霧の鯨

 朝起きると、外は濃い霧に覆われていた。四方八方どこもかしこも幕を下ろしたように真っ白で、いつも見えている山は隠れ消え、庭の木々はぼんやりとした影と化していた。そんないつもとまるで違う風景にクコは目をぱちくりさせた。

 分厚い霧は夏の攻撃的な日差しをほとんど遮り、真夏だと言うのに肌寒ささえ感じる妙な気温だったが、暑がりのクコは特に疑問も持たず、なんて心地のいい朝なのか、といつもよりも軽い足取りで朝の仕事をこなしていく。

 霧は昼になっても一向に晴れず、こんなに深い霧は初めてだなあと呑気に構えていると、表から声がした。いつものように玄関に回れば、そこには見知らぬ人が立っていた。

 戸越しに見える不思議な外見にクコは一瞬たじろいだ。なぜなら、戸に映った人影の頭には見事な角が二本生えていたのだ。

 異形頭さんだ。

 珍しい客人に、クコはごくりと唾を飲み込む。街には沢山住んでいると聞き知ってはいたが、あまり里から出る機会のないクコにとっ異形頭という種は身近な存在ではなく、珍しさからつい身構えてしまう。

 意を決して開けた戸の向こうにいたのは、ヘラジカの頭に黒いスーツ姿の大男。男は会釈し中に入る。角をぶつけないよう頭を下げているが、何分天井が男の身長──高身長な上、更に大きな角が付いている──からすると低すぎて今にも角で突き破りそうだ。男は窮屈そうに、頭を前方に突きだし腰を曲げたりして出来るだけ体を小さくしようと努力していたが、あまり意味はないようだった。

 一方クコも、狭い玄関にぎゅうぎゅうに詰め込まれた男を間近にして、これまで感じたことの無い圧迫感に身を縮ませていた。

 さらに、ヘラジカの男の容姿がクコの小さな肝を追い詰めた。骨だったのだ。男の頭はヘラジカの頭蓋骨そのもので、言わば骨格標本の頭部が人型の体の上に据えられている状態だった。硬質で無機質。目玉の無い眼窩はじっとりと暗い。人生経験の少ないクコに衝撃を与えるには十分な見た目だった。

 まるで死者のようだ。なんてことは当然口には出せず、クコは固まってしまう。

 なぜ骨そのもの。せめて筋肉を、皮膚を、目玉を。表情その他が全く読み取れない男の不気味さに、クコはすっかり呑まれてしまっていた。

 挨拶を返してくれないクコの様子を見て、ヘラジカの男は小さく首を傾げた。ごりっ。天井を擦る音。二人は同時に「あ」と声に出した。


「ふか、深見さーん!!」


 ようやく硬直状態から抜け出せたクコは、男から目を離さずに深見を呼んだ。

 深見は案外すぐに現れた。そうしてヘラジカの男の姿を目にすると、ぱっと笑顔になり小走りで近づいてきたかと思うと、なんと間髪入れず握手を求めたのだった。旧友との再会どころか、憧れの人にようやく会えたかのような雰囲気をふわふわと匂わせる深見に、クコは気味の悪いものを見るような視線を向ける。

 深見はいつも以上ににこにこと顔を綻ば せながら、ヘラジカの男と挨拶と握手を交わす。骨なので男の表情は分からないはずなのだが、心做しか相手も嬉しそうにしている──ように見えた。


 男を客間へと通す。広々とした空間に案内された男は、縮こめていた背すじをすっと伸ばしスーツの乱れを整えようやく一息つけた様子だった。

 三人は座卓を挟み座る。深見とヘラジカの男はしばらく振りに会ったらしく、世間話や昔話を朗らかに語らう二人にクコはほんの少しだけ居心地の悪さを感じてしまう。

 男は持参していた大きな風呂敷包みを前に出し、頭を下げた。


「私どもの『鯨』が停泊しておりまして、大変ご迷惑をおかけ致します。夕方には出航出来ると思いますので」

「五年ぶりですか。早いなあ」

「ええ、こちらに寄るのは久々です」


 鯨。

 深見の背に隠れるようにして座っていたクコがそろそろと手を挙げて質問する。


「鯨ってなんですか」

「鯨は、私たちが住むものの一般的な呼称です。他には霧の街、霧の鯨、霧の大船、なんて呼ばれています」

「きり?」

「はい。今朝方からこの里を覆っている霧がその、鯨と呼ばれているものでして。遠くから見ると巨大な鯨のように見えるらしく、鯨と呼ばれるようになったとか。我々は霧の鯨の背に乗り、霧の意志のままに各地を点々と移動しながら暮らしているんですよ」


 クコは驚いた顔をして深見を見る。しかしなんの反応も返してくれず、うんうんと頷きながら男の話を聞いているばかりだった。


「鯨の背は平穏快適なのですが、いかんせん物資が限られておりまして、時折、物資の補給や他地域との交易を図るためにこうして里や村などに停泊しているんですよ。その度に里の皆様にはご迷惑をおかけすることになってしまい……申し訳ありません」

