第19話 内緒の仕事 1

 水上さんの挙動不審から二日。要するに、凌との約束の日がやってきた。

 朝、「帰りは遅くなるけど……」と、なにやらその続きがあるかのような話し方をしていたけれど、結局は言葉を飲み込んでしまったようで、水上さんはそのまま出かけてしまった。

 出掛けに言った「けど……」の続きが気になりながらも、凌との約束の時間めがけてマンションを出る。

 待ち合わせの場所は、恵比寿。凌の別れたい彼女との約束の時間よりも、一時間ほど早く到着した。

 これは、彼女と別れ話をする前に、一応会って話をしておきたいからという凌の指示。

 そりゃ、そうだ。メールや電話だけじゃあ、不安だよね。

 やって来たのは、大通りからほんのワンブロック入った先にある開店前のお店。まだ夕方前だというのに、とあるバーが指定場所だった。

 なんでも、凌の知り合いが経営しているらしく、オープン前の時間を使わせてもらえるらしい。

 一応、モデルという身分の凌。女と揉めたところをスキャンダルされるなんて事は、避けたいのだろう。

 がっしりとした洋風の重そうなドアには、真鍮の飾りがついたドアノブ。店の両サイドには、お酒の空瓶が入った木箱がインテリア代わりに置かれている。

 道路に向って窓はついているものの、嵌め殺しの窓の奥は真っ暗で、中の様子は窺えない。

 真鍮のドアノブを握り、ゆっくりと開ける。開けたドアの隙間から、夕方前の陽光が細く中へと差し込んだ。

「ごめんくださーい」

 遠慮がちに声を掛けると、石畳の床を踏む音とともに三十代くらいの男性が現れた。

「いらっしゃい。あかりちゃん?」

「はい」

 訳知り顔の男性は、ドアに手をかけ私を中へと促した。

「こっち」

「あ、はい」

 ほんのり燈った柔らかい色の間接照明と、たくさんのお酒の匂い。左手に六人ほどのバーカウンターと、右手にはテーブル席が四つ。その間を抜けて行くと、ボトルが並んだお洒落な棚で簡単に区切られた広いソファ席があり、そこに凌の姿があった。

