第二楽章

「失礼しまーす!」


 幼馴染と大事な約束を交わした次の日から、俺の吹奏楽人生は大きく変わった。


「お、よう!」

「珍しいねー、3日連続で遅刻しなかったんて」

「当然ですよ、俺は立派な吹奏楽部員ですから!」

「ま、あまり力まず頑張ってくれよ、な」


 先輩が少し驚いてしまうのも無理はない。今までの俺はいつも朝練に寝坊するか、間に合ってもぎりぎりで息を落ち着かせなければトランペットも吹けないような、ぐうたら一直線な状態だったからだ。だけど、幼馴染と交わした途轍もなく大きな目標ができてからというもの、俺は練習開始よりも早い時間に学校に到着しては、高らかに楽器の音色を響かせる事が出来るようになっていた。早めに部室にやって来ればより多くの練習時間を確保し、たっぷりトランペットを演奏出来ると言う、当たり前の事に対する嬉しさも今更ながらようやく実感できた。


(よし、放課後の部活も頑張るぞ!!俺は約束を守る男だからな!!)

「あれ、これから数学の授業だけど教科書は?」

「げっ……悪い、見せてくれ!!」



 ――まあ授業中は色々とドジな所もあったけれど、掃除が終わった後の部活では心機一転、俺はたっぷりそのやる気を溢れさせた。つい疎かにしてしまいがちだった基礎練習もしっかりこなし、チューニングも慎重に行うようになったのだ。そのお陰で、曲を演奏するときも今までよりどこか指も口も思い通りに動かせるようになった気がしてきた。トランペットを吹くために欠かせない口や指の動きを、丁寧に把握出来るようになってきたのだ。やっぱり基礎や練習量って大事なんだな、と改めて感慨深く思ったのだった。


「おい何やってんだよお前、そこでボーっとして……」

「わ、わわわすいません!!」


 それでもやっぱり間抜けな所だけはどうにも治らなかったけど。


 それに、幾ら指や口の動きが良くても、楽譜の中で難しい箇所はどうやっても難しい。多人数で1つの曲を創り出す『吹奏楽』というジャンルでは俺の音色だけに集中するのではなく、自分の音色がほかの音色とどう噛み合うか、どのような形になって混ざっていくのか、それをしっかり考えて演奏しないといけないのだ。当然、1つの部分が完成させるまで顧問の先生は厳しく俺たちを指導し続けた。しかも俺が演奏する部分にはメインであるメロディパートも含まれている。先生が一段と真剣になって演奏を見定めるのは当然かもしれない。



「うーん、今の音色じゃまだまだ噛み合わないねー。もっと練習が必要だよ、みんな?」

「「「「「「「はい!」」」」」」」

「は、はい!!」


 先生や皆、そして俺自身が満足するためには、『もっと』ではなく『もっともっと』頑張らないと――そう感じながら発した俺の声は、他の部員よりも一段と大きな挨拶になって表れてしまった。その声の大きさを良い演奏として見せて欲しい、と言う先生の励ましを貰いながら。



「へえ、頑張ってるんだね……」

「ま、まあね……サンキュ、えへへ……」


 そんな奮闘を聞いた彼女は、あの可愛らしく眩しい笑顔で俺を優しく褒めてくれた。これなら間違いなく地方大会へ進出できる、と自信満々だった俺の言葉に対しても、これからも応援しているよ、と頼もしい言葉をかけてくれた。顧問の先生と彼女、2人との間に交わした約束も、きっと実現できるに違いない――舞い上がった気分だった俺にぶっかけられたのは、予想していなかった彼女からの心配の言葉だった。


「……でも大丈夫かな?最近授業にあまり集中できてないようだけど……」

「へっ?」


 吹奏楽部に打ち込む日々がとても楽しかった俺はその時まで気にしていなかったけれど、彼女の指摘を受けて思い返せば、確かに授業中うっかり居眠りをしそうになったり、時には本当にぐっすりいびきをかいて寝てしまい、先生にこっ酷く注意されてしまう事が多くなった気がした。まあ前からそうやって怒られることはしばしばあったからそんなに深くは考えていなかったけれど、その時の彼女の言葉に対して軽い返事をしてしまったのはそのせいかもしれない。


「まあ大丈夫だって。ほらよく言うだろ、学生の『本性ほんしょう』は勉強だって」

「……学生の『本業ほんぎょう』じゃなかった?」

「ああ、それそれ!へへ、また間違えちまったぜ……」

「ふふ……あまり無理しちゃだめだよ?」


 心配いらない、絶対に約束は守ってみせる――明るい声で改めて決意を伝えた俺だけど、練習が進むにつれて少しづつ妙な感覚を味わうようになっていた。

 毎日部室に訪れてはトランペットを吹き、楽譜を丁寧に観察しては先生や先輩、同級生に教えられたところをメモ書きし、それをちゃんと達成できるよう練習を重ね続ける、そうすれば絶対に上手くなるしコンクールでもばっちりその腕前を披露できる――そう確信していたはずなのに、どういう訳か少しづつ俺の手や口が思い通りに動かない時が増え始めてきたのだ。


 どうしてだろうか、その時の俺は理由を全く読み取れなかった。今までダラダラと練習し続けてきたよりも上手くなっているのは確かだけど、このままではいけない、もっと高みを目指さないと――そう思い続けて練習を続けても、何故か思い通りの音が鳴らせないのである。