「この人は鯨を導く船長さんなんだよ」

「船長、さん?」

「導くだなんて大袈裟です。鯨は、流れるままに行くだけですよ」


 謙遜の中にほんの少し憂いを含んだ物言いだった。クコは質問に答えてくれた感謝を小さな声で伝え、再び深見の背の後ろに引っ込んだ。

 ささやかな質疑応答が終了したのを見計らって、深見が明るい声色で商売話を始めた。


「ああそうだ。いまちょうど、仕入れたばかりの品があるんですが、見ていきます?」

「それはありがたい。是非拝見させてください」


 二人は自然に立ち上がり、深見の商品保管部屋へと向かっていった。

 一人きりの客間でふぅと息をつき、正座を崩す。じわりと痺れた足が煩わしくて突っつくと、当たり前だが痺れが増した。じんじんと響く足の先の痺れに耐えながら、クコは船長と呼ばれていたヘラジカの男のことを考える。

 深見とのやり取りから見て取れる物腰のやわらかさや自分に掛けられる言葉の端々から、ああこの人は深見さんよりもまともで紳士で優しい人柄なのだろうとクコは早々に察したが、やはり見慣れていないその姿はクコの目にはどうしても奇異なものとして写ってしまい、中々その認識から脱することは出来なかった。クコは俯き反省する。

 そうして、座卓の上に置かれたままになっていた風呂敷包をじぃっと見つめては、その中身を予想しながら二人が戻ってくるのを静かに待っていた。


 ***


 ヘラジカ頭の船長が去った後、クコは残された風呂敷包を持ち上げてはそわそわとしていた。


「何やらずっしりとした物を頂いてしまいま した」


 落ち着きのない眼差しで深見に目配せをしていると、深見は開けてご覧と苦笑した。結び目を解くと、中には一抱えほどある化粧箱と、反物がひとつ。

 薄紙で丁寧に保護された反物は、ものの価値に疎いクコの目にも大層立派なものだと分かるほど、艶やかで緻密なものだった。


「や。こ、これは……高そう…!」

「霧鯨の霧で紡いだ織物は人気でね、なかなか手に入りにくいんだよ。丈夫で繊細で、肌触りも他のものと比べて格段に滑やかで、需要はあるけど供給が難しいらしくて、幻の品と言われていたりいなかったり」

「そんな、いいんですか貰っちゃっても」

「霧のお詫びと僕へのお礼だってさ。物々交換業も悪くないね」

「日頃から雪崩が起きない程度に整理していただければ言うことなしですけどね」


 すまし顔でつんと言うクコだったが、先程のことを思い出ししょんぼりと背中を丸める。


「あの、私、船長さんに悪いことをしてしまいました」

「なにが?」

「私、骨種の異形頭さんと会うのが初めてでしたからどんな風に接していいか、……いいえ、他の方と同じようにすればいいのに、それが出来なくて。怖くて、その。もし、訪ねた先であんな風な──拒絶するような態度をとられたら、私だったら悲しくなってしまいますし、だからきっと、船長さんも悲しい思いをされたのではないかと、思うのです……」


 だんだんと声が小さくなっていき、最後はほとんど聞こえなかった。深見はそんなことかという風な顔をして、クコの正面に座る。


「『 初めて』に遭遇する時は、誰だってそんなものだよ。今まで出会ったものと比べて、属性が異なるものや見慣れないものに初めて出会うと、警戒し距離を取る。相手との距離を測り様子を見ることは、生き物としてなんらおかしなことじゃないさ」

「そうでしょうか……」

「そのまま遠ざけておくか近くに寄るか。それは君自身が決めることだけれども、一言言わせてもらうのなら、船長さんは見た目に反して拍子抜けするほど穏やかで、とてもとても良い人だよ」

「はい。それは、分かります。……深見さんよりも素敵な人だってことは」

「酷いなぁ」


 深見はさほど気にしていない様子で柔らかく受け止める。


「……またお会い出来るでしょうか」

「いつになるかは分からないけれど、きっとまた会えるさ」

「その時はもっと、鯨のことをたくさん聞いてみようと思います」


 気づけば、クコの背中はいつものようにぴんと真っ直ぐ伸びていた。

 深見に促されるまま化粧箱を開けてみると、朝日を透かす若葉の色を幾重にも纏ったそれがいくつも入っていた。細かな水滴が表面に散り、瑞々しく輝いている。それははち切れんばかりにぐっと詰まっていて、一枚一枚がしゃっきりとした新鮮さを主張していた。


「なんて立派なキャベツ!」

「レタスでしょ」


 素で間違えてしまったクコは、茹でられたたこのように顔を赤くし、立派なレタスで顔を隠すのだった。

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