14th NUMBER『君と堕ちてくトロイメライ』


 ……なた……



 かな、た……っ



 さっきのは通り雨だったらしく、夜空はもう月明かりで満ちている。名残りの雫がぽたり、ぽたりと僕らの元へ降りてくる。


 たった今、僕が走ってきた道なき道が崩れたところ。幾つもの木々が土台ごと流されるのを見た。元々脆くなっていた場所なのだろうか、ともかくこれでは舗装された道まで一緒に戻ることも出来ない。



 泥水の流れる地面に直接座り、腰をずぶ濡れにしながらも君だけは冷えないようにと抱き締めた。華奢な身体を膝の上にに乗せて、眠り姫のように深く意識を沈めた君へ呼びかける。


「目を開けて。僕に、笑って……夏南汰、お願い、夏南汰……」


 だけど僕の声も次第に掠れていく。君の息遣いと鼓動だけは確かめていたくて、ぎゅうと抱きすくめた。一秒でも長く、蘇った君を感じていたかった。



 ちらちらと何度も君の顔を見る。その途中でふと目に入った。無防備にはだけた胸元に艶かしく咲いている花弁。



 冬樹ぼくは思い出す。これはきっとナツメとの情事の際に残ったものだと。



 一方で雪之丞ぼくも思い出す。いつか夏南汰にこんな傷を刻んでしまったことを。



『わかってないね! 君は本当にわかってないよ。彼女のことも、僕のことも』


――ユキ、やめ――


『わからないなら教えてあげるよ』



――やっ……いやーーーーッ!!――



 開き始めの蕾のようだった、まだ何も知らなかった君を劣情で痛めつけてしまったことを。



 ずっと悔やんでいたことだけど、こうして目の前にすると涙が溢れてくる。


 あのときは憎くて憎くてたまらなかった。長年想い続けてきた僕の気持ちも知らず、他の女性と簡単に一線を超えた夏南汰が許せなかった。


 だから冬樹に生まれ変わってからも、ナツメに沢山意地悪を言ったんだね。悪い子、悪い子って何度も。未だに心が遠いような気がして不安だったから、せめてその身体に刻み付けたいと欲望が暴走していた。



 だけど今は、違うよ。再び君を失いそうになっているから尚更思う。


 わかってないのなら、せめてもっと優しく教えてはあげられなかったのかと。何もかも夏南汰の鈍さのせいにして、僕だって相当独り善がりだったじゃないか。



「ごめんね、ごめんね……僕は本当に馬鹿だ。本当に酷い男だ」



 次第に強さを増していく夜風が、容赦なく打ち付ける木の葉の破片が、馬鹿者、馬鹿者と、僕の罵っているかのよう。



 しかしやがて奇跡が起こる。



「ユ……キ……?」



 満天の星空が下から僕を見つめた。いいや、それはいつだって輝きを失わなかった君の瞳だ。



 夏南汰……!



 そう呼びたかったのに、何故か僕の喉が詰まった。


 どういう訳だろう。僕は、君に見つめられるとその名が呼べなくなるんだ。躊躇ちゅうちょどころじゃなく、石を飲み込んだみたいにぴたりと出てこなくなる。



「……秋瀬」


 だけどまずは伝えたい。君に逢えた喜びを、今僕が見つめている君は間違いなく前世の君なのだと。


 冬樹がナツメをそう呼んでいたのは最初の頃だけだ。ゆえに君もすぐに気が付いてくれたらしい。


「私を思い出してくれたのか?」


「うん」


 僕が喉を震わせ頷くと、君は安堵の微笑みを零す。星屑の瞳に綺麗な涙をいっぱい浮かべて、か細い声で僕に言う。



「不思議なんじゃよ。あんなに遠く離れていたのに、私は何故か、君に辿り着いた気がする。あのときもこうして、君の腕の中に」


 それが如何に切ない意味か僕にはすぐにわかった。そうだ、夏南汰は大西洋で死した後のことを知らないんだ。



 僕は迷った。激しく葛藤した。


 だけど伝えておいた方がいい気がした。だって君は僕の腕の中で安らぐことを望んでいる、ならば……



「うん、だって秋瀬は帰ってきてくれたもの」


 知らぬ者が聞いたら、本人に言うべきではない残酷な言葉に思えるだろう。



「指先一つ程度の……っ、骨になっていたけれど……!」



 だけどほら。君は泣きながらも笑ってる。


「私は帰ることが出来たんじゃな。ユキ、君の元へ」


 独りぼっちが嫌いな君にとっては、こんなのも救いの言葉になるんだ。



「そうだよ、秋瀬。死の間際は柏原さんがついててくれてた。骨になって見つかった後はお兄さんが君を迎えに行って、夏呼さんと僕に逢わせてくれた。君は最期まで独りじゃなかった。そして僕は一日だって君を忘れたことはない。生まれ変わってからも、ずっと」


