第8話 敗北の残響

 アリスターは、玉座に深く腰掛けたまま仰々しく口を開いた。


「待っていたよ、愛しき我が息子」


「おれも、この瞬間が来るのをずっと待っていたよ、父さん。あんたの呪いから解放されること、そして、マリアを奪われた復讐を果たすこと。あんたを殺して、おれは生きる。今、このときまで全て、あんたへ一矢報いるため、ただそれだけのために生きてきた」


 父子は、決して視線を逸らさぬまま、運命の再会に思い思いの言葉を交わしあった。


 アイザックは、胸に湧き上がる怒りや憎しみ、そして悲しみといった様々な感情が渦を巻き、それが涙となって込み上げてくるのを我慢できなかった。


 あたたかな涙が両頬を滑り落ちて行く。


「はじめまして、父さん。そして、さよならだ」


 黄色い血油に曇った刀身が正眼に構えられる。

 鈍く光った銀色にぼんやり映る自分を見つめ、アリスターは低い声で笑った。


「勝負をしよう。正々堂々。文字通り、命をかけた勝負だ」


 アリスターはぱちん、と指を鳴らした。


「あっ」


 と、ウノが短く叫ぶ声がし、アイザックとアランはそちらに目を向ける。

 ウノを閉じ込めていた檻が、忽然と姿を消していたのだ。


「ウノ、大丈夫か」


 アランが駆け出すと、ウノはその時初めて彼の存在に気がついたようで、目を丸くした。


「ア、アラン! どうしてここに?」


「助けに来ちゃ悪いかよ」


 普段のすかした物言いとは違い、切羽詰ったような口調にもウノは驚いた。なんだ、こんな真摯な態度も取れるんじゃないの、と感服してみせる。


「立てるか」


「うん」


 差し出された手を素直に握り返し、立ち上がる。


「勝負だと?」


 アイザックが警戒心を強め、訊ねる。


「半分以上悪魔である私と、ただの人間であるお前では勝敗の行方など火を見るより明らかだ。それではつまらんだろう。三人でここを脱出し、化け物の小道から無事に脱することが出来れば、お前の勝ちだ」


 アリスターの勝利は、三人の永遠の死を意味する。その魂は永久に悪魔のものとなるのだ。


 含み笑いを浮かべたアリスターの言葉が途切れると、アイザックの後ろでたった今潜ってきた扉がゆっくりと開いた。


「ふざけるな」


 アイザックの声が鋭く飛んだ。


「逃げろ、だって? 馬鹿言うなよ。あんたはおれがこの手で殺す。今ここで、絶対にだ。あんたがおれの手で死に絶えてゆく様を、この目で見るためにここまで来たのだ。ここを出るのは、その後だ」


 強く地を蹴り上げて駆け出し、問答無用とばかりに振り上げた剣。空を切り裂き、真っ直ぐにアリスターの脳天めがけて振り下ろされた銀光は、瞬きより早く二人の間に滑り込んできた一人の影に阻まれた。

 その影は、素手でアイザックの剣戟を止めてしまったのだ。

 影は、ぎりぎりと刃を握り締め、不気味な四白眼を妖しい笑みに歪める。手の中から肘に向かって滝のように流れた血は、ゾッとするような黄色だった。


 ――下級!


 アイザックは剣を思い切り振り切り、下級の指をぼとぼとと床にばら撒いた。


「そこを退け! 下級悪魔に用はない」


 アイザックが悪魔相手に恐れの欠片すら見せず叫ぶと、相手は指を失って尚、余裕の笑みを刻んだ顔で口を開く。


「申し訳ないがね、今のオレ様のご主人には指一本触れないで貰いたい。相手なら、この下級が受けてたとう」


「くっ……! アリスター!」


 アイザックは殺意の隠しきれぬ目で、下級の背後で笑うアリスターをにらみつけた。


「逃げたまえ。今のお前にはそれが一番だ。大切な友人が死んでしまうよ。守ってあげなくちゃね」


 アリスターの視線がウノとアランに移動したとき、


「やめてよッ」


 ウノがヒステリカルに叫んだ。


「私はアイザックのお荷物になんかならないわ! 守ってもらおうなんて思ってない! いいのよ、アイザック、私のことなんか気にしちゃ駄目! やるべきことを成し遂げて」


「ウノ……」


 ウノの心からの声に胸を打たれたアイザックは、瞬きの刹那に逡巡した。

 彼女の言う通り、心に誓った復讐を今、果たすべきか――そう考えて、はっと息を呑む。刹那、頭に浮かんだウノの両親の、不安そうな表情。


「おれは……!」


 アイザックは己の愚かさを悔いた。

 誓ったではないか! 必ず守る、無傷で連れて帰ると。


 ここで自分がウノの言葉に甘えてしまえば、彼女たちへの注意が疎かになる。その隙を突いて、下級がウノたちを傷つけるかもしれない。


 ウノと復讐を天秤にかけるなど、なんと愚かなことを考えるようになってしまったのだ!

