まだ少しは眠れた夜の話

「明日さあ……満月なんだけど……」


 異種双子が集まるアメルディ学院の一室。カリムとラルスの自室にて、ラルスがぽつりと呟いた。

 魔力を発散できずにため込みすぎた結果、ラルスの心身がギリギリの状態である。そう知ったのはこの間。ラルスの発言から考えると、およそ一か月前のことになる。


 ラルスとの関係は満月の日を境に大きく変わった。

 とは、実は言い難い。

 前に比べればケンカの頻度は減った。しかしそれは仲良くなったというよりは、お互いに距離を測りかねた結果と言える。


 あの日、ヴィオに連れられて弱り切ったラルスを目にしたとき、カリムはかなり動揺した。未だにあの時の心情を正確に言葉にするのは難しいが、とにかく衝撃だったということだけは覚えている。

 常に目の前にいるのが当たり前のものが、当たり前ではない。その事実に初めて気づくと同時に、失う可能性に気づいて、カリムは焦った。しかし、なぜそんなにも狼狽えたのか自分自身が分からなかった。


 カリムはラルスが嫌いだ。視界にも入れたくない。そういう態度を貫いていたし、そうだと疑いすらしなかった。それなのに、いなくなるかもしれない。そう知ったとき、真っ先に感じたのは喪失感。

 目の前から嫌いなものがいなくなるというのに、嫌だ。そう強く感じた自分にカリムは戸惑った。

 その戸惑いは、弱ったラルスの隣で一日を過ごしたことでさらに増した。

 弱り切ったラルスは普段カリムに牙をむく姿とはまるで違う。威嚇することもなければ、文句をいうこともない。ピッタリとくっついて満足そうに眠る。

 ここが一番安心できる。そういっているような険の取れた顔は幼く、自分よりも大きな男であるという事実を忘れて、かわいい。そうカリムは思った。


 それもカリムにとっては衝撃だった。

 可愛い。あのラルスがだ。

 出会ってから今まで、ずっと嫌っていた存在を可愛いと思ってしまった。その事実がカリムにとっては受け入れがたく、あの日は一日中悶々と過ごした。

 というのに、次の日、目覚めたラルスは何一つ覚えていなかった。自分が弱り切って人型すらた保てなかったことも。カリムがずっと一緒にいたことも。カリムにずっと甘えるようにくっついていたことも、何一つだ。


 正直それには腹がった。私がもんもんと悩んだ一日を返せ。と怒鳴りつけたかったが、それもラルスを意識しているようで腹が立つ。

 そのうえ、あの日の甘えたラルスの姿が脳内にちらつくようにまでなってしまった。

 自分に対して不満げな顔をするラルスを見ると、あの時はおとなしかったのに。と思い、ヴィオにしっぽを振っている姿を見れば、あの日甘えてきたのは私だったのに。と思う。

 これではラルスに甘えてほしいみたいじゃないかと、眉間にしわを寄せ、一人頭を振るカリムを見て、セツナには残念なものを見る目を向けられた。


 これも、あれも、全てラルスのせいだ。そう思っても、あの日の弱り切った姿が浮かぶと、ラルスに対して前のような態度をとることもできない。

 そうなるとカリムが取れる行動は一つ。ラルスから距離をとる。それしかない。

 前から他の異種双子に比べると別行動が多かったカリムとラルスだ。わざと時間をずらしたところで何も問題はなかった。

 しかし、ラルスとケンカしないと会話すらしない日がある。その事実に気づいて、なぜだかカリムは落ち込んだ。

 その理由が分からず。いや、正確には分かっても受け入れがたく、我ながらここ一カ月は情緒不安定だったとカリムは自覚している。


 あれから、一カ月。もうそんなにたったのかと、カリムは長いような短いような微妙な気持ちになった。

 そして事態がまるで進展していない。そのことに気付いてカリムは顔をしかめる。

 何の解決策も思い浮かばないうえに、一カ月間、問題から目をそらして逃げ続けた。立派な軍人を目指していた人間としては、何ともふがいない結果である。


「……やっぱり、嫌だよな……。俺と一緒にいるの」


 物思いにふけって、何もいわないカリムを見て、ラルスがぽつりとつぶやいた。

 小さな声だったが、カリムとラルスしかいない狭い部屋だ。ラルスの声はやけに響いて聞こえて、カリムはラルスへと視線を向けた。

 自分のベッドに胡坐をかいて、お気に入りのクッションを抱きしめているラルスは、険しい顔をしていた。元々吊りあがり気味の目がさらに吊り上がって、眉間には皺がよっている。初対面の人間だったら怖がりそうな人相だが、カリムには泣くのを必死にこらえている子供のように見えた。