「うーん、やっぱり焦ってないかな、そこのトランペットの音色?」

「えっ……お、俺ですよね!すいません!」


 そんな俺の心はすぐ音色に出てしまい、途中で合奏を止めてしまう事態を起こしてしまった。


 皆の前で1人で演奏する、と言う辛さよりも、自分や先生が満足できる音を鳴らせなくなっている事への恐れの心が俺には強かった。そして先生からも、謝るより先に良い音色を出すよう努力してほしい、と少し厳しいアドバイスを頂戴してしまった。


「大丈夫か、お前?なんかこの前の合奏より音が濁ってるような……」

「マジですか!?ああ、もしかしたら俺、本番に立てないかも……どうしましょう先輩!?」


 この学校の吹奏楽部は人数が少ないしそう言う事はあり得ない、と合奏後も慌てふためく俺を宥めてくれた同じトランペットパートの先輩は、悩み続ける俺に1つの答えを導き出してくれた。もしかしたら、上手くなる過程で誰もが経験するであろう『スランプ』かもしれない、と。そのアドバイスもありがたく頂いた俺だけど、その後に続いた言葉は、幾ら先輩からの助言とはいえ受け取る事は出来なかった。


 スランプになったのなら一旦落ち着いて休むべき、『三歩進んで二歩下がる』のも重要だ――そんな考え、実行できる訳はないだろう。ドジでおっちょこちょいだった俺は、先生から受け取った約束と彼女のために頑張らなければならないと言う決意の元、毎日頑張って練習してきたお陰でこんなにトランペットが上手くなっている。それなのにここで立ち止まったら、更にヘタクソになってしまう。下手すりゃ今までよりももっとダメになって、トランペットの吹き方すら忘れてしまうかもしれない。そんなの嫌だ、もっともっと練習しないと!


「スランプなんかに負けてたまるかってんだ!!明日からも頑張るぞ!!」


 その時の俺は、どこまでも前向き、吹奏楽に熱中し続けていた。辛くても苦しくても、腹が減っても熱が出ても、決してトランペットを手放す訳にはいかない。絶対に金賞を取り、その上でまだ見ぬ地方大会へ皆と一緒に向かわなければならない――はっきり言えば、へと一直線に走り続けていた。俺の体や精神がどのような状態になっているかなんて、見ている余裕はなかった。


 そして気づけば、とても大事なあの人と語り合う時間すら、俺はトランペットの音色へと消費し続けていたのだ。


『君のトランペットの音色、一段と綺麗に聞こえるよ。最近会っていないけど、元気かな?』

「最近……会ってなかったっけ……まあ別の部活だしなー」


 いつの間にやら夏休みが訪れ、ますます練習に気合が入り始めたある日の晩に、俺のスマホへ彼女から届いたのはこんな文面だった。その時もまた軽く考えてしまった俺だけど、確かに終業式の後、俺も彼女もほとんど顔を合わせる機会は無かった。俺が彼女の事を思う時間も減っていたのだろう。


 そんなことを考えている中で大あくびをした俺は、どこか体がだるいようなそんな感触を覚えた。まさか夏風邪か、と一瞬焦ったけれど、俺はすぐ首を振ってそれを否定した。夏の風邪はおバカがひくものだ、と言う昔からの言い伝えを思い出したからだ。それに、楽器の演奏をすればそんな病気なんて音色と共に吹き飛んでしまう――どこまでも軽く考えていたその時の俺こそが、一番の大バカ者だったのかもしれない。


 次の日、早めに学校を訪れトランペットを手にした俺は、その日の合奏に向けた個人練習を始めた――。


「……うーん……」


 ――音が反射しないと言う悪条件を持ち、同時にその状態でも同じ音色を維持するのにうってつけの場所である校舎の外――夏の暑い日差しが照り付ける、夏の空が見下ろす場所で。

 基礎練習がてら音を鳴らし続けているうち、俺の体に昨日と同様の気だるさが襲い掛かってきた。まただ、と思いつつも俺は気にせず、いや気にしないようトランペットを吹こうとした。だけど、吹き鳴らそうとした口から、音を鳴らすだけの息は出なかった。楽器を吹けるだけの体力は、既に俺の中から失われていたのだ。

 流石の俺でも、自分の体そのものが思うように動かないようではどうにもならなかったけれど、真っ先に浮かんだ心配事は、このままばったりと倒れてトランペットを落としてしまうという事だけは何としてでも防がないといけない、と言う楽器優先の思いだった。



(……くそっ……体が……!)



 小説やアニメでよくある『体が重い』と言うのはこういうことを言うのか、なんて余計な事を頭に思い浮かべてしまったけれど、次第にそんな余裕はなくなってきた。音楽室に戻った時には、先輩や同級生、そして後輩たちから顔が真っ青になっている事を指摘されるほど、俺はすっかり弱り切っていたのだ。そんな事はない、と強がる事すらできないほどに。


 そして、先輩たちに言われるがまま、俺は保健室へと向かう事にした。後の記憶は、おぼろげにしか残っていない。扉を開き、保健室の先生に何かを言われ、そのままベッドに寝かされる――そのあとに何が起こったのかなんて、そのままぐっすり眠ってしまった俺には全く知る由もなかった。


 ただ1つだけはっきりと覚えているのは、心に突き刺さった途轍もない後悔だった。こんなにボロボロになってしまっては、もうトランペットなんて吹ける訳はない。先生との約束も、彼女に告げた決意も、全部叶わないまま終わってしまうんだろうな、と……。

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