第四楽章

 『1日休めば、3日分だけ腕が鈍ってしまう』――中学生の頃から吹奏楽でよく聞くこの言葉を、俺はずっと信じ続けていた。折角覚えた譜面のあれこれや、先生や先輩のおかげで確認できた口の動かし方などがたった1日で消え去ってしまったらどうしよう、と言う不安も、俺の心の奥底にあったかもしれない。だけど、何度も何度も個人練習や分奏、合奏を行い、体にたっぷりと染み込ませてしまえば、1日思いっきり休んだぐらいで腕が鈍ることなんて無いと言う事を、俺は翌日の練習で知る事となった。


「ったく、そんなにはしゃいで、無理すんなよ?」

「大丈夫ですよ先輩!俺もうすっかり元気になりましたし……ってわわ……」

「ほらほら、調子に乗らない」


 少し舞い上がっちゃったけど、明らかに俺が鳴らしたトランペットの音色は一昨日のもの――今にも倒れそうな中で必死に演奏していたものよりも明らかに澄み切り、はっきりと遠くまで飛ぶ音になっていた。勿論今までの練習の成果が思いっきり表れていたからと言うのもあるけれど、心の中に今までずっと溜まっていた焦りや不安が無くなっていたのも大きかった。トランペットを吹くって、こんなに楽しいものだったのか――俺は改めて実感する事ができた。


 そして、同時に心の中に余裕が生まれた俺は、彼女ともしっかり向き合えるようになっていた。


「もう少しだね、吹奏楽コンクールの本番……」

「そうだな……なんだか記者きしゃ震いがするぜ……」

「ふふ、頑張ってね。あと武者むしゃ震いだよ?」

「ああ、それそれ」


 俺の演奏をたっぷり会場に響かせてやる、と言う俺に、彼女はこう尋ねてきた。重要な部分の演奏を任されたり、先生から厳しい指導を受けていたりしているはずなのに、会う度どんどん元気で楽しそうになっているのはどうしてなのか、と。勿論その理由はたった1つ、どんなに大変でもやっぱり俺は音楽が、そして彼女が、何よりも心の支えになっていたからだ。でも、その正直な思いを伝えるのはお預けにした。あの時交わした約束――コンクールで金賞を取り、念願の地方大会に進むという有言を実行に移す、それが彼女への俺の『想い』となる――。


「……ん、どうしたの?」

「あ、いやいや……あはは……」


 ――つい頭の中に浮かんでしまった俺のキザったらしい考えの方は、どうやらまたも顔に出てしまったようだ。

 


 それからまた、俺は吹奏楽の仲間や先生たちと一緒に練習をこなし続けた。本番を間近に控えた合奏の内容は、それまで学んだ様々な演奏法や音色、そしてリズムの確認へと変わっていった。これ以上新しいものを入れても仕方がない、今まで培ってきた実力をどう活かすか、それが本番の舞台でとても重要なことだ――俺たち部員の顔を見つめ、丁寧かつ真剣に語る先生の顔は、コンクールの練習が始まった頃と比べどこか優しくなっているような気がした。


 そして、ついにその日が訪れた。


「おはよーございます!!」


「よう、元気いいなお前……」

「これなら失敗することは無さそうだねー」


 思いっきり音楽室に飛び込んできた俺の体には、絶対の自信と希望に満ち溢れていた。母ちゃんが作ってくれた美味しい朝飯に父ちゃんからの激励の言葉、そして会場の席で応援していると言う彼女からのメッセージを、朝一番に思いっきり貰った事が、俺の元気の素になったのだ。これなら絶対、本番の会場でも最高の演奏ができる――そう確信しつつ、直後に待っていたパーカッションパートの楽器運搬の手伝いやホールへ向かった後の待ち時間などで若干疲れや不安を感じながらも、俺はコンクールの舞台を『楽しみ』に待ち続けていた。こんな感情、吹奏楽人生の中で初めてだった。


 少し暗い通路を歩かされては各地の部屋で他の面々とチューニングを行うという短いようで長い道のりを経た後、俺たちはホールの舞台袖――他の学校の演奏が一番間近で聞ける場所へと辿り着いた。耳に入るのは、他所の面々が奏でる、綺麗で軽やか、そして美しい音色の数々だった。他の学校の中にはその音を聞かないように耳を塞いでいる所もあったけれど、俺たちの学校、特にトランペットパートの面々はそこまで必死には動かなかった。ここまで皆で創り上げてきた音楽が、他所からの横槍で簡単に崩れるわけがないだろう、と小声で告げた先輩たちの言葉に、俺は大きく同意していた。

 やがてライトが暗くなり、周りの壁が持ち上がったのを見計らって、俺たち吹奏楽部は堂々と、だけど素早く所定の場所へ向かった。譜面台の上にお揃いの譜面隠しを乗せ、その上に今回使用する楽譜をセットすれば、吹奏楽コンクールの舞台で演奏するトランペット奏者の完成だ。