 それにギュッと胸が締め付けらた気がした。何で。そう思う前に、言葉が口から出ていく。


「嫌ではない」


 自然とこぼれた言葉にカリムが驚く前に、ラルスが視線を上げた。先ほどまでの泣きそうな顔とはまるで違う、驚きと喜びが混ざったような表情。慌てて表情をとりつくろうように眉間にしわを寄せたが、口元がムズムズと動いている。

 ラルスがヴィオによく見せる。うれしいのを我慢している時の顔だ。


「……お前が他人に迷惑をかけるのは本意じゃない。一緒にいるだけでいいなら、満月の日くらいは一緒にいてやる」


 何でだか直視できなくて、カリムは腕を組むとラルスから視線をそらした。しかし、すぐにラルスがベッドから立ち上がって、カリムの前へと移動する。そらしたカリムの視線の先へ入ったラルスは、じっとカリムを凝視する。


「ほんとに? 一日一緒にいてくれんの?」


 ラルスは相手の目を見て話す。

 ワーウルフの特性ともいえるそれが、今のカリムには落ち着かない。今は出ていない耳としっぽが不安げに揺れている幻覚まで見えて、カリムは戸惑う。

 自分を威嚇し、吠えてくる相手が、眉を目じりを下げて不安そうに見つめてくる姿に胸がざわつく。そんな顔するな。そう言いたくなるが、言うには勇気も資格も足りない気がした。


「……一緒にいるだけでいいんだろ。ちょうど読みたい本もあったしな」


 嘘ではない。

 満月の日になると体調を崩し勝ちなワーウルフとその片割は、休んでも学校からは何も言われない。

 異種双子にワーウルフが多いこともあり、満月の日は学園通してほぼ休校扱いで自習も多い。そうした場合カリムはだいたい本を読んで過ごすことが多かった。

 教室で読むか、寝ているラルスの隣で読むかの違いだ。


 そうカリムは軽い気持ちで答えたのだが、ラルスはカリムの予想を超える反応をした。

 花が咲く。そう表現していいほどに、表情が華やいで耳としっぽが勢いよく飛び出した。感情を制御するのが苦手なラルスは嬉しかったり、怒ったり、感情が高ぶると耳としっぽが出てしまう。

 カリムの前でもよくあることではあったが、大概はケンカしている時。怒りで耳としっぽが出ていた。しかし今回は違う。しっぽは左右に大きく振られている。


「ほんとだよな? 嘘じゃないよな?」


 念押しするようにラルスは聞いてきた。相変わらずしっぽはブンブンと振られていて、カリムは戸惑った。目の前にいるのはお前が大好きなヴィオじゃなくて、お前が嫌いな私だぞ。とカリムは確認したくなるが、勢いにおされて頷くことしかできない。

 ラルスは頷いたカリムを見ると、喜びをかみしめるようにもごもごと口を動かす。それから俊敏な動きでベッドへと戻ると、布団を頭からかぶった。


「寝る!」


 布団の隙間から顔を出して、それだけ言うとラルスは完全に布団の中に引っ込んでしまった。丸くなった布団から、完全に隠せなかったしっぽが出ている。それはやはり、左右に、上機嫌に揺れていて、カリムは得体のしれない感情が体の内からせりあがってくる気がした。


 この感情の正体を理解してはいけない。

 そんな危機感から、カリムもすぐさま灯りを消して布団に入る。

 明日は一日中ラルスと一緒にいるわけだし、落ち着こう。そう深呼吸する。

 しかし、どうしても視界の端に揺れるしっぽが見えて、カリムの心が平穏を取り戻すにはかなりの時間がかかった。


 落ち着け、落ち着けと深呼吸を繰り返した結果、何とか眠りにつくことはできた。

 しかし、それから数時間後。カリムはまだ暗い時間に目を覚ますことになる。

 小さな、気を付けなければ聞き逃してしまいそうな音がした。それが妙に気になって、カリムの意識は浮上した。

 それが異種双子特有の感覚だったのか、カリム個人の胸騒ぎだったのかは分からない。分からないが、目をさましたからこそカリムはラルスの異変に気付くことが出来た。


 最初はうるさい。そう思った。

 何だか獣の唸り声のような、低い声がする。外で野良犬でも騒いでいるのか。そうカリムは思ったが、ずいぶん近くからその声が聞こえてくると気が付いた。ちょうど隣。ラルスが寝ているベッドの方からだ。そう気づいた瞬間、カリムはベッドからはね起きた。


