4th NUMBER『君よ輝きすぎないで』


 やがて僕の最愛の存在となった、その魂に初めて出逢ったのが物質世界フィジカルの日本。大正七年の春のことだった。


 その日は中学校の入学式。前々世の僕・春日雪之丞は小さな町医者の家庭で育ったのだが、皮肉なことに自分自身がかなりの病弱体質だった。幼い頃から度々熱を出しては学校を休みがちで、友達と外で遊んだ経験も数える程しか無い。その上……


「ユキちゃん、困ったことがあったらなんでも姉ちゃんに言うんだよ!」


 ドン、と胸を叩く逞しい仕草。見た目はハイカラなんて呼ばれているものの、中身は男にも勝る強気な性格。柔道初段、剣道二段。その上過保護な三つ上の姉・美晴みはるが常に守っていてくれたものだから、僕の軟弱っぷりには一層拍車がかかっていた。


 ちまたではバンカラなんていう不良の装いが流行っていて、上級生の中には真似る者も多いと聞いた。今は大人しくしている一年生の中にも予備軍が居るのだと思うと、真新しい学生服の中に納まった僕の貧相な身体は絶えず震え続けた。


(友達……なんて、出来るのだろうか)


 色白で痩せ型で、瞼は情けないくらいの垂れ下がり。背は高い方だと自覚しているけれど、ただのでくのぼうと知れた日には不良たちに絡まれるんじゃないだろうかなんて、後ろ向きなことばかり考えていた。ともかくは目立たぬよう、気配を消すようにして席に着いた。授業の流れだけ教えるとのことで一冊だけ持ってきた教科書を落ち着きなくいじったりなどしながらふと隣に視線を向けて


「!?」


 僕は仰天した。かぁっと熱が登りつめて、即座に顔を背けた。たった今目にしたものが信じられなくて、混乱した頭で一生懸命思考する。


(なんでここに女の子が居るんだ!?)


 それもそのはず。この時代、女の子が中等教育を受けるのは高等女学校からだった。こんな男子ばかりの場に存在しているはずがない。


(と、いうことは……?)


 恐る恐る、もう一度振り返ってみる。次に導き出した可能性も信じ難かったが、そこには確かに居る。肩よりも少し長いツヤツヤした綺麗な黒髪に、触らなくてもわかるすべすべの肌。そして円らな目を携えた少女のように愛くるしい横顔。小さな唇なんてまるで朝露にしっとりと濡れた桜の花弁のようだ。


 だけど確かなものがもう一つある。その可愛い子は僕と同じ学生服に身を包んでいるのだ。信じられないけれどそういうことなんだと思った。


 僕はその不思議な魅力を持つ少女……もとい、少年から目が離せなくなった。心がくすぐられるとはこんな感覚なのか。そんな僕の甘い疼きはやがて小さな焦燥へと変わった。



 なぁ見ろよ、アイツ。


 女みてぇだ。


 俺、さっき先生と話しているのをちらと聞いたんだ。なんだか訛ってたぞ。


 ここらじゃ見かけねぇ顔だしなぁ。



 ボソボソと潜めた話し声に、やがてクスクスと不快な音が混じり出したからだ。僕の弱気な瞳は出処を探そうと落ち着きなく右往左往する。もはや目では追いきれないくらいそこかしこで沸いていると気付いたとき。


(この子は僕が守る。守るんだ……!)


 僕の中に初めて決意らしいものが生まれた。そこから駆り立てられるようにして口を動かした。


「ね、ねぇ」


 こんなのも初めてのことだ。



 それまで横から覗き見るだけだった大きな目にはたと正面から見つめられて固まった。満天の星空を閉じ込めたみたい。そんなあまりにも美しい黒目に一度は言葉を失った。だけどもう後戻りの出来ない僕はここから精一杯の勇気を振り絞ったのだ。彷徨った視線が捉えた一点を頼りにして。


「秋瀬……なんて読むんだい?」


 それは彼が持っていた真新しい教科書の表紙だった。“夏”に“南”に……その並びを見ただけでなんともハイカラな雰囲気を感じる。


 可愛い少年は怪訝に眉を寄せたかと思うとふっと視線を逸らして、凄く、小さく、答えてくれた。



「……カナタ」



 “夏南汰”で、そう読むのか。いや、そうかなって薄々気付いてはいたのだけど。沈んだ声色と不機嫌そうな表情を見る限り、本人はそんなに気に入っていないように思えた。カナちゃんなんて呼んだら……怒るだろうな。やめておこう。


「“秋”瀬……なのに“夏”? 面白い矛盾だね」


 あったかそうでいい名前じゃない。お洒落だし。本当はそう言ってあげたかったのに、実に冴えないことを言ってしまったと自分でも思う。冴えない薄ら笑いを浮かべたまま、学生服の下では冷や汗をだらだらかいた。ああほら、そうこうしている間に夏南汰少年の眉間にしわが。どうするのさ、僕。


