第31話 気づいた感情と向けられた感情 1

 お店を出ると、外は驚くらいの寒さだった。ブルッと一度身震いをして、コートのポケットに両手を突っ込む。

 英嗣もダウンに顔を埋めるようにして、寒さから身を護るような体勢をしている。

「寒いねぇ」

 顔をクシャクシャにして体を縮こまらせていると、スッと右手が差し出された。

 はて?

 なんだろうと首を傾げると、「手、あったかいで」とボソリ。

 差し出された手に躊躇いながらも、コートのポッケにしまっていた自分の片手を差し出した。するとその手を握り、英嗣が自らのダウンのポケットへと導いた。

 ドクドクと血液が体中を駆け足している。私の手は英嗣の手に握られたまま、彼のダウンのポッケにある。

 これがどういう事を意味するのか、考えないようにしていた。だって、私はただのお手伝いさんなのだから……。

「冷たい手やなぁ」

「冷え性だから」

 話しかけられても、いつもの通りのテンションで返すだけ。

 ポケットの中で、繋がる手と手。繋がったその手は冬の寒さも感じさせないほど暖かくて、カシミヤの手袋の暖かさは知らないけれど、そんな手袋なんて目じゃないと思った。

 ずっとこうしていて欲しい。

 心の中に芽生える想い。ううん、ずっと前から芽生えていたんだ。蕾をつけて、太陽の光と水を待ち続けていた。花咲く日を今か今かと待ち焦がれていた。

 なのに、繋がっていない方の手を見て心は寒々としていく。今すぐにでも、この手を振り解かなくちゃダメだとそんな気にさせる。

 だって、英嗣のもう片方の手には、アクセサリーの入った小袋がしっかりと握られているから。

 繋がる手の温もりに嬉しさを感じるも、小袋が目に入るたびに温かな空気の中に冷たい風が切り込むように入ってきて寒さに身を固くした。

 そして、言い聞かせるんだ。ただの雇われの身なのだと。

「なんや、寒いか?」

「ううん……」

 首を横に振る。

 寒くなんかないよ。繋がった手は、凄くあったかいよ。だけど、苦しい。心が寒くて、苦しいよ。

 手の温もりと心の寒さはあまりにも対照的で、バランスを崩して壊れてしまいそう。

 何故こんな風になるのか、ずっと鈍かった心は今更ながらに思うんだ。

 ああ、私ってば、英嗣の事をこんなにも好きなんだ、と……。

 一旦そう考えてしまうと、気持ちの歯止めが利かなくなっていく。繋いだ手を放したくない。ずっとこのままでいたい。けれど、握られた小袋に胸は軋む。

 それをあげる相手は、誰ですか?

 ギシギシと心臓をいたぶる感情は、高級アクセサリー店で感じたものと一緒だった。

 私の病気は、胃潰瘍でも、心臓疾患でもない。恋わずらいだ。

 困ったなぁ。雇い主に恋心を抱くなんて。

 こんな気持ち、英嗣に気付かれたら、今度こそ本当に出て行かなくちゃならないかもしれない。人気のミュージシャン相手に本気になったって、叶うはずないもの。

 大体、働かせてもらっているってだけでも、充分すぎる事なのだ。なのに、こうして繋がる手に期待をしてしまうなんて、愚か者だ。

 英嗣は、どうして私なんかの手を握っているのだろう。

 クリスマスの記念すべき日に、どうして私なんかと一緒に居るのだろう。

 そのプレゼントを持って、今すぐにでも想う相手のところへ行くべきじゃないだろうか。

 繋がる手に引かれ、後ろ向きな考えばかりが前に出る。

 コートのポケットに忍ばせてあるちゃちな品物が、更に心を惨めにさせていく。携帯についたタコのストラップが、期待するなと揺れている。ポケットの中でタコをぎゅっと握りしめ、必死に気持ちを抑え込んだ。