「どうぞ」

 紳士的な振る舞いの男性が、凌の前へと案内してくれる。

「よっ」

「うん」

 凌が座るテーブルの前には、大きな氷の入ったグラスが置かれていた。

「飲んでるの?」

「ん? 少しだけな……」

 静かに応える凌はふざけた感じが一つもなくて、彼らしからぬ雰囲気を漂わせていた。いつもと違って見えるのは、ほの暗いここの雰囲気のせいもあるのかもしれない。

「コートをお預かりします」

 丁寧に言われ、慌てて水上さんに買ってもらったコートを脱いだ。

「何か、お飲みになられますか?」

 先ほどの男性が預けたコートを手に、立ったままの私へ訊ねる。

「あ、えーっと。いいえ、大丈夫です。……あ、お水だけいただけますか?」

「かしこまりました」

 微笑を浮かべて、男性が下がる。

「明も飲めばいいのに」

「そんなわけにいかないでしょ。これから仕事だっていうのに、頭朦朧として失敗しちゃってもいいなら別だけど」

「だよな」

 納得という顔でクスリと笑うと、グラスに手をやり琥珀色の液体をひと口喉へと流し込む。

「座れよ」

 L字型になったソファの、長い部分に座っていた凌に促され、対角にある二人掛けのソファに腰を下ろした。凌がほんの少し顔を顰める。

「遠いな」

 確かに、会話をするには遠いかもしれないけれど、かといって、L字の短いほうに腰掛けて凌の傍っていうのもおかしな気がした。まして、隣に座るのは、もっとおかしい。

 兄妹で、いちゃこらしても仕方ないわけだしね。凌の傍へ座るのは、お仕事の彼女がやって来てからで充分だろう。

 ソファに腰掛けて間もなく、薄いグリーンのグラスに入った水が運ばれてきた。

「ごゆっくりどうぞ」

 コクリと頷くと、凌がグラスをほんの少し掲げて話しだす。

「悪いな、岸谷」

「いえいえ。速水さんの頼みを断れるわけないですから。でも、今度は、貸し切りでお願いしますね」

 ほんの少しイジワルに笑って、パーティーにでも盛大に使って欲しいとお願いしている。

「了解」

 凌は凌で、ちゃっかりしてるよなと笑いながら応対していた。

 さっきの男性は、どうやら岸谷さんというらしい。こちらへ微笑みを返すと、静かに下がっていく。

 凌が呼び捨てにして、岸谷さんが敬語というところを見ると、多分後輩なのだろう。ということは、三〇才手前? けれど、どう見ても凌より落ち着いているから年上に見えてしまう。いや、凌の仕事が垢抜けているから、余計にそう見えるのかもしれない。

「で、仕事のことだけど」

 早速、仕事内容の確認を始めた。

「私の役回りは、凌が長年想いを寄せていた相手で、一旦距離ができてしまって諦めていたけれど、最近再会して想いが再燃してしまった。って事でいいのよね?」

「うん。その通り」

「凌は、色んな人と付き合ってみたけれど、結局私と比べてしまって、どうしても本気になれなかった、と」

「うん」

「これから来る彼女、奈菜美さんも例外ではなかった、と」

「その通り。よく予習してきました」

 凌は、パチパチと数度ふざけたように軽く手を叩く。

「予習ってね、仕事だから当たり前でしょ? それより、凌の方がちゃんとしてよね。それ、もう酔ってるとか言わないでよ」

 空になったグラスを指差し、少し睨みつける。

「そういう目つきをするなって。そんな顔してると男ができない、って言っただろ」

「余計なお世話」

 ふんっ、と鼻息を洩らす。

「それにしても、本当にまた逢えるなんて思ってなかった……」

 シミジミと言うように呟き、視線を向けてくる。

「え? 誰に?」

 何のことなのか解らず、問い返した。

「明に決まってるだろ」

「え? 私っ!?」

 ちっともそんな風に考えていなくて、驚いて目を丸くする。

「思わなかったって……。探し出したのは、凌じゃん」

 こっちは、ちっとも逢いたいなんて思ってなかったんだから。寧ろ、二度と会いたくない男ナンバーワンだったわよ。

 まぁ、でも。こうして逢ってみたら、昔ほど厭な感じはしていないけどね。

「……探し出せるなんて、本当に思わなかった」

「そうなの?」

「うん」

 感慨深げな表情をし、懐かしむようにその目を緩めている。

 そんな目で見られてしまうとなんだか居心地が悪くなり、意味もなく並ぶボトルに視線を彷徨わせた。

 少しそうしていると、凌が空のグラスを手に持ち立ち上がる。カウンターへ行くと、岸谷さんから新しいグラスを受け取り戻ってきた。

「ちょっとー。これからひと悶着あるっていうのに、飲んでる場合?」

 グラスに満たされたアルコールを見て、呆れてソファの背凭れに倒れこむ。

「ひと悶着あるから、飲んでるんじゃないか。素面で修羅場なんて、無理」

 無理、って。我儘な子供でもあるまいし。

 あ、もともと我儘な子供と言うか、いじめっ子だったよね。落ち着いてグラスなんか傾けているから、すっかり忘れていた。

「興信所なんかに依頼すれば、探し出すのなんて容易いだろうけど。明のことは、自分の力で探し出したくてさ」

 二杯目のお酒を傾けながら、昔話の続きをしだす。

「あんな風にオヤジと喧嘩して、家を飛び出して。明は、あの時一緒には行かないって言ったけど、無理にでも連れてくるべきだったって、ずっと後悔してた。あんな親父の傍に、まだちゃんとした判断もできない未成年の明をおいていくなんて無責任過ぎたし。なにより、心配だった。けど、俺もオヤジに似て頑固だからさ、一度行かないって断られたのに、女々しく何度も一緒に行こう、なんて言い出せなくてな。結局、意地を張り続けて、何年も過ぎちゃったよ……」

 照れくささで後悔を隠すように、グラスを顔の前に持って行く。その液体を眺めていれば、あの頃に戻れるんじゃないかとでもいうように、そこに映し出される歪んだ世界を見つめている。

