海からの迎え

 人魚に関わった全ての兵士が、長い葬列を組んで彼女を乗せた荷車を牽き、赤ん坊を抱いた瑠海とランドーは、遺骸の傍らに付き添った。王子であるシャルルを共に葬る事は出来なかったが、せめて二人の魂は一つにと祈る瑠海だった。



 入り江の洞門を、ドルーチェの遺骸を引いた小船がゆっくりと出て行く。


 月は高く昇り、静かに凪いだ海は優しく彼等の小船を受入れてくれた。


「さようなら、ドルーチェ。」


「さらば人魚よ、安らかに眠れ。」


 ドルーチェを曳航していた艫綱を解き、二人は最後の別れを惜しんだ。


 何処からか無数の海の生き物達が現れ、動かないドルーチェを自分達の世界に誘う様に取り囲んだ。


 深い海に彼等の姿が見えなくなろうとした時、不意に辺りに霧が立ち込め、何かが海の底から静かに上がって来る気配に身構えた二人の目の前に白い影が姿を表した。


 剣の柄に手を掛けたランドーを、瑠海が止めた。影からは王の時に感じた邪悪さなど微塵も伝わって来ないどころか、逆にどこか神神しささえ感じるのだ。


 影は、海に沈み行くドルーチェを悲しげに見送り二人に目線を寄越した。その目は紛れも無く齢を重ねた人魚の瞳だった。彼女はこの世の者とは思えない美しい微笑みを浮かべて言った。


「あの子を返してくれた事を感謝する。人との間に子まで設けたと聞いたが。」


 瑠海はまっすぐに人魚を見た。


「ここにいます。どうかドルーチェを許して、この子を海の仲間にしてやって下さい。」


 赤ん坊は、丸くなって瑠海の膝の上で眠っている。


「正しく、その子は我が血を受けた子。」


「お前の血を受けた? どう言う意味だ。」


 人魚はランドーの問いには答えず、瑠海をじっと見ていた。彼女は問われた訳でもないのに、どこか呆然とした口調で人魚に確かめる様に言った。


「王様はあなたと人との間に出来た子ですよね。だから、あの人の声の響きに、心に隠す悪が滲んで……沁み出している様に聞こえたのはそのせいなの?  だから殿下も人魚の毒に対する耐性が有って……死に至らなかった……そうですね?」


 彼女は操られるように赤ん坊を抱いたまま小船の上で立ち上がった。


 彼女の異変に、ランドーが慌てて叫んだ。


「瑠海、何をしている、転覆するぞ!」


 しかし、彼女は彼の声が聞こえていないのか振り返りもしなかった。


「フィリップ、この娘はここからはかけ離れた異世界から来た者だよ。三度目の月まで。今日が期限なのさ。この娘と交わした約束ではないがね、この娘に帰ってもらわねば、命の絶対数が狂うのだよ。」


 ランドーは剣の柄に手を掛け、構えたがその言葉に腕を下へ下ろした。


「異世界?」


「承知していたのだろう?」


「何者だ、貴様。なぜ私の名も知っている。」


「魔女、と言えば分かってもらえるか?」


 その瞬間、水面に霧が立ち込め、周りを聞いた事の無い騒音が取り巻いたかと思うと、暗い水平の彼方の夜空が俄かに明るくなった。


 瑠海は眼を覚ました赤ん坊を人魚に渡すと、何かに憑かれた様に空を見上げ呟いた。


「街の明かりだわ。やっぱりオーロラじゃなかった。」


 彼女は辺りに漂い始めた懐かしい臭いに手を広げた。


 絶え間無い騒音と人々の靴音や音楽。


 静けさの片時も無いその場所にいた時は、出来れば嗅いでいたくもなかった排気ガスの臭いだ。


 彼女は足を一つ踏み出した。


 この霧を抜ければ元の世界に戻れると言う漠然とした確信が有った。


「瑠海……」


 ランドーは、纏いつく様な臭いと、他には何も聞こえなくなりそうな音の集合体に戸惑いながら、その中で平然としている瑠海に咄嗟に手を伸ばす事が出来なかった。


 まだそこにいて、そこに立っているだけの彼女の腕を掴めるのに。


 瑠海が引き寄せられる様に音のする霧の中へと歩み始め、彼女の姿が完全に霧に包まれようとした時、ようやく彼は叫んだ。


「行くな! 行くな、瑠海!」


 その声に彼女がそっと振り返った。


 あまりに静かな彼女の眼差しに押された訳でもないのにランドーは言葉を無くし、同時に船から海に落ちた。


 重い甲冑を着けたランドーの体は、海の中へどんどん沈んで行った。小船の上の松明の明かりが小さくなって行くが、彼は浮かび上がれなかった。あの凪いだ海の様な彼女の眼差しが、何時か見た誰かと重なったのだ。


 海の中から無数の影が彼に近付いて来た。物珍しそうに周りを泳ぎながら様子を見ているのは人魚だ。彼女達はランドーが何も仕掛けて来ないのを見ると口々に何か囁き、息も続かない彼に纏い付いた。甲胄を脱がせ、衣服を剥ぎ取り、体に触れて来る彼女達の眼差しには、赤裸々な欲情が見て取れた。


