13th NUMBER『このまま続けば良かった』


 声なき星々が見下ろす夜。安らかな寝息を隣に感じる。さっきまで乱れていたのが嘘みたいだ。いいや、疲れ果てたからなのか、文字通りの涙から悩ましげな涙まで流し切ったらそうもなるよね。


 中途半端な時間に眠ったから、目覚めるのはきっと深夜だね。朝まででもいい。後でお風呂にでも入ってその美しい身体を癒しておくれ。噛んだ痕が染みたりしたら……ごめんね。


(優しくしてあげたかったのに……また虐め過ぎちゃったかな)


 “悪い子”だなんてさすがに言わなかった。どう考えても悪いのは僕だから。だけどやってることは今までとさほど変わらなかったような気がする。何故こうなるんだろう。やるせなさが彼女に歯を立てる。花弁を幾つも刻む。所有したいと僕の全身が叫ぶんだ。



「ねぇ、君は幸せかい?」



 僕は星明かりで青みを帯びた彼女の唇をなぞった。何度も重なった唇を。ここから放たれる悦びの音色は本当に真実なのかと不安になる。


 もう一度、軽く啄ばんでみると、眠りの最中さなかであるにも関わらずごく自然に応えてくれる。掠れ気味の声で僕の名を呟く。ああ、潤してあげたい。だけどキリのないことになりそうだと思って自重した。



 僕はなかなか眠れそうにない。考え事をすればするほど目が冴えてしまう方だ。こんなときはいっそ疲れ果てるまで考えてやろうと開き直ってしまうことがある。今夜もだ。


(今の僕は雪之丞? それとも冬樹?)


 それにしたってこれはあまりにも難題。僕からしてみたら、突然複数の人格が自分の中に現れた気分なんだ。邪魔をするなと喚いたのは雪之丞。隠してばかりではいけないと諭したのが冬樹。じゃあ今、こうして落ち着いたときの僕って一体どっちなの。何者なの。訳がわからなくて頭が鈍く痛んでくる。


 だけど確かなこともある。


(いくら雪之丞の姿で蘇ったからと言っても、もうあの古き時代に生きていた雪之丞とは違うんだ。夏南汰だって本当は既に亡き人だ。僕が見つめるべきはナツメ。名前なら現世いまの方でいくらでも呼んであげればいいんだ)


 夏南汰に執着してしまうのはきっと雪之丞の執念なんだと結論付けた。そのうち落ち着く。バラバラな人格もそのうち一つになる。心配かけてしまったナツメを今度こそ安心させてあげる為になんとしてでも乗り越えなくてはと決意を新たにした。




 それから僕は何度もナツメの部屋を訪れた。ナツメも僕を求めてる。いつだって物欲しげな目をして。僕の胸に頭を預ける無防備な仕草。そこからの流れは大体同じだった。


 間接照明がじんわり滲む暗がりで共に響かせる。君と僕が混じる音。


 女性であるナツメは身体の構造上どうしても都合の悪い日もある。そんな日は肩寄せ合ってそれぞれ本を読んだりして。


 月の許しが降りればまた重なり合う。ぬくもりを欲しているという点ではどちらも同じだ。僕らは傷付きひび割れた心の隙間をお互いで埋めようとしてる。ただ最後まではどうしても辿り着けない。ナツメはそれを責めたり落胆する様子も無かった。


 きっと医療ではどうにもならない傷を癒す場所。それでいて痛みを共有する場所。ナツメの部屋はいつしか隠れ家のようになっていった。



 そうは言っても、さすがに誰も気付いていないということは無いだろう。少なくとも僕がナツメの次によく話をするドクターは何か察している様子だ。時間をかけて癒していけばいいなんて言ってくれたくらいだから。


