8th NUMBER『春よ散らないで』


 気が付けば愛の波に飲まれていて、もがきながらもひたすらに君を追っていた。僕の中の君はじんわり滲んだ水彩画のような桜吹雪の中で、それよりも遥かに眩い真夏の笑顔を咲かせていた。


――ユキ!――


 僕に微笑んでくれていた。


 僕だけに。



 あれは強烈な麻酔だったのか、いいやむしろ麻薬だったのか。いつしか想いは執着に変わり何度も自分を見失いかけた。この世に存在するどれもこれもが例外なく変わりゆくと知っているはずなのに、あの日の君だけが変わらないものだから……尚更。


 認めたくなかった。君が変わっていくなんて。他の誰かを僕以上に愛するなんて、僕の愛に対する冒涜だとさえ思った。いくらか冷静になった、ううん、ならざるを得ない状況に置かれている今だからわかるよ。僕は本当に狂ってしまっていたんだね。



 僕は今、年季の入った家屋特有の匂いに包まれながら、薄く開いた障子の向こうを眺めている。痛む節々と寒気を労わるべく厚手の褞袍どてらを羽織って縮こまっている。呼吸の合間に何度も激しくむせ返って時には血液まで混じる。それなのに、ため息は性懲りもなくこの喉から零れた。


「結核……か」


 そういう訳だ。あの不治の病がついに自分にも訪れたのだという実感が未だに沸かない。実家の離れに隔離されているこの状況も、確実に我が身を蝕んでいく症状も、もはや逃れられないものだとわかるのに。



 身体の苦しみ以上に僕を蝕む記憶があるんだ。



 あれは約一ヶ月前の神無月。僕が限界まで狂気に染まった。獣と化して荒れ狂った……ねぇ、神様。今更な我儘を言うよ。あのときばかりはどうか出雲から舞い戻って僕を止めてほしかったと。




 夏が過ぎ去ったばかりで、閉ざされた空間にもカサカサという枯葉の音色が聞こえてくるようだった。秋雨が上がり天使の梯子が降りてくる窓際の光景に魅入っていた僕に、夏南汰がふと言ったんだ。


「のう、ユキ。夏と冬。共に在ったら素敵だと思わぬか」


 こんなふうに。ちょっぴり悪戯いたずらな謎かけをする。相変わらずだねと内心で笑いつつ僕はその意味を探ろうと首を傾げた。


 しかし夏南汰はやっぱり思わせぶりで


「見てみたくはないか?」


 希望の光をいっぱい含んだ瞳を細めて、もう何処か彼方を見つめていて


「君に見せてやりたいと思う」


 僕に残酷な期待を持たせるんだ。



 だから僕もつい意地悪をした。見せてくれる?と好戦的に。期待していいのかと問いかけたんだけど……


「ああ! 大いに期待してくれ!!」


 僕の手をぎゅっと強く握り締めて言い放った。何もわかってない無邪気な顔をして。結局、してやられたのは僕の方だった。



 どれだけ自信満々な振る舞いを見せつけられたって、僕の心は不安でいっぱいだった。眩しい天使の梯子にだって照らせはしない。


 原因ならはっきりしていた。夏南汰がこれまで経験したこともない長期間の航海に出ると宣言したんだ。短くても半年。それを聞いた僕の中で何か言い知れぬ胸騒ぎが起こり、続々と生まれてくる不穏な想像に飲み込まれていった。



 まず第一に、夏南汰たちの進路には“魔の海域”と呼ばれる場所がある。船や航空機の失踪が多発していると知った上でその道を選ぶなんて、僕から言わせてもらえば正気の沙汰じゃない。


 それで僕に船旅の人員を紹介したんだろうね。ちゃんと覚えてるよ。


 航海士を勤めるという柏原かしわばら じんさんは、年配だけど見るからに逞しい男性だった。四十年間、航海を続けてきたという話だった。あと印象に残っているのは磐座いわくらみことさん。身体は女性だけど自覚している性は男性だと言っていた。夏南汰の実家のご近所さんだった人で、今も夏南汰のことを弟のように可愛がってる。性別がどうのというより、そこが信頼できそうだと思った。



 そう頭ではわかっている。だけど……



 新しい航海の仲間と顔を見合わせ楽しそうに笑う。そんな夏南汰の姿がふと脳裏に浮かんで、僕の胸はズキリと痛む。



 そうだ。もう一つ、君の思惑を阻止したい理由が、ここに。



 君と再会したあの日。門をくぐればそこは花園だった。美しい君とあのひとが人間に隠れて暮らす妖精みたいにひっそりと寄り添っていた。


 夏南汰が僕の知らない世界で生きていると知った。ありありとした現実を見せつけられたとき僕は本当に怖かった。そしてこれから僕の知らない君の世界がもっと広がっていくんだと予感した。


 ねぇ、考えてみたことある? ……いいや、君のことだからそんなの微塵も考えてないんだろうけどね、君は凄く可愛いんだよ。平坦なはずなのにやけに色っぽく育った身体つき。思わせぶりな上目遣い。同性愛者が生きやすい世の中を実現する為に……なんて、立派なこと言ってるけどさ。


 勘違いでもされたらどうするの。自分に気があるって思い込んだ大柄な男に君は太刀打ちできるの? ……出来るわけないよね。


 女性にとってもそうだよ。君はほっとけない存在のはずだ。事実夏呼さんだって、そして僕も、君に心惹かれているじゃないか。君は性別の隔たりを超えるんだ。欲情する人間は少なくないはずだ。



 まさか……まさか。


 帰ってこれないなんてことに、ならないよね?