 こんなところで、自分の復讐を果たすのは間違っている。この復讐に、ウノを巻き込むわけにはいかない。


 アイザックは奥歯がぎりり、と鳴るほど強く噛み締め、鬼の如き目で父親を睨みつけた。

 全身が怒りに震えた。この刃で、目の前にいる憎き男を斬殺してやりたい。その身体に流れる血が、赤いのか黄色いのか確かめてやりたい。

 怒りでどうにかなってしまったのだろうか、アイザックの頭の中はそんな狂気じみた願望に支配されてゆく。


 それでもアイザックは、頭の片隅で冷静さを取り戻せと促すように存在するエレジー夫妻の顔を思い出し、ゆっくりと剣を鞘に収め、ウノとアランを振り返った。


「行くぞ」


 アイザックは、ウノの手首を掴むと、脇目も振らずに扉の外――化け物の小道へ飛び出した。


 迷いを断ち切るかのように全力で駆ける。

 飛ぶように駆けてゆく。少しでも遠くへ!


「アイザック、どうして?」


 問うた声に、答えは返ってこなかった。

 アイザックの選んだ行動の理由を考えて、ウノは胸が苦しくなるのを覚えた。

 ――私はアイザックの切願を果たすその瞬間を邪魔してしまったのだわ。私を助けるためにアイザックは、泣く泣くアリスター・オルコットに背を向けたのね。


 ウノは胸の痛みから気を逸らすように、ちらりと後ろを振り返り、アランがきちんと着いてきていることを確認すると、再び前を向いた。


 そこにあるのはアイザックの華奢な背中。その後姿を見つめていると自己嫌悪の念が沸いてくる。


 彼の犠牲にした四年間のつけを払う絶好の機会を奪ってしまった。

 胸に渦巻く罪悪感に吐き気がする。

 収めた剣に鈍く光る復讐の輝きが目に焼きついて離れない。


「ウノ」


 と呼んだアイザックの声は、軽く弾みながらウノの耳に届いた。


「お前のせいじゃない」


「え……」


「約束したからだ。おれが勝手に約束したから。お前を無事に連れ戻すって」


 だから、と深く息を吸う気配がする。


「お前は何も悪くない」


 その声が、今までに聞いた彼の言葉のどれよりも優しくて、ウノはこの恐怖に満ちた世界で、安らぎのような、およそ似つかわしくない感情を抱いた。

 ……この胸の高鳴りは――。


「お、おい、アイザック!」


 早くも息を切らしながら、アランが叫んだ。

 アイザックは返事もしなければ、振り返りもしない。

 馴れ馴れしくウノの手を取るのが気に喰わず、咎めるようにつっかかってしまったが、突如聞こえた断末魔のような声と、暗黒の底から立ち上ってくる不気味な気配に、そんなことは頭の中から吹き飛ぶ。


「来るぞ!」


 アイザックは立ち止まり、ウノを背中で庇うように押しやると、すらりと剣を抜く。


 正面から双翼を羽ばたかせてやってきた怪鳥は三羽。


「何、あれ……」


 ウノが怯えたように後退さる。


「畜生! まだいやがったのかよ、あの鳥野郎!」


 アランが懐に手を忍ばせナイフを握ろうとするのを、アイザックが鋭い声で止める。


「君はウノを守れ。化け物たちはおれが片付ける」


「は……ぁ? てめ、一人だけかっこつけやがって」


「今、おれにウノを守るだけの余裕はない。だからお前に頼むんだ、アラン。彼女を守ってくれ」


 アイザックは振り返らず、切羽詰ったように言う。


「……けっ」


 真摯な言葉の羅列にアランは、不貞腐れたように顔を暗くした。


「言われなくても守るよ。お前は死ぬんじゃねえぞ!」


「アラン、あなた……」


 ウノは思わず声を漏らした。

 ――本当、どうしたのかしら。こんなアラン、見たことないわ。


「ウノ、こっち来い」


 ウノは旋回する怪鳥に視線を奪われながら、アランの傍に寄った。


「ねえ、あの恐ろしい化け物はなんなの?」


「アリスター・オルコットはほとんど悪魔なんだ。ここにいる化け物どもは、差し詰め、おれを殺すためのしもべさ」


 もっと下がれ! とアイザックの鋭い声が飛ぶ。

 怪鳥を、しかも三羽。

 空中から嗤笑を降らせる美しい鳥たちは、高いところからおちょくるように、アイザックの頭の上を舞う。

 一羽が先陣切って地上へ向かって急降下すると、残りの二羽もそれに続いた。

 剣を構えたアイザックに向かって、攻撃に適した固く鋭い爪は、剣の輝きなど恐れもせずに突っ込んでいった。鋭利な爪は彼の肉を抉り、傷口から熱い血を迸らせた。


「いや! アイザック!」


 ウノの悲痛な叫びが空高く反響する。


「危ない、ウノ! 奴に近付くな」


 アランは身を挺してウノを後ろへ退かせたが、ふと視線を足元の深い闇へ落とす。

 闇の底から、何かが近付いてくる……そう思った刹那。

 ウノが戦慄の悲鳴を上げた。

 闇の沈む奥底から、無数の黒い手が伸びてきたのだ。男の手、女の手、子どもの手、老人の手……そいつらは、三人を底のない暗黒に引きずり込もうとしているのかのように、空をまさぐっている。