 手を引かれたまま、タクシーを捕まえるために大通りへと向う。

 こんな日のせいか、行きかうタクシーはどれも送迎中で、なかなか空車は見つからない。

「まぁ、しゃあないよな」

 歩きながら拾えばいいと、英嗣は楽観的に構えているから、黙ってそれに従った。

 歩道に並ぶ木々には、イルミネーションがチカチカと瞬いていて。以前、一人で昼間に見たときには、その電飾が嫌味にしか取れなかったけれど、今こうして目にすると素直に綺麗だと思う。

 きっと、繋がるこの手のせいだろう。

 今ある幸せな感情を、なるべく表に出さないよう。欲張らないように、と自分を戒める。

「あかりぃ」

「ん?」

 英嗣が、立ち止まった。捕まらないタクシーを諦め、電車にでも乗るのだろうか。

 次の言葉を待っていると、もう一度英嗣が口を開くのと同時に、ポケットの中でタコが威勢よく踊りだした。

「あんな――――……」

「あっ、電話」

 言葉を遮るつもりはなかったのだけれど、咄嗟に口から出ていた。

 英嗣は、口を閉じてしまい、「ごめんなさい」と目をつぶり携帯を取り出した。

 ディスプレイには、最近見慣れた名前が光っていた。

「凌……」

 凌の名前が出ると、繋がっていた英嗣の手がピクリと反応した。と同時に、スルリと手が離れ、英嗣も少し離れていく。

 その距離と、逃げてしまった手の温もりに心がキュッとなり、電話に出ずに英嗣を見ていた。

「電話やろ。はよ、出た方がええんちゃう」

 素っ気無い言葉が、胸を締め付ける。

 一気に冷えていく手の冷たさを感じながら、執拗に鳴り続ける携帯の通話ボタンを押した。

「もしもし」

『――――あか……り……』

 電話の向こうからは、苦しそうな声で途切れ途切れに私の名前を呼ぶ凌の声がした。

 すぐに、昨日凌がしていた空咳を思い出した。

 もしかして、熱が出たんじゃ……。

「凌っ?!」

『風邪……引いたみたいで……』

 やっぱり。

 昨日一緒にいる間に、少しずつ悪化していったのだろう。はぁはぁと吐く息が、スピーカーに雑音を混ぜている。

『薬、探したけど、みつからなくて……』

 いつにもない心細そうな声は、凌らしくなくて胸をつく。

「病院は? マネージャーさんとか、誰かいないの?」

『クリスマスで、みんな予定が埋まってんだよな……』

 おどけたように、無理に笑っているけれど、とても苦しそうだ。呼吸の仕方から、笑っている余裕などない事を悟らせた。

 焦ったような声で会話をしている事に、英嗣が怪訝な表情を見せはじめる。

「どないしたんや?」

「凌が、風邪で……」

 そんな時、丁度空車のタクシーが来た。英嗣が手を上げ、目ざとくそのタクシーを止める。

 止まったタクシーに、乗れと促すと、英嗣自身は外に立ったままで乗り込もうとしない。

「英嗣?」

「風邪。しんどそうなんやろ? 行ったれ」

「でも……」

「俺は、先に戻っておるから。二人だけの兄妹なんやろ。傍に居たったれ」

 寂しげに目尻をたらし、精一杯というような笑みを張り付け促した。

「ありがと……」

 私にお金を握らせると、タクシーのドアが閉まる直前に英嗣が口を開いた。

 ちゃんと、戻って来いよ、と。

 私は、大きく頷いた――――。


 タクシーに乗り込んですぐ、財布から凌がくれた名刺を取り出し、裏に書かれた住所を運ちゃんに告げた。タクシーの中から、すぐに行く、と凌にメールをしたけれど返事はなかった。

 道路はひどく混みあっていて、おかげでタクシーはなかなか前に進まない。早く凌のところへ行かなくてはと焦る気持ちと、タクシーの外で見送っていた英嗣の顔を思い出し心は落ち着かない。

