第3話 紺②

 昼休みが終わろうかとするころ。紺は小学校の校門前に立った。


「よし、いざ出陣じゃ」


 校舎を見上げながら、意気揚々と歩く。

 豊かな胸を見せつけるかのように、胸元の大きく開いた真っ白なスーツ。そのスカートから伸びるのは、細く柔らかな足。本人の意図はともかく、色濃く匂い立つ雌のフェロモンを、羽衣のように身にまとっている。すれ違う男性教員達の目が釘付けになるのも仕方なし。それらの視線を浴びながら生徒用昇降口へと入り、備えられた客用スリッパへと履き替えた。


「真之のクラスは六年二組じゃから、三階じゃな」


 張りのある尻を軽く振りながら、階段を上がる。目的地の六年二組の教室の前にたどり着いたところで、五時限目を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。


「……わぁ、綺麗な女の人」

「……すげー。芸能人みたい」

「……あれ、誰の姉ちゃんだよ」


 紺が教室の後方の扉から入った途端、児童達の視線が彼女に集中した。教室中がざわつき、誰の保護者かと囁く声がいくつも重なる。

紺は気後れした様子の保護者達の隣に並び、澄ました顔で目標を探した。


(おった!)


 縦の真ん中の列、後ろから二番目。その席からチラチラとこちらを見てくる児童。紺の愛する息子、真之だ。二人の目が合うと、紺は無邪気に笑いかけ、軽く手を振った。対する真之は耳まで真っ赤にして、教壇の方に慌てて向き直る。


(初々しいのう、くふ)


 息子の反応が愛おしく、紺は薄い化粧を施した唇の端を緩めた。


 と、


「あなたね、その服装は何ですか」


 紺の眼前に、一人の女が立ちふさがる。歳は三十代半ばといったところだろうか。品のあるメガネをかけ、長い髪を後ろでまとめている。その細身に着たスーツには、シワひとつ見当たらない。なかなかの美人ではあるのだが、鋭い目つきとやや濃い化粧が厳しそうなイメージを周囲に発していた。

 先月の保護者会で初顔合わせしたとき、聞いた名前によれば、確か苗字が結城だったか。


「はて、この格好に何か問題があるのかや?」

「破廉恥な! ここは神聖な学び舎ですよ」


 女――結城はこめかみに青筋を立てて、声を尖らせた。

 保護者にとって授業参観とは、精一杯自らを飾り立てて美を競う、静かな戦いの場でもある。そこへ、一人だけトップモデルのような美貌の若い女が、自らの色気を隠そうともせずに現れれば、同性から反感を買うのも仕方がない。


 言われていることは全くもって正論なのだが、紺としてはイマイチ理解できなかった。優美に微笑を返す。


「お主らも化粧をして、お洒落をしておるではないか。何が違うのかえ?」

「あっ、あなたと一緒にしないでいただけますか!」


 純粋な問いかけが火に油を注ぐ結果となり、目の前の女は声を荒げる。そのヒステリックな態度と、きっちりとした格好が「まるでテレビドラマに登場する、教育ママのようだな」と紺に感想を抱かせた。


 そんな場外乱闘に待ったをかけるがごとく、担任教師が教室へと入ってくる。


「はい、日直さん。号令をお願い」

「きりーつ!」


 担任教師の合図で、児童達が授業を開始しようとする。結城は紺を激しく睨みつけながら、保護者の列へと戻っていった。







「この問題を、一也君に解いてもらおうかな」

「はいっ」


 授業の科目は算数。

 担任教師に名を呼ばれた男子児童が立ち上がり、堂々とした足取りで教壇に上がった。黒板に書かれた分数の掛け算の問題に、躊躇うことなく数式と答えを書き連ねていく。


「うん、正解!」


 担任教師が赤のチョークで黒板に花マルを描く。同時に、教室後方に控える保護者達から拍手が贈られた。


「……さすが、結城さんの息子さんね」

「……そういえば、こないだはサッカーの試合で大活躍だったとか」

「……文武両道なのね、凄い。うちの子にも見習わせたいわ」


 保護者達が小声で次々と称賛する。それに対して、先程の教育ママこと結城が満足げに微笑んだ。


「それほどでもありませんわ。ほほほ」


 あの一也少年の母親が、この教育ママだ。よほど自身の教育方針に自信があるのだろう。口では謙遜を言いながら、顔には「当然だ」という心の声が大きく書いてあった。


 大人達は「次は自分の子のアピールチャンスだ」と熱視線を担任教師に送る。その多重プレッシャーがどう作用したのか、


「じゃあ、次の問題を真之君。お願いね」

「はい」


 真之に白羽の矢が立った。彼は、自分がまさか当てられるとは思っていなかったのか、緊張した面持ちで立ち上がる。


(お主ならできる。頑張れ、真之!)


