月明りの入り江


 瑠海は、明かりも持たずにふらりと部屋を出た。


 昼間とは違う月光に照らされた夜の庭をただ歩き、いつの間にか、またあの砂浜に来ていた。静かな夜の浜辺。瑠海は正直な所、波の音が嫌いだった。聞いているとどうしようも無く不安になるのだ。なのに何かを求めて来てしまった。


 砂に足を取られながら波打ち際へ歩み寄り、洞門から見えている月明りに照らされた鏡の様に穏やかな水面に目を走らせた。


「ドルーチェ……いるわけないよね。」


 あれ以来、何度来ても人魚は姿を現さなくなった。会いたいのに会えない事がこんなに辛いなんて思わなかった。


(帰りたい。でも二度と……帰れない。)


 瑠海は暫く砂の上に座って月を見上げていたが、ゆっくり立ち上がった。


 その時……


〈ねぇ、帰りたいって何処へ? 瑠海の家はここではないの?〉


 不意に海から人魚の声がして、瑠海は言葉に詰まった。波から顔を出した影も溢れた涙でにじんでいた。


〈どうしたの? 瑠海から海の匂いがしてるけど。とても悲しい海の匂いだわ。〉


 ドルーチェは両手で波打ち際へ這い上がると、渚に座り込む瑠海の顔を覗き込んで来た。


〈大丈夫? ねえ、お腹でも痛い? 誰かに意地悪された?〉


 何を言っても、うなずく事しかしない彼女にドルーチェはやや困り顔で、


〈そんなに私に会いたかったの? 仕方ないな。今度から会いたい時はいつでも呼んでよ。すぐに来てあげるから。〉


〈ドルーチェ。〉


 人魚の瞳は心も映すらしい。


〈あの人と、喧嘩したのね。〉


 彼女の前では何も隠す必要が無いようだ。


〈この間ね、寝坊しちゃって失敗したの。あなたと夜通し話してた事も信じて貰えなくて。それからめっきり人間不信よ。〉


〈喧嘩の原因は、彼の方が瑠海を意識し過ぎてる事みたいね。いいなぁ。〉


 瑠海は首を思い切り振った。


〈それこそ違うと思う。私はただの召使いなのよ。彼とは身分が違うの。〉


〈身分なんて最初から理解してないくせに。〉


 その通りだと瑠海は砂に視線を落とした。自分が馴染めないのは正にそれなのだ。


 寄せては返す温かな波が足に触れている。


〈なんでみんな同じ って言う生き物なのに、身分とか立場で無理に分け隔てしなきゃならないんだろう。そうしないと秩序が保てないからなのかもしれないけど……私のいた国にはもうそんな壁みたいなモノが無いのよ。〉