 この研究所はなかなかの実力主義なんだと思うよ。ナツメはどんな状況でもやるべきことはきちんとこなす。だから僕と毎晩のように酔いしれても咎める者など居ないんだ。



 それでもナツメの心はもう傷だらけだ。限界状態なんだ。強い子なんかじゃないんだ。僕はそれを誰よりも知っているつもりだ。


 僕もしっかりしなくちゃ。そう自分を奮い立たせるんだけど、それは何度試みても足りないことだった。大きな理由がある。


 ナツメと何度も夜を共にするようになってから約一ヶ月。その間もアストラルの状況は決して穏やかではなくて、何度かあのシェルターに駆け込まなければならないときがあった。その度に頼もしい背中を見送ったんだ。


 ブランチさんだ。同じ研究班の人から聞いた。なんでも昔、革命軍の襲撃からナツメを守ろうとしたらしい。結果、足を負傷して後遺症が残ってしまったんだけど、それでも彼は襲撃に立ち向かうべく小型機に乗り込むんだ。普段は乗っていない。だけどこのときばかりは黙って見ていられないと周囲の反対を振り切るんだとか。



 片足をわずかに引きずりながらも逞しい肩で風を切り、廊下を抜けて滑走路まで。そんな姿を見せつけられたとき、僕は自分を情けなく思った。


 寄り添うなんて綺麗な言葉で誤魔化してるだけじゃないか。実際の僕は欲情に駆られて彼女を貪っているだけだ。獣……いや、むしろケダモノと言って然るべき。あんな行為を繰り返すばかり。一体何になる。本当に彼女を救うことになるのか。




「のう、ユキ」


「ん……なんだい、秋瀬」



「ねぇ、冬樹さん。私は幸せですよ」



 そして今夜。随分前の問いかけに遅れて返事が返った。僕は驚きに目を見張る。


 ナツメはあのとき眠っていたはずだ。それでも届いていたのかと。


「こうして傍に居てくれるだけで……生きていてくれるだけで……私は……っ」


 僕の腕の中で身体を反転させ、胸に顔を埋めてきた彼女はもう泣きそうだ。ごめんね、僕があんなことを訊いたから。君の魂は不安に震えているんだね。


「うん、ナツメ。僕もだよ。君と共に居られるだけで僕は幸せだ」


 僕の言葉は素直に出てきたもののはずだ。なのに、嘘をついているような気分になってしまうのは何故なんだろう。騙しているような気がして後ろめたいのは、何故なんだろう。



 正直、僕は怖い。


 君に知られたくなくて封じ込めていた記憶が蘇ってしまったあの日から、まだ何かあるんじゃないかと怖くてたまらないんだ。


「ナツメ……許して。僕が与えられるのはこんな痛みばかりだ」


「いくらでも受け入れるよ。君がくれるものならば」


「……馬鹿だね」


「ユキもじゃないか。そうやってすぐ自分を過小評価して。馬鹿、ユキの馬鹿……!」


 癒す行為のはずなのに何故傷つけ合うの、僕らは。



「君ほど優しい人間を私は知らないよ」


 仰向けになった僕に彼女の唇が触れながら囁く。すだれのように垂れ下がる漆黒の髪の隙間から温かい雫が零れてこの頰を打つ。


「どうして? 僕は秋瀬もナツメも酷い目に遭わせたんだよ。こうして今も」


「そんな言葉には騙されないよ、ユキ。君は私を傷付ける以上に自分が傷付いているじゃないか。傷付くとわかっていながら歯を立てる。優しさの無い人間はただ奪うばかりだ。何も与えられやしない」


 それは過大評価だよと言いたい。強くあろうと保っていた心、安寧、純潔、そして人生、僕が君から奪ってきたものは計り知れないんだから。



 刹那的な時間に終わりを告げて、抱き合って目を閉じる安らかなとき。


(ああ……このまま)


 彼女の匂いを感じながら僕の中に一つの思いが言葉となって現れた。


(幸福に包まれたまま、誰も傷付けず何も奪わず……)




