第3話 素戔嗚尊(すさのおのみこと)

 天照大御神あまてらすおおみかみの神殿を出て、自分の宮へ向かう。

 日の光は眩しすぎる、と目を細めてうつむきながら、青々とした稲が育つ田の横を通る。


 棚田の向こうから、悲鳴があがった。何事かと駆けつけてみると、弟・素戔嗚尊すさのをのみことが馬に乗ったまま田に入り、せっかくの稲を荒らしていた。女が泣きながら「おやめくださいませ」と叫んでいる。

 笑いながら馬をいなす弟に、月読は一喝した。


「やめぬか、この乱暴者!」

 素戔嗚すさのおは、悪びれもせずに馬を田から出し、月読を見下ろした。

「兄上、このくらいで目くじらを立てなくても」

「このくらいだと? 皆がどんな思いで作物を育てているか、食べ物がなければどうなるか、わからぬ訳ではなかろう」

 わきあがる怒りを抑えつつ、にらみつける。

「兄上は神経質すぎるのですよ。そんなだから、相変わらず青白い顔で痩せぎすなのだ。姉上に嫌われますぞ」

 日に焼けた厚い胸板を見せつけるように、だらしなく衣の前をはだけた弟が笑う。


いましこそ、乱暴ばかりしていては、姉上に嫌われよう」

「いやいや、姉上は吾にやさしいから」

 それを言うなら「甘い」だろう、と月読は唇を噛んだ。


 素戔嗚すさのおはよく、気まぐれに悪戯をする。田の畔を壊したり、祭祀を行う部屋に糞をしたりと。

 しかし天照大御神あまてらすおおみかみは、「土地がもったいないと思ったのだろう」「酔って気分が悪かったのだろう」と苦しい言い訳をして弟をかばう。なぜ姉が、あのような者をかわいがるのか、月読にはまったく理解できなかった。


「姉上に、真鯛を献上しに行くのだが、兄上も一緒に喰わぬか」

 馬の鞍には魚籠が括りつけられており、生臭いにおいが鼻をついた。海原を治める素戔嗚すさのおと違って、月読は農耕にかかわりの深い神なので、肉はもちろん魚もあまり食さない。

「遠慮する」

 素戔嗚すさのおは、気分が悪そうに顔をそむけた月読に、あざ笑うような哀れむような鼻息を残して、天照大御神あまてらすおおみかみの宮へと去っていった。

 畔に平伏していた女に、「すまなかったな。新嘗祭にいなめのまつりの頃に、代わりの稲を届けさせよう」と声をかけ、月読は日輪に背を向けて歩き始めた。



 保食神うけもちのかみは、目に見えて痩せ衰え始めた。

 頬はこけ、目はくぼみ、艶やかだった射干玉色の髪はぱさぱさと抜け落ちだした。骨ばった肩を抱いて力づけようとしても、苦しげに体を預けて目を閉じるばかりだ。

 そのあまりの軽さに月読は、姉の顔色ばかりうかがって、彼女が無理をするのを黙って見ていた自分を恥じた。


 もう十分すぎるくらい、あまたの作物を手に入れました。しばらくは、これらを育てることに力を注ぎましょう。

 そう進言するため、月読はまだ日が昇る前に、天照大御神あまてらすおおみかみにお目通りを願った。

 朝が来るまで待つことなどできなかった。それなのに、手の離せない用だとかで、取り次ぎがかなわない。こちらも火急の用なのに。

 業を煮やした月読は、侍女のいない隙に控えの間から外へ出て、姉のもとに向かった。


 占いや機織りなど、用途にあわせていくつかの棟がある。どこにいらっしゃるのかと、高床の棟の下を歩きながら、耳を澄ます。

 かすかに、姉の声が聞こえた。

 もう起きているのならばと、月読は声がした棟へ向かった。ここは、忌服屋いみはたやだ。神御衣かんみそを織っていらっしゃったのなら、待たされても仕方がない。

 もう夜明け前だし、織物は終わっただろうか、と床下から気配をうかがう。


 機を織る音は聞こえてこない。

 かわりに、女の声がした。そこに、男の声が重なる。


 ――そんなはずはない。ここは、潔斎して神御衣を織る場所。男が入るなど。それに、あの声は……。


 自らの鼓動で喉がふさがれ、苦しくなる。今考えたことが間違いであってくれ。そう願いながら、月読はきざはしをのぼり、扉の隙間から中を覗いた。

 輝くばかりの白い肌が見えた。

 そのすらりとした脚を持ち上げて肩に乗せ、胸乳を日に焼けた武骨な手が揉みしだく。腰の動きに合わせて女が嬌声をあげ、乱れた髪がこぼれ落ちて顔が見えた。


 実の姉と弟、天照大御神あまてらすおおみかみ素戔嗚尊すさのおのみことだった。

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