 普段の息子の努力を知っている紺は、疑いもせずに彼の背中を目で追った。

 やがて、真之が黒板に解答をチョークで書き終え、席に戻る。担任教師は数式に間違いがないか、丁寧に見て、笑顔で頷いた。黒板に増える、赤色の花マル。


「はい、正解。よくできたね」


 ところが、先程と違って保護者達の拍手はまばらだ。いかにも投げやりな態度。彼女らの顔に浮かぶのは、真之に対する忌避と侮蔑、さらに哀れみの混ざった複雑な色だった。


「……見て。あの子の怖い顔。きっと不良よ」

「……うちの子の話じゃ、体中に虐待の痕があるらしいです」

「……他の子達に悪影響がないといいけれど」


 このあからさまな態度の差には、さすがに紺も眉にシワを寄せた。


(む。外見ばかりに惑わされて、真之の内面の可愛らしさを見ようともせぬとは)


 それでも平常心を心がけ、紺は横目で保護者達の列を見る。どうやら、会話の中心にいるのは、先程と同じあの結城であるらしい。しかも、紺の方をチラチラと見ては、嘲弄の笑みを浮かべていた。先月の保護者会における自己紹介で、紺と真之が親子であることも知られているのだ。


(これでは、授業参観の後もどうなることやら)







 五時限目の授業を終えると、帰りのホームルーム。その後、児童達は教室を去っていく。

 残された大人達が行うのは、月に一度の保護者会だ。


「皆さん、本日はどうぞよろしくお願いします」


 教壇に上がっているのは、結城である。傲然と教室中を見渡し、わざとらしく咳払いをする姿は、高飛車そのもの。先月の新学期早々に開かれた第一回保護者会で、彼女がクラス役員に任命されていた。他の保護者達が面倒事を増やしたくなかったのもあるが、何よりも結城が自ら進んで志願したのだ。


 一方、紺をはじめとした他の保護者達は、各自の子どもの席に腰掛けている。結城の隣には担任教師が立ち、議会の進行を見守っていた。


「本日の議題についてですが、まず来月に控えた修学旅行の積立金について――」


 予め用意されたプリントを参考に、説明が行われる。そうして、順当に議会が進められていくかに思われた。


 ――が。


「次の議題へ。このクラスには秩序を乱し、他の子達を不必要に怖がらせる児童がいます」


 結城の言葉に、教室中が騒然とした。まさか、自分の子が問題に巻き込まれているのではないか、と不安なのだろう。担任教師は、「そんな話を、事前の打ち合わせで聞いていない」と言わんばかりに怪訝そうな表情を浮かべている。


「昔から、腐った蜜柑はすぐに取り除かなければならない、という話があります。私としましては、一刻も早くそうした問題児をクラスから追放すべき、と考えます。他の学年、クラスにも似たような児童がいるようですから、そうした子ども達を集めた隔離学級を作るべきでしょう」


(なるほど、そう来たか)


 結城の熱弁を聞いて、紺は思わず憮然とした。


「ゆ、結城さん。お言葉ですが、それは無理なお話です。そんなことをすれば、子ども達の中で差別が生まれます。それに、もう新学期が始まって一ヶ月が過ぎていますが、結城さんのおっしゃるような児童は――」

「いるではありませんか。協調性がなく、他の児童を威圧する児童が!」


 担任教師の反論を、結城がにべもなく切って捨てる。

 それから紺と目を合わせ、尊大に指さしてきた。周囲の保護者達の視線が、一気に彼女へと集中する。


「噂によれば、その児童は普段から親に虐待を受け、鬱憤を他の子への攻撃で晴らしているそうですね。そうしたイジメの被害者が多数存在すると聞いています。ねえ、そうでしょう、建宮さん? 何か反論があればお聞きしますけど」

「噂とやらに踊らされて、全てを知ったかのような物言いをするとは……まったくもって呆れてしまうの。もしかして、イジメの加害者と被害者が逆ではないかえ? うちの子のイジメ問題については、そちらの先生に昨年度から相談に乗っていただいておる」

「それならあなたは、こちらの意見を否定できるだけの、確実な証拠をお持ちなのかしら?」

「少なくとも、虐待については一部明確に否定できる。ワシは、あの子を昨年末に養子として引き取った。それ以前の保護者から虐待を受けておった……思い出すだけでも腸が煮えくり返るがな。証言が必要とあれば、事件を担当した警察を呼んでもかまわんぞい」


 結城のデタラメに対し、名指しされた紺は静かに鋭く突き返す。「いい加減なことを言えば、かえって自分の首を締めるぞ」という脅しの毒が含まれた声。

 公権力の存在をちらつかされ、結城は一瞬たじろいだ。しかし、すぐに立ち直り、声を張り上げる。


「多感な年頃の子どものことを考えれば、膿は一刻も早く摘出すべきです。そうは思いませんか、皆さん!」


 紺以外の保護者達に同意を求める結城。保護者達は、どう判断すれば良いのか、考えあぐねているようだ。無理もない。紺と結城、どちらの方が正しいのか。判断材料が足りないのが現状だった。


 紺は白い目を結城に向けながら、あえて挑発的な言葉をぶつける。


「そうやって差別を助長するような親の背中を見たら、子は何を学ぶのかのう?」

「差別ではありませんっ。これは子ども達を清く正しく教育するための案で――」


 なおも強気に出る結城を、傍にいた担任教師が止めに入る。火花を激しく散らす両者を抑えるのは、かなり胃を苦しめるに違いない。

 結局、この日の保護者会は、そのまま解散することとなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る