 ああ、怖い。夏南汰を失うのが怖くてたまらない!



 それは後ろ向きな妄想であると何処かで気付いてはいて、漠然とした恐怖心であることもわかってはいた。でも止められなかった。ただ止めなきゃって、実に無計画な焦燥に駆られた僕は再度の説得を試みた。


「まだ心配しているのか? ユキ」


 応接間に僕を招いた夏南汰は困ったように笑った。長い睫毛を下向きにしてさらりと身を翻した、そのとき。



「――――っ」



(花……弁…………?)




 夏南汰。



 ねぇ、その首筋に咲いているのは何。



 凍りついたすぐ後にドクドクと低い脈打ちが速度を増した。気持ちの悪い汗が額に滲んでくるのがわかった。足なんてきっと震えていたと思う。


「もしかして船の失踪のことか? 魔の海域と呼ばれている場所を通過する。だから心配しているのだな」



 夏南汰が何か喋っているようだけど。


 言語が、脳内で、上手く、処理されない。



 もう漆黒の髪に隠れてしまったあの紅梅色。細い首筋に確かに存在していた艶めかしい花弁。瞬きすら忘れて充血していく僕の目にはもうそれしか映ってなくて。



 夏南汰……


 カナタ……



 心の中で君の名を繰り返すとじわじわと溢れてくる。じりじりと焼き尽くす。この胸を、この僕を、この愛しさも、何もかも。



 いつか呼んであげたいと思っていたこの名前。いつか誰よりも近い存在になれたそのときまで大切に温めておこうと決めた、僕の宝物。


 今、音を立てて壊れていくようだよ、“カナタ”……


 僕の手をすり抜けて遠く遠くまで行ってしまう。そういう意味ではないはずなのに、僕はそうとしか考えられなくなった。この響きはあまりにも君に似合い過ぎていて……



 今ではもう、心の中ですら呼びたくない。



 突きつけられた現実に対して弱々しくかぶりを振る背後の僕にやがて届いた。


 なんにもわかっていない彼方カナタの君が


 残酷にこの胸を抉った。




――夏呼は見送ると言ってくれたぞ?――



「夏呼……さん」



 やはりそうなんだね。


「また……夏呼さん?」


「ユキ……?」


 やっと振り返った君の表情が一瞬にして強張った。漆黒の中の瞳孔がしゅっと縮んだように見えた。ぷるぷると小刻みに震えて。そんなに怯えて。やっぱり小動物は危機に対する察しがいいね。可愛いね。



 僕どんな顔してる? ねぇ、鈍感な君にもやっと、僕の心が見えたって訳?


 でももう遅いよ。もう、遅い。



 目を見開いてじりじり距離を詰めた。君が一歩後ずさりしたところで僕のたがが外れた。



「わかってないね! 君は何もわかってないよ。彼女のことも、僕のことも……!」



 だって愚かな君に教えてあげなきゃ。




「ユキ、やめ……!」



 気が付けば君の襟元に爪を立て、左右に大きく引き裂いていた。そこにもやはり咲いていた。やはり……そうなって・・・・・いたんだと確信した僕はそこに歯を立てた。


「ひっ……! あぁ……ッ!!」


 恐怖に染まった君の悲鳴に、あろうことか僕は満たされていく思いを感じた。きっと薄く笑ったりなんかして、なのに焦点の定まらない視界はじわじわと滲んでくる。はらはらとこの頰を伝う、熱い雫の群れが。



 可愛いね。本当に可愛い声。そうやって鳴いたんだね。彼女に、聴かせたんだね……?



 いいなぁ。頂戴よ。僕にも頂戴。



 おぞましくさえ感じる勢いで噴き出した僕の欲望は、君の悲鳴を餌にするみたいにして何処までも拡大していく。もう止められない。次第に“僕”が失われていく。


 細い首筋にじんわり滲んだ汗さえも僕は貪った。上へ上へと舌を這わせ、辿り着いた耳朶に齧り付くと一層悲痛な叫びが辺りに響く。少し錆びた味がした。きっと血が滲んだ。


「……痛いの?」


 震える手で君の後頭部を掴み、もう片方の手で柔らかな頰を撫でる。濡れた感触。君も泣いてる。泣いてくれてる。ああ、いつか望んだ光景が今僕の手の中に。


 曲がりなりにも今一つになってるって思うと一層離したくなくて、実に恐ろしい呟きが自身の中で次から次へと生まれていく。



 痛がればいいよ。僕の胸の痛みはこんなもんじゃない。少しは知りなよ、その身をもって。


「痛い、痛い……、あぁ……っ、怖いよ、ユキ」


 怖がればいい。ほら、そんなことを言いながらも僕の荒い息遣いと重なってくるじゃない。身体は仰け反っているのに腕はしっかりと絡みついてくる。そうやって僕を誘うんだね。そうやって君は、いつだって! 僕を飼い殺しにするんだ。


