と同じじゃない。あなただけ、ずいぶん遅れたのね」

「森ではぐれちゃいまして。少し迷っていました」

「あらまっ、よく無事に来られたわね。ええと……ユウキ……ああ、ニホンは逆ね。コウタ・ユウキよね?」

「はい」

「おいくつ?」

「16歳です」

「あらあら、ずいぶんと……男の子にしては小さく見えるけど、ニホンだと普通なの?」

 ぶつぶつ言いながら、帳簿らしい物を手に、女が先に立って歩いて行く。どうやら追い出される事は無いらしい。

 言葉が通じる相手が居るというだけで心強かった。

 訳が分からないまま異世界に放り込まれ、大きな兎やら熊やらに殺されそうになったり、生きた心地がしなかったが、とにかく最初の町まで生きて辿り着く事が出来た。

 これからどうなるのか分からないけど……。

(まあ、なんとかなるさ)

 俺は、不安を紛らわすように大きく息を吐いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る