5th NUMBER『変わりたかった』


 月を跨いで八月上旬。


 試験管を並べる音、書類を重ねる音、薬品の瓶を動かす音……この研究室はいつだってそんなかすかな物音が鳴る程度だ。静寂が心地良い空間。皆、卓越した集中力を持っているのがわかる。


 バイオテクノロジーの研究が主な仕事であるらしく、整理されたファイルに目を通せば微生物の特徴、動物の遺伝子などの調査結果が見受けられる。長きに渡る研究も多く存在するようだ。やはり僕が元居た世界では存在しない生物のものばかりなのだろうか。何かに特徴が似ているものもあるようだけど。


 ちらりと横目で伺うと、白衣に身を包んだナツメの背中が窓際に在る。忙しなくキーボードを叩きデータ入力をしているらしい。携帯電話は誰も持ってないしテレビも見かけたことがないけど、パソコンや固定電話は在る世界なんだと最近知った。


(戦争のある世界だなんて本当なのかな)


 にわかには信じ難かった。僕はこの世界に来てから未だ戦火を目撃していない……と、思う。何せ記憶の曖昧な部分があるから断言は出来ない。


 窓の外は青々とした空。時折小鳥のさえずりが聴こえる。忙しくともそれ程ピリピリしてない研究所内の空気。それらは至って平和に思える。


 だけど少し納得できる点もあったんだ。



 ナツメの背中から目を離せない僕は、そう、君こそが納得できる要因だと内心で頷く。


 冬樹として彼女に接していたときから感じていた。目を引く美麗の容姿なのに、簡単には人を寄せ付けない雰囲気。僕に心を開いたのは前世からの繋がりがあったからこそなんだろう。本来はそうそう隙を見せるタイプじゃない。


 凍った夏。


 今思うとこんな比喩が似合いそうだ。人の心を照らすオーラでさえ彼女は頑なに閉じ込めていた。二十歳ハタチとは思えない、あまりにも独立した姿に哀愁を感じてしまったくらい。



 だからこそ……



――全部あげます――


――冬樹さんがいいんです――



 初めて繋がった夜、彼女はあんなに泣いたのだろう。僕が扉を開けたから。溢れ出す光が傷に染みて痛くて痛くて悶えたんだろう。


 だけど悦びの表情でもあった。紅潮した全身で泣き濡れていた。やっと素直になれた、そんなふうに救われた部分もあったのかも知れない。



 ……さん



「あの……春日さん」



「あっ!? は、はい! すみません」


「い、いえ。こちらのファイリングもお願いしていいですか?」


「わかりました。もちろん大丈夫です」



 おずおずとした仕草で近付いてきた研究員の女性から書類の束を受け取った。この人はよくナツメと親しげにしている人。確かナナさんという名前だったと思い出す。なんだかわかりやすい人で、僕が白衣を身にまとうようになった後も、様子を伺うような彼女の視線をしばしば感じた。


 新しいファイルを取りに行く為すっと立ち上がると、びくっと身をすくめる。ほらやっぱり、僕を警戒しているんだ。背が高いとは言え、僕にブランチさんのような迫力は無いはずなんだから。


(だけど無理もない、か)


 寂しくはない。ここにはナツメが居るから。


 周りから簡単に受け入れられないのも、無難な仕事しか回ってこないのも、ただ仕方のないことだと思った。特殊な形でこの研究所に留まっている異世界の人間。誰だってそうなるだろうと。





 昨日、ナツメは僕に言ったんだ。


 磐座冬樹はまだ死んでいない。現世の肉体をこのまま放っておいてはいけない。だからなんとかして元の世界に帰れる方法を探すって。



 だけど当然ながらナツメはこっちの世界の住人。冬樹の傍にはもう居られない。


 そして僕が不安に思っていることが伝わったんだろうか。



――時も性も超えてみせた。これ程までに愛し合った私たちならいつかまた……必ず。出逢えるさ――



 哀しげな微笑みでこんなことを言った。ナツメとも夏南汰ともつかない表情で。



 だから再び確かな意思を取り戻した雪之丞ぼくはこう提案したんだ。



「ここは生態系研究を取り扱う研究所、でいいんですよね? ここに居る間だけでも構いません。僕に何か出来ることはないでしょうか」



 訝しげな表情、警戒心を露わにするブランチさん。何も言わずただじっと僕を見つめていたヤナギさん。わかってる。きっとこの二人は僕の真の意図を見抜いているって。


 でも大事なのは……失礼だけど、二人を説得することじゃない。



 ナツメの心は限界のはずだ。無理に作った微笑みも長くは保てないようだ。彼女にも何か救いになる言葉が必要なはずだ。



 待っているはずだ。僕と少しでも長く一緒に居られる正当な理由を。


 そして僕のことは警戒している二人でも、きっとナツメの気持ちは尊重する。



「僕は春日雪之丞。まだ学生の立場ではあったけれど、実家では東洋医学、大学院では西洋医学を学びました。そして磐座冬樹でもある。国立大学で生物学科准教授をしています」


 役に立てる要素なら十分にある。


「ナツメと共に在るこの世界も、あなた方も、僕にとっては大切な存在だ! それではいけませんか?」


 ただの居候では嫌だ。何か力になれることをさせてくれ!