「私も逢いたかった! 好きじゃよ、ユキ。大好きじゃ」



「秋瀬」



 好き。それなら、大航海に出る間際にも受け取った。


 だけど今の響きは違う。今の君はもうわかってる。やっと繋がった、僕らの想いが。今世だけでなく前世の僕らも、やっと心から一つになれたんだ。



 肩を大きく震わせた君が僕の胸元を強く掴む。濡れた顔を真っ直ぐこちらへ向けて真っ直ぐな想いを放ってくれる。待ち焦がれた瞬間。



「君を愛しちょるけぇの、雪之丞……!!」



 今更とでも思っているのか、君は後悔の念を口にする。夏呼さんも僕も傷付けてしまったと。恋が如何なるものかもわかっていなかったと。


 こんな自分など愛想尽かされても仕方ないと、何処までも自分を責めるんだけど



「嫌いになんて、なれる訳っ、ないでしょう……ッ!!」



 僕は激しくかぶりを振り、ちょっと苦笑混じりに言い放った。その声色は格好悪く裏返った。


 改めて思うんだ。君がどんなに馬鹿をやったって見放すとか僕には無理な相談だよ。夏呼さんもそう。あと今ならわかる。きっと陽南汰お兄さんもだよ。君に惹かれた人はみんな。惚れた弱みって、怖いね。





 崖上の木々の隙間が再び闇に埋め尽くされる。不穏な天の唸りが遠く彼方で、だけど確実にこちらへ近付いている。


 こんな状況でも僕は現実を理解しているつもりだ。一度落ち着いたかに見えた天候も今にまた崩れるだろう。先程の通り雨とは比較にならないくらいの嵐がやってくる。


 夏南汰が何故こんなところに居るのかはわからないけど、細い足首は大きく腫れ上がっていてとても歩けそうにない。見たところ捻挫、下手すると骨にヒビが入っているんじゃないかと思う。


 もうほとんど声も出すことが出来ない、僕の体力が尽きるのも時間の問題。更にこんな山奥、崖の下。辿る道のりは土砂崩れで断たれている。


 死後の世界にもまた死があると言うのなら、僕らは今確実にそちらへ向かっている。助かる見込みは低いと言えるだろう。




 そんな状況だからこそ。



「はぁ……ユキ……っ!」



 地面に雪崩れた僕らは深い深い口付けを交わす。共に果てる覚悟を決め、いじらしく僕の首に縋る仰向けの夏南汰に残る体力の全てを注ごうと決めた。


 本当は我が身を犠牲にしてでも守りたかった、僕の愛する人。だけどそれすら諦めざるを得ないなら、せめて、君が寂しくないように温めてあげたい。今度こそ優しくしてあげたい。



 夏南汰の敏感なところを手で探り、その熱い吐息を引き出した。唇を重ねる度に奥深くへ入って、とろけそうに熟した小さな舌と絡まり合う。愛の言葉は囁けなくても、愛する君の甘い声色に包まれているだけで十分だった。


 雨水に濡れ、妖艶に彩られた乱れ髪。切ない微笑みを浮かべた君が僕の頰を優しく撫でる。



「ユキ……生まれ変わったら、また……私と……一緒に、なって」



 ああ、もちろんさ。



 言葉で返す代わりに僕は、最後の力を振り絞って夏南汰を強く抱き締めた。



 眩い稲光と共に薄れていった意識。夢かうつつかもうわからない。


 やはり最後まで、一つになるところまでは行けなかった。だけど心は深く深く交わったような気がするよ。



 夏南汰、もう自分ばかりを責めないで。今更と言うなら僕の方だ。遅くなってしまって……ごめんね。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



 泡沫うたかただとか

 雪だとか

 そんな感じの恋だった


 触れれば幻想の渦に巻き込まれ

 目覚めてはいけない僕が目覚めた


 泡沫だとか

 雪だとか

 そんな感じの君だから


 御伽の国からやってきたみたいな

 掴みどころの無い君だから



 叶わなくて

 届かなくて

 儚くて

 切なくて


 壊れ物のように繊細なのに

 壊してしまいたい衝動に

 僕は呻いた

 苦しんだ


 そして長い長い時を経て

 やっと手段を見つけたよ



 泡沫だとか

 雪だとか

 そんな終わりが似合う君ならば


 僕も一緒になってしまえばいい

 一緒に壊れてしまえばいい


 大丈夫

 怖くなんかないさ

 形を失っても

 砕けても


 僕は君に寄り添い続ける

 これほど幸せな役割は無いのだから


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