 真っ暗な部屋の中、ラルスが背を丸めて震えていた。布団を握り締め、息を殺すように小さくなっている。寝る前に元気に揺れていた耳としっぽは力なく垂れ下がっていた。

 はあ、はあという荒い息が聞こえ、カリムは慌ててラルスに近づいた。


「ラルス……?」


 覗き込むとラルスはぐっしょりを汗をかいていた。額に手を当てると、人間に比べて体温が高いワーウルフから考えても高熱だとわかる。

 何か冷やすもの。とカリムは焦る。病人の介抱などろくにしたことがないため、意味もなく周囲を見回した。

 食堂にいったらぬれタオルくらいは用意できるかもしれない。そう思い、とりにいこうとしたカリムの手を、何かがつかんで引き留めた。

 見ると苦しそうな表情のラルスがじっとカリムを見ていた。


 上気した頬。目じりには涙が浮かんでいて、眉は下がっている。こちらをじっと見つめる瞳は潤んでいて、カリムを掴む手は弱い。元気な時のラルスなら、カリムを強制的に引き留めるくらい簡単なのに、縋り付く手はカリムがすぐに振り払えるほどの力しかこもっていない。


 だからこそカリムは振り払えなかった。

 ラルス。ともう一度呼びかけると、ラルスは弱々しく手を引いてくる。


 一緒にいてくれ。そう目が訴えている気がした。


「氷もってくる。その方が楽になるだろ」


 カリムがそういっても、ラルスは小さく首をふる。それから再び手を引く。

 心細いのか。それとも、一緒にいた方が楽になる。そう分かっているためか。カリムには分からない。どちらにせよ、弱々しい手を振り払うことが出来そうになかった。


「一緒にいればいいのか?」


 カリムがそういうと、ラルスは小さく頷いて、また手を引く。おっくうそうに体を動かして、ベッドのわきへと移動した。

 これは、隣に寝ろとそういうことなのか。

 カリムが悩んでいると、またグイグイと手を引かれる。ぼんやりとした焦点の合わない目や、苦しそうな息遣いを見ていると、何だか妙な気持ちが沸き上がってきて、カリムは唾を飲み込んだ。

 相手は病人。というかラルスだ、ラルス。落ち着け私。とカリムはブツブツ唱えながら、ラルスの隣に横になる。


 その途端に、ラルスが握り締めていた布団を放して、カリムに抱き着いてきた。ラルスの胸に頬をくっつけ、背中に手を回す。足を絡めて完全に密着する姿勢をとったラルスに、カリムはギョッとした。

 くっついた方がいい。とは聞いていたが、密着しすぎでは!? とカリムはパニックになるが、ラルスは満足そうにほぅっと息を吐き出す。先ほどまでぐったりしていた耳としっぽがゆるゆると揺れる様を見たら、離れろとは言えず、カリムは小さな抵抗とばかりに壁を見る。


「……ラルス……これでいいのか……」

「……いい」


 小さなつぶやきは満足気で、逃がさないとばかりにぎゅぅっと抱き着かれてどうしようもない。人間よりも力の強いワーウルフだ。本気を出されたらカリムに抵抗などできるはずがない。だから仕方ない。とカリムは自分自身に言い聞かせた。

 弱り切っている今の状態のラルスだったら、逃げられる。そんな事実からはカリムはあえて目をそらした。


 それにしてもと、先ほどよりは落ち着いた呼吸をみながらカリムは思う。

 毎月こんな状態だったのなら、何故いままで気付かなかったのだろう。今回だけ、たまたま自分の眠りが浅かったのだろうか。そうカリムは過去を振り返って、そもそも満月の日、その前日の夜からラルスは姿を消していたことに気が付いた。


 カリムとラルスはケンカすることも多く、ケンカして気まずくなるとラルスはよくヴィオの部屋へと逃げ込んだ。ほかのワーウルフの部屋に厄介になることもあったと聞く。

 ラルスはカリムよりも交流が広いため、カリムとケンカしても匿ってくれる場所は多い。そのためラルスが部屋に帰ってこない。いつのまにかいなくなっている。ということも珍しくなく、カリムはそういうものだと気にもとめていなかった。


 けれど、もしかしたら、いや間違いなく、ラルスは満月の日だけは事前に姿を消していたのだ。カリムに弱った姿を見せないために、体調が本格的に悪くなって動けなくなる前に、救護室に移動していた。その事実にカリムは気付いてしまった。

 気付いた瞬間に、何かが胸に突き刺さった気がした。足元から冷えていくような、言葉にしがたい失望。自分に対しての不快感、嫌悪感が沸き上がってきて、カリムは気付けばラルスを力いっぱい抱きしめていた。