 半ば放心し、されるがままになっていた彼の心の中にも鼓動だけが小さく響いていた。


 ……どうしようも無く不安になったら、信じている、と自分に何度も呪文を掛ける……


 二人で色々な事を一つずつ乗り越えてきたのではないのか。それなのに、なぜ殊更にまだ信じていると言い続けなければならない。


〈他へお行き。月の夜はまだまだ長いよ。〉


 優しい波の様な魔女の声が響いた途端、人魚達はランドーに絡むのを止め、仕方無さそうに何処へともなく消えて行った。


 ようやく水面に顔を出した時、彼の体は人魚達の鰭で擦り傷だらけになっていた。


「何故、あの娘を引き止めなかったのだ?」


 その言葉にランドーはじっと目を閉じた。


 騒音のする方向を見る彼女の後姿に、幼い頃見た窓辺に佇む母の姿を思い出したのかもしれない。何かを想う母の美しくも悲し気な彼女の瞳には、目の前の現実の中に存在している自分など映っていない気がして、彼女が本当に存在すべき世界はここではないのではないだろうか、そんな事を子供ながらに思わせる情景だったのだから。


「彼女が少しでも元の居場所に戻りたいならと、思ったからだ。」


「本当にそれでよかったのか? お前の心はまるで後悔にうねる海の様ではないか。」


「愛しているから……悔いの無い生き方をして欲しい。そう思ってはいけないのか?」


「愛しているか。複雑だね。別れたくないのならそのまま素直にそう言えばいいものを。あの子のお前への思いはどうなるんだい。」


 魔女は、俯いたランドーを呆れたように見ていた。


「お前はあの王子と似ている。私が愛するあの人を失った時側にいて、私のあの子を愛しんで育てると誓ってくれた。あの人の義兄弟と名乗った王子だ。」


 彼女は、懐かしむように溜息を漏らした。


「あの子も、あの王子の寛大な優しさを素直にそのまま受け入れられれば、己を追い詰めずに済んだものを。少しは幸せになれたのに。」


 何の脈絡も無いように思える魔女の言葉に、ランドーは訝しげに彼女を見た。彼女は何かを手に乗せて差し出して来た。


「お前に返すよ。元はあの王子の持ち物だ。」


 ランドーは受け取った物を見て驚いた。それはドルーチェに託したあの赤い宝石のペンダントだった。


「シャルルは残念だったね。だからそれは返すよ。お前は勘違いをしている。それはお前の母が、父から始めて贈られた想い出の品だ。宝剣の柄には元々二つの宝石が嵌められていた。その一つをお前の父はお前の母に贈った。決して母が他の誰かから何かの見返りで得た物ではない。そんな風にしか思われていないとすれば、お前の父母も、あの時の王子つまりはお前の祖父も浮かばれない。石は時を越えて存在し、色んな思いを宿して行く物だ。」


「父から贈られた物? 一対の宝石……」


 そう呟いた彼の脳裏に不意に懐かしい声が響いた。

 記憶の奥に封印されていた母の声だ。


 ―それはお父さまからの贈り物だったのよ。だから大事にして、フィリップ。そうすればきっとあなたを守ってくれるわ―


 彼の様子を見て魔女は微笑んだ。


「確かに返したぞ、母の記憶を。」


 赤ん坊を大事そうに抱いたまま海に帰って行きそうになる彼女に、


「待って下さい。その子に名前を……」


「名前?」


「せめて、シャルルと。その子の父の名を受け継がせてやって下さい。」


「シャルルか。よかろう。確かに承った。」



 月は、山から昇る朝陽を待たず海へ沈み、朝靄が水面を薫らせ立ち昇っていた。


 遠い渚で、部下達と鍋や鍬など有り合わせの武器を持って城に駆け付けた町の人々の、自分を呼ぶ声が微かに聞こえた。男達だけでなく女達の声も有った。


 遠い波打ち際で砕ける静かな波の音に、どこが帰るべき岸なのか分かっていても、彼は声が出なかった。そのまま静かに心を鎮める様に、上を向き暗い海へと沈んで行く。暫くそうでもしていないと、本当の意味で浮き上がる事など出来ないと思ったのだ。


 出会いも別れも、ほんの一瞬の出来事だ。瑠海に伝えたい事がまだたくさん有ったのに、もうそれは叶わない。後悔すると分かっていたら、もっと傍にいて……


 ジャッ、ボン!


 突然、孤独な静寂の中に大きな水音が響いた。呆然と見上げた彼は、朝陽に明るくなって行く空を背に落ちて来た人影を見た。


 瑠海……


 彼に気付いた彼女は、白い気泡を有りったけ巡らせたまま、彼の目の前まで潜って来た。何をしているのか、と言いたげな彼女に構う事無く、彼は思いの全てを込めて彼女を抱き絞めた。


 輝き始めた水面を共に目指して泳ぎながらも、繋いだ手を二人は放さなかった。


「体中傷だらけよ。おまけに全裸なんて。」


「美女人魚軍団と格闘したんだ。」


「本当? 傷、しみるでしょ? 痛そう。」


「こんなもの、大した事はない。」


 瑠海は、彼の様子を見て苦笑いした。


「私が帰っちゃったって、思ったの?」


「なぜ行かなかったんだ?」


「そんな事、言わなきゃ分かんない?」


 頬を無意識に伝い落ちた涙に、彼女自身が一番戸惑っていた。それは人が海から生まれた生き物であると言う証拠だ。


「瑠海……もう離れない。」


「私も。」


 口付けを交わした二人は、抱き合ったまま朝陽が目映く刺し込む海へ再び沈んで行った。


 息が続かなくなって思わず笑いながら水面へ上りながら周りを囲む海の中の景色の何と美しい事かと見惚れている彼女に、地上に戻ろうとランドーは手で合図し促した。こは人魚達の世界。人の留まる所ではない。


 朝陽に輝く小さな泡が二人を誘いながら昇って行った。



                    


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