「悪い子だね……!」


 僕の叫びには嗚咽が混じった。こんなに君が欲しかったのに。


「うう……許して」


 もうすっかり涙声になっている君の懇願は、僕の荒れ狂う嗜虐心と怒りを一層昂らせるだけだった。豊かな漆黒を手で掻き分け、無防備な君の耳へ言葉にならない想いをふんだんに流し込んでいく。



 今更調子のいいこと言わないで。呆れるよ。はいはい、って話を聞いてくれるひとこそが自分をわかってくれていると思い込む安直さ。寂しければ簡単に身体を許す軽率さ。人の善意を踏みにじる残酷さ。


 許さない。絶対に許さない。


 そう、無理矢理言葉にするならばこんな想い。こんなに失望させてなお僕の心を掴んで離さない、使い所を誤った妖艶さも、全部。



 いつか君、言ったよね? 夏呼さんと引き離したときに、僕なんか嫌いって言った。よくそんなこと簡単に言えるよね。


 冗談じゃないよ。僕なんて、僕なんて……!



「いっそ壊してしまいたい。嫌いなれたらどんなに楽か……!」



「嫌じゃ、ユキぃ! こんなの、嫌じゃあ……!」




 一際高く上がった君の叫びが僕の目を覚ました。



 剥き出しにされた肩を抱き締めしゃくり上げる君に見入った。花弁……どころじゃない。綺麗な胸と首筋に生々しい歯型を刻まれた君へと僕は手を伸ばす。それは君の鎖骨の下へ吸い付くなり、カタカタと震えて留まっているだけ。



 どうしたの? そんなになって、可哀想に。一体誰が……


「ユキ……」


「僕……が……?」


 信じられなかった。認めたくなかった。だけど涙に満ちた君の瞳は確かに僕を見つめていた。確かに僕の名を、呼んだ。



「あ、あ……ごめ、ごめ……」



――――っ!



 踵を返したが最後、僕は狂ったように君の手を振りほどいた。待って、待って、そう言って縋る君に触らないでと言った。触っちゃいけないと。


 恐れるべきは魔の海域以上にこの僕だ。その身を守りたいのならば、二度と僕に触れてはいけないと……想いは全て伝えられなかったけれど。




 それからすぐに体調を崩して倒れた僕は、僕の心に残ったのは……



――ユキ、一緒に行こう!――


――生涯の友じゃ!――


――ずっと、ずっと、繋がっとるけんのう!――



 君と過ごした優しい思い出ばかり。もう散ってしまった僕の春。いいや、違う。僕が自分で壊してしまったんだね。



 いつの間にか君を憎んでしまっていた。日に日につのっていく恋心に比例して成長した醜い憎悪が君を汚してしまった。


 それでも君に嫌われたくなかった。こんなに大切に想っているんだよって、いっぱいの優しさで伝えたかった。本当は。



「今でも君が憎いよ。そして今でも一番に愛おしい。でも……もう遅いよね」



 今僕は、執念の化け物と化す前の気持ちを思い出している。不治の病に蝕まれ、これから壊れていくのは僕なのだろう。でも仕方ないよね。君を壊すよりかはよほどいい。



 痛む胸に呼吸が浅くなる。きっと春は迎えられないだろう。だからこそ僕は別れを告げるんだ。途切れ途切れな息で、それでも精一杯、はっきりと。



「さようなら……秋瀬」



 彼方の君へ。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



 大切だったよ僕の姫

 少年でも青年でも愛くるしい僕の姫

 誰がなんと言おうが僕の姫

 この生涯をかけてでも守りたい絆だった


 だけど待っていてくれないの

 翼の生えた眠り姫

 幻想の中で生きるんだね

 可憐なあのの蜜を吸って

 君は一層美しくなった


 こんなケダモノは要らないんだね

 王子様にはなれない僕


 二人の姫は肌を重ね

 紅梅色の花弁を身に纏い

 僕の心の中を軽やかに舞い

 純真な微笑みで僕をなじ


「出て行け」

「出て行け」

『お前はもう手遅れだ』


 ああ 知っているさ!

 僕はもう手遅れだ


 いつの間にか欲望に支配された

 自由な君を塔の中に閉じ込めて

 嫉妬のいばらで突き刺したよ


 こんな僕は塔から落ちて

 頭蓋砕けてむくろになるがいい


 それでも泣くの

 何故泣くの


 君は何故 僕を守ろうとするの……?



 その手を離してよ

 お願い


 無様な敗者ぼくに同情なんか要らない


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