 背もたれに寄りかかり、ポケットの中に忍ばせてあったプレゼントを取り出す。

「今日中に、渡せるかな……」

 プレゼントを見つめ、自信のない声を漏らした。

 英嗣は、タクシーを捕まえられただろうか。それともタクシーは諦めて、周囲の視線も気にせずに電車に乗って帰っただろうか。人気があるのに、意外とそういうところに無頓着なのだ。締まりのないだらけた顔を隠し撮りなんてされていやしないかって、こっちの方が気にしてしまう。

 落ち着かない気持ちを笑いに変えようとしてみても、どうしても心は誤魔化せない。

 今頃英嗣は、今日買ったプレゼントを渡すために、愛しい人の元へと向っている頃かもしれない……。うまい具合に凌から電話が来て、私と離れることができてほっとしているかもしれない。意外と気を遣うところのある人だから、私一人を置き去りに大好きな彼女のところへ向かうのは、心苦しく感じるかもしれないものね。だとしたら、凌からの電話は、ナイスアシストだったのかな……。

 考えると、切なさに胸が苦しくなっていった。気づいてしまった感情に、心が押し潰されそうになる。

 タクシーへ乗るように促した時の英嗣は、とても寂しそうな顔に見えたけれど、それは私が抱える想いがそう感じさせただけのことかもしれない。実際は、好きな人の元へ早く行きたい、と常に心は急っていたのかもしれない。

 一人寂しく風邪の苦しさに耐えている凌を頭の片隅で心配しながらも、心の大半は英嗣の事ばかりを気にしていた。凌の風邪ができれば軽いもので、すぐにでも英嗣のマンションに帰れる事を願っている。

 たった一人の兄よりも、やっと気付いた自分の心が先走るのを止められない。

 時間をかけ、混みあった街を抜け出し、途中でタクシーを待たせて大きな薬局で風邪薬等を買った。そこから民家が居並ぶ裏通りに入ると、タクシーはスムーズに大きなマンション前へとたどり着く。

 英嗣から借りたお金で支払を済ませてタクシーを降りれば、目の前に立ちはだかるマンションを前に溜息を吐いてしまった。

「本当に、ここ?」

 英嗣のマンションも凄いと思ったけれど、凌のマンションは更に上をいっている。

 私が無知すぎるだけで、凌ってきっと物凄く売れっ子のモデルのだろう。そんな凌と兄妹なんて、実は恐れ多い?

 無知って恐い……。

 木目の出入口サイドに、大きなガラス張りの綺麗なエントランス。恐る恐る自動ドアを抜け、名刺に書かれている部屋番号をプッシュする。程なくして、無言のまま次の自動ドアが解除された。なんの言葉もなく開いたドアに、それほど凌の風邪が重症なのかと思わせる。

 三十階建ての二六階。高層マンションだ。

 てか、あと四階くらい上にいけなかったのか?