〈人って本当、分らない生き物よね。〉


〈帰りたい。そんな壁が無いあの場所に。〉


 ドルーチェは、瑠海の頬を伝った涙を水から身を乗り出してそっと舐め取った。

 瑠海は一瞬驚いて身を固くしたが、それが人魚の示す精一杯の親愛の情なのだと彼女の目を見て悟った途端、抑えていた感情が一気に堰を切った様に溢れ出した。


 それを見たドルーチェは、大変とばかり彼女の涙を止めようと必死になった。


〈もぉもぉ、どうしちゃったの、瑠海。ほらほら、私、宙返りしちゃうからね。見ててよ。瞬きとかすると見逃すからね。〉


 もしかしたらソレは、人魚が子供をあやす時の常套手段なのかもしれないが、 と聞いて、素早く泳ぎ出た人魚をびっくりして瑠海は見た。しかし……


 思い切り跳び上がったつもりの魚体は、人で言う所の水面に立った状態になり、回転もせずそのままの勢いで背中から着水したのだ。


 大きな水しぶきが上がり、肩で息をしてドルーチェが水面へ上がって来た。疲弊した様子で、半ば呆然としている瑠海を見る人魚。


いたた……〉


 それでも彼女が泣いていない事に、自分の努力は報われたと確信するドルーチェ。

 しかし……


〈今の、宙返りじゃないと思う。〉


 瑠海が瞬時に想像したのは、シンクロの選手かイルカがやってくれる鮮やかな技である。


〈今のは失敗しただけだもん。出来るもん。〉


 今度は、ドルーチェが決壊寸前の赤く充血させた目になった。


 瑠璃は彼女の真剣な顔を見て、堪らなくなってクスクス笑い出した。


〈だって、バシャン! って横倒しでしょ。〉


〈もぉ、ひどいぃ。〉


 物凄い勢いで人魚は尾鰭で瑠海に水を掛けた。彼女は濡れまいと波打ち際を笑いながら逃げ出した。


〈ごめん、ごめん。ごめんってばぁ。〉


 手の届かない陸地に逃げた瑠海に、ドルーチェは水面を尾鰭で叩いて抗議した。


〈戻って来~い、卑怯もの~ぉ。〉


〈なんだとぉ、このこの!〉


 バシャバシャと波打ち際に入り、手で人魚に水を掛けまくる瑠海。


〈水なら負けないわよぉ。〉


 衣服が濡れたら後が大変、なんて考えは瑠海にはもう無くなっていた。


 散々水を掛け合って一息吐き、二人は並んで波打ち際に寝そべった。


〈ねぇ瑠海。コレ、あげる。〉


 ドルーチェが唐突に差し出したのは腕輪だった。驚いている瑠海の手に、彼女はそれを握らせて子供の様に笑った。


〈たくさん有るから遠慮しないで。〉


 確かに、彼女の腕には後二本も嵌っている。


〈でも。大切な物じゃないの?〉


〈まあそうだけど、岩の間から平たいサンゴみたいに顔を出している所が有るの。それ随分前に作った物だけど、貰って。〉


 以前、瑠海が興味深そうに観察していたのをドルーチェも覚えていたのだ。


〈……ありがとう。〉


〈友達の印よ。同じのを作って何時か誰かにあげようと思って持ってたの。〉


 彼女は本当に海に暮らす人魚なのだろうかと瑠海はドルーチェを見た。まるっきり自分達と同じ精神構造をしてるではないか。


 瑠海は腕輪を嵌めてみた。半透明な材質のそれは一見飴細工の様で、熱を掛けて捩じり交じった金や黒の部分が見事な造形を見せていた。肌に当たる部分は滑らかに磨かれ、しっくりと肌に馴染んだ。あつらえた様な中々の納まり具合に、二人はお揃いの腕輪を並べ、顔を見合せて笑った。


 その時、ギーッ、ガッシャーン!


 耳ざわりな金属音と大きな水しぶきを立てて、海との境目である洞穴に鉄格子が下りた。


 ドルーチェは咄嗟に格子に泳ぎ寄るが、出られなくなったと知りパニック状態に陥った。


 何が起こったのか分からずに、呆然とする瑠海の耳に王子の高笑いが飛び込んで来た。


「でかした! 人魚を生け捕った!」


 何人かの甲冑姿の兵士が松明を掲げて波打ち際へ走り寄って来た。王子はその後を悠然と歩き、その他の兵士達は泳ぎ回るドルーチェの姿を見るとどよめいた。


 擦れ違いざま、シャルルは満足そうに彼女の横で立ち止まり声を掛けた。


「よくやってくれた、瑠海。」


 それを見たドルーチェが叫んだ。


〈どう言う事なの! 瑠海!〉


〈違うの、違う!〉


〈私を罠にかけたのね。信じられない!〉


〈本当に、何も知らないわ。信じて!〉


 瑠海は振り返ると、王子の前へ走り出た。


「お願いです。捕らえるなんて止めて下さい。あの格子を上げて下さい。」


「人魚と話が出来るのは、本当なのだな。」


 王子は、何か人ではない不気味な生き物を見る様な目でしみじみ瑠海を見ると、


「お前は今日からこの人魚の世話をするのだ。決して死なせてはならぬぞ。フィリップも座興が過ぎる。あの者にどんなに想いを寄せようと所詮叶わぬのだ、哀れな姫よ。」


「ランドーが、殿下に話したんですか?」


 瑠海には答えず、王子は笑いながら水辺へ歩いて行った。


 ドルーチェが入り江にいた事を、自分は彼以外には打ち明けていない。


 裏切られたのか。


 そう思った瞬間、心臓が止まりそうになった。人魚の件に関してランドーだけは味方だと思っていたのに、何て事をしてしまったのか。彼もやはり身分制度に縛られた王子の下僕だと言うのに。