「……カリム?」


 胸に顔をうずめていたカリムが、眠そうな顔で視線を上げる。

 日頃のラルスからは想像できない、幼い表情。それだけラルスが正気ではないという証拠。

 ラルスのような獣種は弱った姿を他人にみせない。見せる相手は本当に自分が安心した相手。カリムのように片割ではあるけれど、未だに距離感を測りかねている相手に、本来であればみせるはずのない姿。それを見せるほかないほど、ラルスは弱っている。自分が弱らせたのだと、カリムはやっと理解した。


 ごめんな。その言葉が喉に引っかかって出てこなかった。


 ラルスと初めて会ったときに感じた嫌悪感は本物だ。あれほど他人を憎らしく思ったことはなかった。おそらくはアレが最初で最後。それはラルスも同じだと思う。

 けれど、その嫌悪感はずっとだっただろうか。最初のころはそうだったとしても、数年一緒にいて、とっくの昔に薄れていたんじゃないだろうか。それに気づかずに自分は、ただ無意味にラルスを傷つけ、当たり散らしていただけじゃないのか。

 そう、弱り切ったラルスを見てカリムはやっと気が付いた。もっと早く気づけたはずなのに、見ないふりをしていたことに、本当に瀬戸際になってしか気づけなかった。しかも気づけたのは自分の力ではなく、関係ない第三者に教えてもらってだ。


 今更謝る資格があるとも思えない。素直に謝れるほど、気持ちも整理できてない。

 だからカリムはラルスを抱きしめた。少しでも早く良くなってほしい。そうしたら自分の罪が少しは軽くなるかもしれない。そんな最低な気持ちがある事を自覚して、自己嫌悪に陥りながら。それでも、ラルスがよくなるならばと。ぐちゃぐちゃな気持ちのままカリムはラルスを抱きしめる。


 ラルスは不思議そうな顔でカリムを見ていた。嫌悪もなければ、憎悪もない。日頃自分に唸り声をあげている相手だとは思えないほど静かで、純粋な表情をみてカリムは気づく。

 そもそもラルスは、カリムが突っかかりさえしなければ怒らない。もともと人懐っこい性格なのだと。


「カリム……いてぇの……?」


 ラルスが背中に回していた両手を移動して、カリムの頬に触れる。両頬を包みこむようにして、ラルスがじっと見つめる姿に母親が重なってみえた。

 母親はいつもそうして、じっとカリムの瞳をのぞきこみながらいった。言いたいことは口に出さなきゃ伝わらないのよ。と。


 ああでも、この感情は伝えるべきものではない。そうカリムは思う。

 ぐちゃぐちゃだし、独りよがりだ。せめて整理して、落ち着いて。ちゃんと飲み込んでから言わなければいけない言葉だ。だからカリムは首を左右に振る。


 ラルスはじぃっとラルスの瞳を見つめて、それからぐっと顔を近づけてくる。

 とっさのことにカリムが反応できずにいると、唇をべろりと舐められた。


 あまりのこもにカリムの思考は完全に停止した。

 何の反応もできずに固まっている間も、ラルスの顔が間近にある。

 唇にはずっと生暖かい感触。ラルスの舌がペロペロとカリムの唇を舐める。そのうち唇だけでなく、頬や、鼻など、顔中をなめられ、ラルスの息遣い。両頬を包む手のぬくもり、顔を舐める舌の湿った感触。全神経がラルスの行為に集中して、指一本動かせない。


 満足したのかラルスは笑う。子供のように無垢な笑顔に何でだか胸が締め付けられた。

 カリムが何も言えずにいる間に、ラルスはかリムの首筋に顔をうずめ動きを止めた。すぐにすーすーと規則正しい息遣いを感じて、そのたびに肌に直接吐息がかかる。


 とても穏やかな寝息を聞きながら、カリムは動けずにいた。完全に思考が固まったパニック状態から解放されると、今度は顔に熱が集まってくる。

 叫びだしたいような衝動が沸き上がってくるのに、ラルスが抱き着いているためにそれができない。穏やかな寝息を乱すこともできなくて、カリムはせめてもの動く片手で顔を覆う。


「待て、駄犬……ふざけるな。初めてだぞ……」


 なんとか搾り出た言葉は、我ながら女々しくて、いやそうじゃないだろ。とさらにカリムは混乱の渦に飲み込まれたのであった。


 なんとかカリムがあれはキスではなくて舐められただけ。犬のじゃれあい。そう納得するのに一日を費やした。

 そんなカリムをよそに安眠をむさぼったラルスは、次の日、綺麗さっぱり自分の行いを忘れていたのである。

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