 再び眩い光が舞台を包み、トランペットがそれを反射してきらりと光り輝いた時、俺は一瞬だけ広い会場の片隅に、何度も何度もこの目に焼き付けた、誰よりも笑顔が似合う幼馴染の姿を見た気がした。もしかしたら、髪型が似ている誰かと見間違えてしまったのかもしれない。だけど俺は信じていた。間違いなくあの場所――高らかに鳴り響くトランペットの音色が辿り着くのにふさわしい場所に、彼女が佇んでいるはずだ、と。



 そして、先生の指揮棒がさっと動いた時、俺たちは1つになった。


~~~~~~~~~~


 何ヶ月もかけて練習に練習、合奏に合奏を重ね続けた演奏は、たった十数分で終わってしまう。当たり前かもしれないけれど、このコンクールほどその短さを実感した時はなかった。しかもそこに幾つもの思いを重ね、皆と一緒に鳴らす楽しさを乗せれば、さらにあっという間の時間に感じてしまう。だけど、俺はその僅かな時間の中に絶対の自信を持ち続けていた。あれだけ会場から拍手喝采を浴び、失敗という失敗も何一つなく終えることが出来たのならば、間違いなく地方大会へ向かうことが出来る、と。だけど、もし地方大会へ向かうとなれば更に練習時間が必要になる。つまりその分夏休みが潰されてしまう事になる。いや、トランペットをたっぷり吹けるのはとても嬉しいけれど、彼女と会う時間が減ってしまうし、それに夏休みの宿題をいつこなせば良いのか――。


「……先輩どうしましょう!地方大会へ行ったら……!!」

「落ち着けって。まずは結果発表を待とうぜ、な」

「そうっすね……『とらたぬきかわダンス』なんて言いますし……」


 ――これは現代文の先生に頼んで宿題を増やしてもらうしかないな、と先輩から少しきつい冗談を頂いてしまった俺だけど、すぐに気分を切り替えて所定の席へと向かった。前は舞台の上の椅子に座っていたけれどこの日は逆。1人の客、そして結果発表を緊張しながら待つ吹奏楽部員として、コンクールの会場を訪れたのだ。きっと良い結果が聞けるはず、だから俺からの報告を楽しみにして欲しい、と事前に彼女にも連絡はしておいたので、後はあの演奏がどう評価されたのか待つのみだった。

 そして、少し長い休憩時間が終わり、全ての楽器が捌けた舞台の上に、眼鏡のおっさん――この区域の吹奏楽関連の団体を仕切っているらしい偉い人がやって来た。真面目だけど退屈な話が終わった後、いよいよこの会場にいる誰もが待っていたであろう、コンクールの結果発表の時間が訪れた。


 銅賞、銀賞、『ゴールド・金賞』――吹奏楽コンクールでは、発音が紛らわしいぎん賞ときん賞を区別するため、金賞の最初に英語の『ゴールド』を付けるのが習慣になっていた。その『ゴ』の字を聞いただけで、名前を呼ばれた学校は歓声を上げて喜びを爆発させていた。その声を何度も何度も聞いているうち、いよいよ俺たちの学校の順番が近づいてきた。流石にこの時ばかりは、俺もすっかり緊張に包まれてしまっていた。もし『ん』と発音されてしまったら、『ん』賞の間違いではなく、はっきりと濁音がつく言葉で呼ばれてしまったら、そこで夢は潰えてしまう――頭の中に湧き上がる嫌な予感を耐えようとしていた時、その結果はあっさりと呼ばれた。


 ゴールド・金賞。


 絶対に聞き間違いではない、本当に本当の『ゴールド・金賞』だ!



「よっしゃああああああ!!」

「やったあああああ!!」

「良かったなお前らー!!」



 俺は勿論、同級生や先輩もその結果を聞いた途端心の中にある喜びを思いっきり爆発させた。もっともっとこの嬉しさを形にしたいと思っていたけれど、生憎そうはいかなかった。まだ結果が明らかになっていない他の学校の邪魔になっちゃ良くないし、何よりもう1つ、金賞を獲得した学校には緊張する時間が待っていたからだ。そう、県大会よりも上のランクである『地方大会』――各地の県や地域の精鋭が集まる舞台への切符を手にすることが出来たかどうかの発表が最後に行われるのである。でも、その時の俺はまだ心の中に自信がたっぷり溢れていた。こんなに皆が嬉しがっているのだから、きっと地方大会に行けるのは間違いなしだ、と。それに、彼女との約束――金賞を取って地方大会へ向かうという言葉も、現実にすることが出来る。これで、幼馴染にずっと抱いていた思いを正直に打ち明けることが出来るはずだ――そう確信し続けていた思いは――。




「……」



 ――十数分後、打ち砕かれた。


 地方大会へ向かう事が出来る団体の中に、俺たちの通う学校の名前は含まれていなかった。

 俺たちが手に入れた金賞は、ただ光輝くだけの金メッキのような賞――『』だったのだ……。

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