 暗闇でも決して消えない灯りさえ有れば、何も恐れず渡って行ける。それが不意に目の前で消されてしまった様に感じた


(誰も助けてくれる訳無い。私がやらなきゃ、ドルーチェは、私が助けなきゃダメなんだ。)


 この場に、権力者の王子に逆らってまで人魚を助けようとする者などいはしない。


「お願いです、殿下。どうか人魚を放してやって下さい。」


 瑠海は他にどうする事も思い付かず、シャルルの足元に跪いた。彼女の髪の先がほんの少し彼の爪先に触れていた。途端に彼は顔色を変えた。


「無礼者!」


 地面に伏した体勢の彼女は、もんどり打って倒れるくらいに蹴り倒された。倒れながらそれでも瑠海はシャルルを見た。雑多の不満も交じってか、彼女の我慢ももう限界だった。


「いい加減にしなさいよ!」


 兄弟に対しても面と向かって啖呵を切った事など無い。その後で関係の修復が出来るとは到底思えなかったからだ。しかし、


「なっ、なんだと。」


 正攻法で責めても通じる相手ではない。


「あんたの我が儘のせいで何か起こったりしたら、とか考えないの? それでも一国を背負って立つ人になるつもりなの?」


 瑠海は王子を睨みながら詰め寄った。


「この私に意見しようと言うのか、たかが卑しい侍女の分際で。」


「私は自由と平等の世界から来た人間よ。身分なんてこの国の勝手でしょ。だから代わって言ってあげんのよ。ここにいる大人達は、皆いけない事だと分っていても王子であるあなたに言えないだけ。そんな事も分かんないで人を権力で抑え付けて偉い人ぶるのは止めなさい。もしもそんな人が王様になったら、たちまち国家転覆よ。」


「私を侮辱する気か。」


「そんな風に聞こえたなら謝るわよ。でもね、人魚を捕まえたりして、祟られるのはあなた一人じゃないのよ。最悪あなたのご両親だって被害に遭うかもしれない。国のトップとして危機回避能力が低く過ぎるわ。分かったら、さっさと人魚を海に返しなさい!」


「この女を牢にぶち込め!」


 命令された兵士達も瑠海の意見が最もだと思いながらも、彼女を取り囲んだ。


「何する気? あなた達も従うのは嫌な筈よ。家族も巻き込まれるのよ。それに私がいなくなったら、人魚の言葉が話せる人、いないんじゃないの? そもそもあの子を囲っておくなんて無理なのよ!」


 兵士の一人が矛先を下ろすと、彼等は次々とそれに習った。それを見た王子はいきり立った。


「くぅっ、お前達、忠誠を誓った私に逆らうつもりか。国家に対する大罪ぞ。」


 それを聞き、渋々切っ先を上げた兵士達に瑠海はもう一度訴える様に言った。


「格子を上げて人魚を出してやって。」


「申し訳有りません、瑠海様。」


 王子は入り口にいる兵士に向かって言った。


「鍵を掛けろ。こ奴等をここから出してはならぬ。従えぬのなら、人魚と共に朽ちろ!」


 しまったと思っても遅かった。これでは元も子もない。


「ちょっと待って。」


「興が冷めた、帰る。」


 引き上げようとする王子に、瑠海は焦って走り寄った。


「取引よ。今すぐがダメなら、祝宴までなら面倒を見るわ。それが終わったら必ず返してやって。お願い!」


 王子は答えず、槍を構えた兵士を格子を操作する装置の傍と戸口二名づつ残し、入り江を出て行ってしまった。


 静けさが戻ると、ドルーチェがそっと水面から顔を出した。


〈瑠海……大丈夫? さっきは、ひどい事言って、ごめんなさい。〉


〈いいのよ。気にしていないから。きっと私がここから出して上げるから。勝負はまだ終わってないわ。〉


 急に肩が痛み出し、瑠海は膝をついた。


 交渉はほぼ決裂だったが、王子はここに人魚ドルーチェがいる限り諦めはしないだろう。皮肉な事にそれだけが頼みだった。





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