 強い向上心を表向きの美徳としているナツメの心に響かせることが何よりも重要だった。他の者に意図を見抜かれ、どんなに冷たい視線を浴びせられようと僕にとっては痛くも痒くもないことだった。





(今に納得させて見せる。僕にはそれだけの自信がある)


 こうしてナツメの所属する生物研究班で働くことになった僕は、毎日補助的な仕事を一生懸命こなしている。


 幅広い人付き合いは好きな方じゃない。ましてやこの班にはブランチさんも居る。気まずいときだって多々ある。でも完璧な建前を演じることにだってある程度の自信はあるんだ。雪之丞の得意分野だったからね。


「ナナさん、終わりました。またありましたらお声かけ下さい」


「えっ! 結構量あったのにもう終わったんですか? あ、ありがとうございます!」


「いえ。あとこちらのファイルも見ていいですか? 興味があるんです」


「あ、はい。どうぞ」


 素早く仕上げたファイリングにだって抜かりはないはずだよ。周囲の何人かがほぉ、と感嘆の声を上げる。僕自身の株を上げることは、すなわち居場所をつくることだ。ただ凄いという言葉が欲しい訳じゃない。



 僕は一冊のファイルを開き、先程ナツメが入力していたと思われる研究結果に目を通す。大体の内容が飲み込めてきたときだった。



 “ビーーーーッ!”


 “ビーーーーッ!”



「!!?」



 突如鳴り響いた大音量、点滅する赤い光に僕は椅子の上で跳ね上った。周囲も早速騒然としている。空気が、変わっていく。



『緊急警報、緊急警報、北東の街より革命軍の襲撃を確認。直ちにシェルターへ避難して下さい。緊急警報、緊急警報……』



(革命軍、だって?)



 研究班の皆が一斉に廊下へと駆け出した。遠くから聞こえる。“研究班はシェルターの開錠!”どうやら担当が決まっているらしい。



「何をしている!? ユキも早くっ!!」


「あっ、うん」



 ナツメに強く手を引かれて僕も研究室を出た。廊下へ出る直前、ズゥンという地響きと室内の点滅の色とは異なる閃光を遠くに感じた。



(まさか……!?)



 走りながら僕は思い出した。



 この世界に渡ってきたばかりの頃。森の中を彷徨っていたとき似たような音と、夜空が何度か点滅する様子を見た。花火なんかじゃなかった。きっとあれがそうだったんだ。



 戦争は本当にあったんだ……!



 強い不安を感じたら息遣いが浅くなってきた。足を負傷して間もないナツメよりも、僕の足取りの方がもつれて思うように進めない。



「ナツメ、いいよ、僕を……置いて……」


「やめてくれ! 出来る訳がないだろう!!」



(そう……だよね……)



 僕の胸へ鈍い痛みの絶望が降りてきた。



 せっかく蘇ったのに僕の身体は相変わらず弱いまま。心は相変わらず臆病なまま。


 最愛の夏南汰を守れなかった。


 今も彼女に守られてばかり。


 そんなのはもう嫌だ。



 強くなりたかった。


 ……ううん。



 今からでも強くなりたい。



 涙さえ滲んできたとき背中にどんと何かぶつかる感覚がした。振り向くとそこに人の姿は無く、少しの間を置いて、足元に居るって気が付いた。


「ふぇ……」


 今にも泣き出しそうになっている小さな女の子だ。



「デイジー!? 児童教育班とはぐれたのか? 私たちと一緒に……」


 ナツメが手を伸ばすより早く、僕はデイジーという名の女の子を抱き上げた。大丈夫、大丈夫と繰り返して背中をさする。


「ユキ……」


「うう、おにいちゃ……っ、怖いよぉ……!」


 大丈夫、大丈夫。


 実際はその子と共に自分にも言い聞かせたんだと思う。



「行くよ! 僕はもう大丈夫!」



 決して優しくはないこの世界で、僕は必ず変わることが出来る。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



 僕がここへ来た理由は

 本当に執念だけなのだろうか


 変わるべきときが来たのではないか

 単なる現世からの離脱ではない

 真に生まれ変わるときだ


 君を守れるように強く

 君の守りたいものごと守れるように強く


 もう泣き言など零していられない

 立ち上がれ日本男児よ

 僕もその端くれならば

 示してみせよ


 漲る炎でなくとも

 劣らぬ威力の吹雪を巻き起こせ


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