「けど、時間が経てば経つほど、明のことが気になって、結局探さずにはいられなかった。家に連絡したけど、既に電話は使われていないし。実際行ってもみたけれど、もうそこには別の家族が住んでいた。明が通っていた高校のクラスメイトにも連絡したし、もちろん担任の先生にも訊いた。近所のオバちゃんや、よく買い物に行ってた八百屋のオヤジにまで訊ねたよ。けど、全く消息がつかめなくて」

 あは、だろうね。だって、学校に通っていた時は、クラスに友達を作る余裕もないぐらいバイトに明け暮れていたし。

 担任なんて頼れるような雰囲気の先生でもなかったから、自分でなんとかしなきゃって生きてきた。

 父さんが死んでからは、今までの全部を白紙に戻したくなって町からも離れた。

 高卒で就職できるのなんて、高が知れている会社ばかりで。なのに、副業でのアルバイトは禁止の会社ばかり。しかも、手取りで十六万円そこそこじゃあ、どう見積もっても借金なんて返していけない。

 仕方なく、詰め込めるだけ詰め込んだスケジュールでバイトをこなすより他なかった。

 おかげで、何とか利息分くらいは余裕を持って返していたけれど、借金の額は思うように減ってはいかない。そんな時に、水上さんのお仕事にありつけて、今までの返済額以上の金額を支払っていけるようになったんだ。

 どやされて、睨まれて、壁に耳……なんてこともあるけれど、本当に感謝してもしきれない。

「俺が自分のことだけ怠惰に考えて生きてきていた間中、明はずっと一人で頑張ってきたんだよな。ほんと、ごめんな」

 ガラにもなく殊勝に謝られ、どんな顔をしていいものやら困ってしまう。

 記憶の中の凌は、いつだって傲慢で、自己中で、こんな風に自分から人に謝ったりするような奴じゃない。なのに、そんな風に素直に謝られると、背中の方がむず痒くなってしまう。

「な、なーによ。そんな言いかた、似合わないけどっ」

 なんとなくしんみりとしていくこの場の雰囲気に耐え切れず、少し怒ったように言い返した。

「あれだけ人の事いじめ倒していたくせに、謝るなんて。全然らしくないよ」

 わざとらしく腕を組み、ふんっと鼻を鳴らす。すると、凌がきょとんとした顔をした。

「え? いじめ倒すって、どういう意味だ?」

「は!? 何すっとぼけてんのよ。散々、私の事いじめてきたじゃない。プロレス技かけたり、プールに突き落としたり、境内に閉じ込めたり」

「ああ……。あれか」

 おいおい。あれか、って。よもや、忘れていたとでも言うまいなっ。

 頬が、ヒクヒクと引き攣る。

「あれは、別に苛めていたわけじゃないさ」

「はっ! あれのどこがいじめじゃないって言うのよっ」

 あったまきた。すっとぼけて忘れていただけでも腹立たしいのに、数々の悲惨な行為をいじめじゃなかったと言うかっ!

「私が、どれだけ厭な気持ちになってたと思ってんのよっ。背中に昆虫入れられるし、噛み付きグセのある犬に近寄らせたり、ネクタイの練習なんて言って首絞めるし。まだまだ、いっぱいあるんだからっ。極めつけは、キ、キ、キ……」

 先の言葉を言い淀むと、凌が小首を傾げる。

「き?」

 キスまでしやがってっ! と怒鳴りそうになって、グッとそれを飲み込んだ。

「やめたっ。口にするのもおぞましい記憶だから、封印する!」

「なんだよ、それ」

 凌は、クツクツ笑う。

「笑うなっ!」

「ごめん、ごめん。あんまり真剣になって怒るから、可笑しくなっちゃったよ」

 そういうと、また笑い出す。

 くっそー。こういうところは、相変わらずだよね。人の不幸が大好きですっ、てところ。

 それでも、今日ここに来て、やっと凌の笑い顔を見られたことにほっとしていた。小さい頃の苦くも懐かしい思い出話に、心が緩んでいった。

 この先待ち受ける擬似恋人という仕事の難関に、自分でも気付かないうちに緊張していたのが、昔話のおかげでほぐれたのだ。


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