 他人事だと勝手なことを思ってみる。

 エレベーターを降りると、一番手前の部屋が凌の住んでいるところだった。インターホンを押すと、鍵が解除される音のあとゆっくりとドアが開いた。

「りょ……う?」

 ドアに手をかけ中に踏み込むと、玄関の壁際に蹲る凌が居た。

「凌!?」

 大きな体を小さくして、荒い呼吸を繰り返している。

「りょうっ」

 呼ぶ声はなんとか聞こえている様だけれど、玄関へ来るだけで体力はもうないとばかりに動こうとしない。

 なんとか凌を抱えるようにして立ち上がる。ズルズルと引きずるように大きな体を支え、部屋の中に入った。

「寝室は、どこ?」

 訊ねても、苦しそうな声を洩らすだけ。熱で意識が遠のいているようだ。

 凌をリビングの隅に座らせ、片っ端から部屋のドアを開けていく。

 ゲストルームや書斎のあとに、使われていないベッドだけが置かれてある部屋に行き着き、動きを止めた。締め切られたままの、明るい桃色のカーテンが意味するもの。

「ここ、私の部屋……?」

―――― 明のために空けてあるから。――――

 凌が言った言葉は、本当だったんだ。

 何か、心の中を上手く表現できないもどかしいような感情が支配していった。ここに詰まっているだろう凌の思いが、あの時の言葉とともに脳裡に蘇る。

 僅かばかりその部屋で立ち尽くしてから、我に返った。

 今の状況を思い出し、慌てて次のドアに手をかけると大きなベッドが目に飛び込んできた。

 リビングへ凌を迎えに行き、また肩を貸して引き摺るようにしてその部屋へと連れて行く。

 なんとかベッドへと凌を横たえたあと、コートを脱ぎリビングのソファの上に置いて買ってきた薬を開けた。キッチンで水道からグラスに水を注ぎながら、そういえば、英嗣は冷蔵庫にミネラルウォーターを常備していたことを思い出した。

 水道の水なんか飲めるか、どあほ! 的な顔で見られたっけ。

 肩を竦め冷蔵庫の中を覗くと、案の定ペットボトルが数本おさまっていた。

「こういう業界の人は、水道水を飲まないのね」

 贅沢者と零し、少し呆れたような溜息をついた後、急いで寝室へと戻る。

「凌」

 声をかけると、薄っすら目を開ける。枕を重ねて背凭れにし、薬を飲ませた。

「少ししたら、効いてくる筈だから」

 コクリと力なく頷く。

 効いてくるとは言ったものの、この熱じゃ、もしかしたら市販薬では無理かもしれない。近くに救急病院は、あるだろうか。

 それとも、救急車……。

 最悪の事態を想定しながら、なんとか熱を下げようとタオルや氷を用意する。汗を拭い、脇の下や太腿のリンパが流れている部分を氷で冷やして水分補給もする。

 そうやって、数時間が過ぎていった。

 真夜中を随分と過ぎた頃、額に手を当ててみると、熱が徐々に下がり始めているのがわかった。

「よかった。これなら大丈夫」

 少し楽になってきたのか、凌の呼吸もリズムを緩め始める。

 ほっと息を吐くと、目を開けた凌が掠れた声で私を呼んだ。

「あかり……」

「ん?」

「クリスマスなのに、ごめん……」

 苦しそうにかすれた声を出す凌に、首を横に振ってみせる。

 英嗣の顔がちらついたけれど、口にしない。

「熱は、下がってきてるみたいだから」

「うん」

「もうしばらくしたら、もう一回薬ね。その前に、おかゆも作るから、少しだけでも食べて」

「うん」

 額に浮く汗を拭うと、凌が心細い表情で私の顔をじっと見つめてきた。

「あかり」

「ん?」

 黙って待ったけれど、言葉が出ないのか少しの間沈黙が続いた。

 その言葉の代わりとでもいうように、汗を拭うタオルを握っていた私の手を凌が握る。熱で熱いその大きな手にギュッと力をこめて、握り続ける。

「りょ……」

「ありがと」

 小さく呟き瞼を閉じると握った手の力が緩み、凌はもう一度眠りに着いた。握られた手からそっと抜け出し、眠る凌の顔を見てから寝室を出た。

 英嗣に握られたのと同じ手を、凌が握ったことに心が切なさを思い出していた。

「英嗣……」

 ソファの上に脱ぎ捨てたコートを拾い上げ、ポケットの中から携帯を取り出した。電話をしようと英嗣の名前を呼び出したところで、手を止める。

「もう……、寝てるよね……。それとも、彼女のところかな……」

 声に出したことで、余計に胸が苦しくなってしまった。

「おかゆ、作らなきゃね」

 誰もいないのに無理矢理な笑顔を浮かべて、キッチンへと立った。


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