――消えてしまいたい――




「…………っ!」



 僕は危うく半身を起こしそうになった。今、僕は何を考えた? 胸元を握り締めて自問する。


 そっと窓際に手を伸ばし、カーテンを薄く開いた。朧月。いいや、違う。僕の視界が滲んでいるんだとわかった。



 わかってしまった。



 僕が不安で不安でたまらなかったのはこの幸せなんだ。



 幸せを感じれば感じる程、それがいつか壊れてしまう瞬間を想像しそうになる。思い出しそうになる、君を失った記憶を。


 僕の中には確かに希死念慮が在るんだ。穏やかである分、却ってタチが悪いかも知れない。


「夏南汰…………あっ」


 うっかり名を呟いてしまって口を手で覆う。眠っている君に僕の記憶の断片が伝わってしまったかも知れない。駄目だ、駄目だ。僕の苦しみまで背負わせる訳にはいかない。もうこれ以上……!




 翌日、一睡も出来なかった僕は研究班のみんなに随分心配された。相当顔色が悪かったんだろうね。この頃食欲も芳しくないから痩せていってるのも事実だ。


「あっ、そうだ、サンプル採取! どうしよう、私別の仕事入れちゃったぁ!」


「僕が行きましょうか? ナナさん」


「えっ、でも今日は他に人手がいないし、一人になっちゃうけど大丈夫ですか?」


 案ずるナナさんに僕は微笑んで頷いた。近くに居た仲間も、もうだいぶ僕のことを信頼してくれてるみたいですんなりと同意を示した。


「うん、ちょっと外の空気を吸ってきた方がユキさんも気分転換になるかも知れないよ」


 そんな一言に後押しされて僕は研究所を後にした。



(今日の採取はここから一番近くの森の中……)



 そうだ、この世界に辿り着いたばかりのとき、僕が彷徨っていた森だと思い出した。迷わないようにほんの入り口くらいの場所でいいと言う。念の為方位磁針も持たされた。


 足を踏み入れると湿った青臭い匂い。僕は言われた通りの手順で採取をしていく。最初は順調に思えた。だけどだんだん息苦しくなってきて……


(なんだろう、動悸まで……僕はパニック障害にでもなってしまったんだろうか)


 息が切れて、僕は木の幹に手をついた。背中を丸めて息を整えようとするも今度は勝手に震える足元に気付いてぎゅうと歯を食いしばってしまう。



 上空で小型機の飛ぶ音がする。


 僕は悔しかった。



 弱っていく身体、心。幸せさえも怖いなんて。ねぇ、ナツメ。君を支えられる男ならこの研究所に沢山居るよ。前世から君を想っている人だって僕一人じゃない。あの人もだ。ねぇ、何故……僕なんだい?


 不安定な人格は確かに一つになっていってるようだった。だけどいいことばかりじゃない。むしろ更なる苦痛を感じていった。


 雪之丞の不安も冬樹の不安も一度に僕へ押し寄せる。負担はかつての二倍……いや、それ以上かも知れない。



「もう……無理なのかな」



 カサ、と足元で音がした。いつの間にかサンプルケースを落としていた。



 虚ろな目をしたまま、僕はふらりと歩き出した。そこからの道のりはよく覚えていないけど、気が付いたら水と鍵を片手に薬品管理室を訪れていた。


「戦争なんかがある世界だけど、みんな優しかった。そしてナツメ。君との日々はこのまま続けば良かったな。でも……永遠なんて無い。いつかは間違いなく壊れてしまうから」


 自然と手を伸ばしたのは劇薬の瓶だった。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



 戻ることも進むことも出来ないなんて……


 嘆いて何になる

 後悔が何をもたらすと言うのだ

 ただ今は君の残像を

 奥深くまで刻み付けたい


 血が流れるだろう

 それほど深く抉るから

 それくらいしなければ

 僕の救いにはならないだろう


 この傷を持っていくよ

 遠い遠い場所へと

 温め続けるよ

 遠い遠い場所で君への想いを


 君にはなんの救いにもならないなんて……


 嘆いて何になる

 悲観が未来を示す訳でもなく


 自分勝手に手を伸ばした

 封をこじ開けようとする

 溶けない雪の欠片に

 救いを求める僕をどうか追わないで


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