「それは君もじゃないか。春日雪之丞」


「え?」


「“春”なのに“雪”」


「あ……」


 思わぬ反撃を受けて僕は目を見開いた。今更に思い出す、自分も同じ教科書を手にしていたこと。同じように名を記していたこと。


 やがて円らな瞳が悪戯いたずらに、上目遣いで僕を捉えた。ほんのり口角を上げた唇にドキと高鳴った瞬間、可愛らしい笑い声が花弁を散らすように僕の周りの空気一面を桜色に彩った。


「えぇのう」


 ひとしきり笑い終えた少年がぽつりと呟く。


「君の名は侍みたいじゃ。私も名前くらい男らしく……」


 何処かで聞いたことのある口調だ。何処だろう、九州かな? いいやそれよりも、この寂しげな表情をなんとかしてやらねばと僕は再びの勇気を振り絞って。


「僕は夏が好きだよ!」


 振り絞った、という割に、またしても訳のわからないことを言ってしまった。あちゃーと内心で呟いた。いい名前だよとか素敵だよとか、何故それだけのことが言えない。


 しかしそんな冴えない僕の言葉にも彼は返してくれた。まぁるく見開いていた漆黒の瞳を三日月型に細めてこう言った。


「私も雪が好き」


「!」


 “ユキちゃん”……自分がそう呼ばれてきただけにこれはまさに不意打ちだった。



 先生が教室に入ってきて間もなく一人ずつ自己紹介をするよう命じられた。あいうえお順……ということは、やはり。


「始めに秋瀬夏南汰」


「はい」


 あぁ、こうなるよね。隣で起立した彼を追うようにして見上げた。ヒソヒソ話す声がまたそこらじゅうから。僕は固唾を飲み両手を強く握って身を乗り出す。



「秋瀬夏南汰です。二年前にこの町へ来ました」



 本当だ、訛ってる。


 二年前かぁ、何処の学校に居たんだろうな。



 何処ぞからの呟きが聞こえて僕は一層拳に力を入れた。願いを込めた。


(頑張れ!)


 訛ってるだとか、余所者よそものだとか、そんなつまらないことを気にする奴らに負けるな。君さえ良ければ僕が……僕が、ずっとついてるからね。


 声には出せない応援を念に乗せる僕の中に、もうかつての恐れなど無かった。自分のことなんてどうでもよくなっていた。侍のようだと言われるこの名に初めて負けない力を得られそうな気がしていたのだが。



「文明開化のこの時代、皆と共に歩めることを私は誇りに思う」


 僕はまざまざと見せつけられることになる。


「我ら日本人は異国から見れば実に小さいと聞く。ふふ、小柄な私が言うのもなんなのだがな、しかし我々は知っているはずだ。内なるこの胸にはどの国にも劣らぬ大和魂が有ることを。この学び舎で切磋琢磨し、共に育ち、やがては文明を切り開く歴史の一員となりたいのだ」


 自己紹介というよりは政治家の演説のよう。先程までの儚げな表情が嘘のようだ。凛とした眼差しの臆せぬ振る舞い。四方八方から寄せられていた好奇の視線の色が変わっていくのがわかる。


「不言実行が在るならば、発言して行う者が居ても良いではないか。楽しんでいこうではないか。皆と一緒にそんな社会をここから始めていきたいと私は思うよ」


 見た目は少女のようなのに、何処か大人びていて、だけど無邪気で。あぁ、今まさに飲み込まれていく途中。目の前がぐるぐるするような感覚に溺れていたとき、そこらじゅうから拍手が湧いた。ところが彼はそれさえも臆することなくぶち壊す。


「細かいことを言わずに陽気にいこう。作曲家・モーツァルトも言っているのだよ。“俺の尻をなめろ”という曲でな」


 ワハハハハ!!


「こら秋瀬ッ!」



 可愛い顔してなんてことを言うの。先生怒ってるし、みんなに芽生えた感動も台無しだ。だけど何故だろう、呆気にとられてなお目が離せない。


 皆の歓声が湧く中でふっと気品漂う横顔に戻ってみせる。あんな下品なことを言っておきながら難なくそれをやってのける。そしてちらりとこちらを振り向いたなら、照れくさそうな笑みを今更見せつけて僕の心を揺さぶるのだ。


 手に取ったばかりの教科書がするりと下へ抜ける。僕は確信した。とんでもない人に出逢ってしまったと。



「もう、秋瀬ったら……」


「ふふ、これから宜しくね。雪之丞」


「…………っ!」



 呼ばれてちょっと後悔した。君が僕をそう呼んでくれるなら、僕だって“夏”の方で呼びたかった。




 ※『俺の尻をなめろ』はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1782年にウィーンにて作曲した実在の曲です(ドイツ語カノン形式の声楽曲)



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 春が咲いた

 春が咲いた

 僕の世界が色付いた


 綺麗に乱れた

 芳しく

 目が眩むくらいいっぱいに

 咲き乱れた桜色が

 青い新芽の心を揺さぶったよ


 春が咲いた

 春が咲いた

 呆然(ぼうぜん)と見惚れるだけだけど


 生まれたてのこの気持ち

 無力だと思っていた僕の中で

 確かな力が息吹を放つ


 やっと春の名に相応しくなれた気がした


 咲いた

 咲いた

 桜色の季節

 桜色の君が

 この胸いっぱいに

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