殺意の忖度

 ――

 という耳慣れない言葉が、このごろ炊屋姫尊の近習たちの間で使われている。跏趺かふというのは、右足の甲を左の腿に、左足の甲を右の腿に載せる坐り方で、仏の坐像はこの形に作られる。また、片方だけを跏趺にすることは、半跏はんかという。

天王てんのうは奥の間でしておられます」

 泊瀬部はつせべ王の第五年冬十月十日、馬子うまこ炊屋姫かしきやひめの招きに応じて、豊浦とゆらの宮に参内した。宮人の案内を受けて、奥の間の消息を伺う。

「苦しゅうない、近う」

 炊屋姫は、舅父おじに対する姪という態度をもう取らない。私用で馬子を呼ぶ時でも、先王の后として、王室全体を後見するという立場、いやそれ以上の者として自分を規定している。その尊大さを馬子は黙って受け容れる。

「どうじゃ、これは」

 炊屋姫は、両手に支え持った一つの神像を示した。それは司馬鞍部多須奈しめのくらつくりのたすな止利とりの父子が原型を彫り、出雲の国の鋳物師いもじが銅を流して作ったもので、四本腕に琵琶を弾き、眉目には美貌と知性を湛え、白鳥の背に半跏した、大弁才天女の像である。

 弁才天というのは、天界に在って仏法を守護する神の一つで、弁説や音楽に優れ、大梵天の妃とされる。また一説に、財宝天女との間で、梵天王の寵愛を争ったとも云われる。炊屋姫もかつて、他田おさだ王の正妃だった広姫ひろひめを死にいやって、その座を奪ったことがあった。

くがねせないのがうらみであるな」

 真新しい弁才天像は、今でこそきらきらしているとはいえ、時が経てば緑青が浮いてくる。輝きを失わせないためには、金が要る。それはやまとの国にも、同盟諸国にも産出しない。海外から手に入れなくては無い。それなら高麗こまの国に請うて入り用の分を調えるようにいたしましょう、と馬子は言ったが、炊屋姫は手で或る小さい物の形を示して、

「いや、あれを溶かしてはどうかと思うてな。あのくらい有れば足りようが」

 とやや冗談めかした言い方をして、あははと笑った。それは、泊瀬部王の懐に存る物を指しているらしい。この冬の、緑を枯らす粛殺しゅくさつの気が、冷たく胸に刺しこむのを、馬子は感じた気がしたが、重ねて金の調達を約束して、この場は引き取った。入れ替わりに、誰か来客があるようだった。

 馬子の家は、豊浦の宮から南へ行った、なだらかな丘のふもとに在る。この屋敷は、このごろ新たに普請したもので、庭を広く取って池を掘り、川の水を引いたその中には、松の木を植えたのどかな嶋が、わずかに寄せる波を受けている。その様子が珍しいので、

「嶋」

 というのが馬子のあだ名になった。

 さて馬子がこの嶋を眺める座敷に、ゆるりとした午後を過ごしていると、日もいくらか傾く頃合いに、ゆくりなく貴賓の訪れがあった。客は、大伴嬪おおとものみめこと、泊瀬部王の小手子こてこ妃だった。馬子は王妃を上座に請じ入れて、くれの国の書物によって作らせた、この国の人がまだ見慣れぬ、きつね色をした平円形の焼き菓子を進める。小手子は、しばし庭を眺めて、嶋を浮かべた池の美観を褒め、馬子も、今度はあの嶋へ呉橋これはしというものを架けるつもりで、その形はこうであると応じる。そうした他愛の無い話が尽きかけたころ、小手子は本題を切り出した。

「ところで、末のお嬢様はつつがなくおすごしでしょうか」

 馬子の末のむすめというのは、数年来泊瀬部王より輿入れを所望されている、河上娘かわかみのいらつめのことである。はあ、やはりか、と馬子は思ったが、今日に限ってはだけではないのかもしれないと考え直して、はらうちをきゅっと引き締める。

「わが君はそのことで気が伏せておいでになるのです。このところは夜もずっと離れにおられて、ねやにもお入りになりません。わたくしなどはまだ良いけれど、布都ふつは気の毒なのよ。名ばかりは妃と呼ばれながら、王はまだ一度も共寝ともいなさらないのでしょう」

 これでは妃として顔が立たぬ、大臣おおおみはなぜ河上娘を側室に納れぬのかと、馬子に問うた。馬子は、慎重に小手子の顔色を窺いながら、ゆっくり口を開く。

「あの子は、かさの病をして、顔に痘痕あばたが残っておりますから、大王もお気に召しますまい。わたくしも人の親として、恥をかかせるのは忍ばれぬところです」

 あら、と小手子は馬子の目を見返す。

「打ち明けて申しますけど、わが君は顔などご覧になりませんよ。ただ大臣との仲を気にしているだけでございますもの。とにかくあの子を納れてくだされば、ご安心なさってまたわたくしどもの閨に通って下さるでしょう。いつまでも」

 と王妃はそこで声の調子を低くする。

「焦らされましては、お優しい王もお怒りになられますよ。この間のことですけれど」

 こんなことがあったという。

 五日ほど前に、王宮付きの狩人が、王に猪を献上した。森で猪をしとめると、その首は山の神に祭るから、里に下ろされた時には頭が無い。手慣れた狩人の仕事だけに、切り口は鮮やかだった。

 泊瀬部王は、しばし胴とあしだけになった猪をしげしげと見つめていたが、にわかに気色ばんで刀を抜き、

「いつかこの猪の頸を斬るが如くに、わがねたしとするところの人を斬らん!」

 と叫んだという。

 小手子は、この容子を実際に見てはいないが、宮人の間から伝わって、炊屋姫の耳に入ったようだ、と言った。馬子も倉梯の宮には間者を潜ませているが、この話しは初耳だった。

「実はそのことで、さきほど豊浦の宮にも伺ったのです。太后おおきさきさまから大臣への言づても預かっておりますよ。これ」

 と小手子は、次の間に控えさせていた供の者を呼ぶ。馬子は、小さい文箱を受け取った。蓋には紐を固く結んだ上に、墨で〆を引いてある。結び目を解いて中を開けると、便箋がただ一枚、

一切顛倒夢想いっさいてんとうむそう究竟涅槃くぎょうねはん

 とだけ記されていたが、その紙をどけた底に、浅く溝が切ってあり、その切れ間には、鈍く光る鋼の五寸の針が沈められていた。

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