 これにはアランも悲鳴を禁じ得ず、咄嗟にウノと抱き合ってしまうほど。

 虚空を掴むようにしてざわめく手は、白光放つ小道を這い回り、三人の足首にちろちろと指を伸ばす。


 アイザックは、頭上で剣を振り回しながら、足元で黒い手を蹴散らすと、


「相手にしていられん。走るぞ、足元に気をつけろ」


 アランとウノは急いでアイザックの傍によると、怪鳥の攻撃を捨て身で避けながら走った。

 時折、黒い手が足首を掴んで転ばそうとしてくるが、力が弱いのですぐに剝がれてしまう。

 しかし、怪鳥はそう簡単にかわせる相手ではなかった。

 このまま出口まで駆け抜けることが出来ればいいが……一抹の不安がアイザックの胸を去来した。


 その時、一羽の怪鳥の爪が、ウノ目がけて煌いた。

 あわや頭部を引きちぎられそうになった刹那、ばしっと激しい衝突音が三人の耳朶を打った。


 音の出所を見上げると、ウノの首に爪を絡ませようとしていた怪鳥が、心臓部に穴を開けた状態で、果てのない闇の底へと墜落してゆくところだった。

 無数の黒手に連れ去られるように姿を消した怪鳥。まるで何が起こったか理解できないまま、ひたすら駆け抜けるアイザックたち。


「何かしら、今の音」


 ウノが背後を振り返りながら言った。


 黒い手はめげずに六本の足にしがみつこうと手を動かし続けているが、どうしたことか、足首に触れようかという瞬間に、見えないバリアにでも阻まれているかのように弾き飛ばされてしまう。


 三人の頭上に双翼を広げる怪鳥も、何故か一向に手を出してこなくなった。

 悔しげにギャアギャアと泣き叫ぶ声だけが耳に突き刺さる。


 ――なんだ? どうして急に大人しくなった……?


 アイザックは剣の切っ先を落とし、ちら、と背後を盗み見た。

 着いてくる二人も不思議に思ったようで、問いたげな視線をアイザックに向けている。

 だが、そんな事はどうでもいい。今のうちに、人間たちの住む安寧の世界へ――すぐそこへ迫った、平和の存在する世界へ――


「きゃあ!」

「うわっ」


 二つの悲鳴と、空を裂くヒュッという音が重なったのはその時である。


「危ない、アイザック!」


 甲高い悲鳴のような声で名前を呼ばれたのと、肩甲骨のすぐ下、左寄りの中央に、感じたことのない違和感が突き刺さったのは同時だった。


 何が起こったのかとか、この違和感の正体はなど考える暇もなく、駆ける足が止まる。


 ――アイザック!

 ――おい、大丈夫か!


 ウノとアランの呼ぶ声がした。

 返事をしようとする意思に反して声が出てこない。代わりに、喉の奥から込み上げてくる熱い塊が口の中から盛大に零れ落ちた。

 白い道に飛び散った鮮やかなまでの赤は、アイザックの脳に多くの疑問符を植えつけた。


 ――なんだ、これ……。まるで血のようじゃないか。おれの口から出てきたのか? どうして……?


 アイザックはふと視線を自分の胸元に落とした。


「あれ……?」


 初めて気がついた。背中から左胸を貫いた細剣の存在に。


「これは……」


 血泡を吐くアイザックの耳に、アリスターの笑声が木霊する。


 ――ハハハハハハハ! 息子よ、お前の命を奪うのは化け物などではない! この私だ!


 地に踏ん張った両足ががくがくと震えた。

 言うことを聞かない身体が、アイザックを焦燥へと追いやる。


 出口を目の前にして、アリスターが自ら下した攻撃は、アイザックたちを絶望させるのに十分であった。


「あンの……野郎……!」


 上体がぐらりと前へ傾いだ。


「いやあ! アイザック!」


 急激に下がる体温と、心臓を中心にして全身に広がる耐え難い苦痛。

 脳裏に去来するのは、冷たい「死」の文字。


 三人の若者たちは、全身から血の気が引いてゆく感覚と共に、敗北を告げる悪魔の声が聞こえたような気がした。


 ……その時、目の前のアイザックの背中が、二重にぶれたように見えたのはウノとアランの錯覚であったか?


「え?」


 と揃って声を上げた二人は、ぱちくりと瞬きを繰り返す。

 再びアイザックの姿がぶれ、今度こそ彼らは確信する。


 錯覚ではない。

 

 そう思った瞬間、ウノは己が目を疑った。

 二重にぶれたアイザックの背中は、まるで脱皮する蛇のようにその身体を脱ぎ捨てたのだ。アイザックは二三歩よろけて立ち止まり、後ろを振り返る。

 

「なに……?」


 ウノとアラン、そして振り返ったアイザックまでもが、そこに生じた現象を理解できなかった。


 アイザックが二人いた。

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