ⅩLⅤ   ふたつのサファイア

 ノエルは一人、星空の下に立ち尽くしていた。

 やかたからさほど離れていない、庭園の大きな木の下。そこに、真新しい墓標があった。

「マーヤ。」

 ノエルは小さく呟くと、その場にしゃがみ込む。膝をきゅっと抱えて墓標をしばし見つめ、やがてそのまま膝に顔をうずめた。肩が微かに震える。彼女の口からは嗚咽と、それに紛れた小さな呟きが漏れていた。背を小さく丸め、自分の体を抱えて、少女はしばらく動かなかった。

 そんなノエルの背後に、一人の女性が姿を現した。彼女は静かにノエルに歩み寄り、少女の肩に優しく触れる。

「ノエル。こんな時間に表に出ていると、風邪を引くわよ。」

 その声に、ノエルは驚いて振り向く。しかし相手の顔を見ると、少し肩を落として叫びかけた名前を飲み込んだ。

「……母様。」

 ノエルは立ち上がり、軽くドレスをはたいて整える。目を伏せたノエルを、母サーヤはちょっと寂しそうに見つめた。彼女にはもちろん分かっていた。ノエルが自分の声を聞いて「マーヤ」と……亡き姉の名前を言いかけたことを。

(この子にも、エディにも……私を見るたびに姉様を思い出させてしまうのね。)

 申し訳ない思いがちくりと胸を刺す。サーヤは優しく娘の肩に上着を掛けて包んでやりながら、静かに呟いた。

「私はずっと、姉様に助けてもらってばかりだったわね。」

「え?」

 ノエルは唐突な言葉にきょとんとして母の顔を見る。サーヤは懐かしむように空を見上げた。

「私の実家は、都に店を構える商人の家なの。姉様と私は『看板娘のふたつのサファイア』って、ちょっとした評判だったのよ。姉様は子供の時からしっかり者で、頭も良くて、二歳下の私は何をやっても敵わなかった。でも姉様は絶対に偉そうにしなかったし、いつも一緒に遊んで、一緒に悪戯をして、一緒に叱られていた。『遊んであげる』じゃなくて『一緒に遊ぼう』って言ってくれるの。私、そんな姉様が大好きだった。私たち、娘の頃から瓜二つだったから、よくお互いのフリをしてじいやや店のみんなをからかったものよ。みんな騙されたわ。」

 サーヤは幼い頃の気持ちを思い出すように無邪気に微笑んだ。楽しそうに青い瞳を煌めかせる。ノエルはいつの間にか、さっきまでの涙も忘れて聞き入っていた。

「私たちは姉妹二人きり……男兄弟がいなかったから、やがて姉様が婿を取って店を継いだの。姉の旦那様のエドゥアールはこの伯爵家に仕えていた人で、うちの店はこの家に出入りしていたから、その関係で知り合ってね。結婚してからも店は姉と父が仕切って、あの人は仕事を続けていた。その義兄を訪ねて来た時だったわ、あのお方に……あなた達の父上にお会いしたのは。」

「父様に?」

 ノエルは身を乗り出すようにして聞き返した。この屋敷にいる為か、八年前のあの日以前の記憶は少しずつ蘇ってきている。が、まだノエルの中の父の記憶はほとんど無い。だから、父の事は少しでも知りたかった。自分の中にある筈の、父の面影を探したかった。サーヤはそんな娘に優しく笑いかける。

「そうよ。昨日の事のように覚えているわ。私ね、この広いお屋敷で迷ってしまって……あの方とばったりお会いしたの。あの時、あの方は今のミックより五歳くらい年上だったのだけれど、若々しくて、爽やかで、それでいて渋くて魅力的。十八の小娘だった私は一目で魅了されてしまったわ。体の弱かった許嫁を亡くされてから、十年は一人でいると決めていたのですって。そんなところも、素敵でしょう?」

 そう言って少し頬を赤らめて笑うサーヤは、まるで初恋に出会ったばかりの「十八の小娘」のようだった。その時の気持ちを思い出しているからかもしれない。裏路地では男として生きてきたノエルにとって、こうして女同士で恋愛の話をするのは初めてだった。

「ねえ母様、それって一目惚れ?」

「ええ。ひとことで言えば、そういう事ね。そしてあの方も、私に好意を持ってくださったそうよ。」

 ふふっと笑うサーヤにつられて、ノエルも少し笑顔を見せる。兄ミカエルとよく似た広い背中の、男前で優雅な紳士の面影が脳裏に浮かんだ気がして。

「両想いってことね。でも、身分違いって反対はされなかったの?」

「されたわよ、もちろん。でもあの方が押し切った。何度目かに会った時、あの方は私に言ったの。『君には辛い思いをさせてしまう事の方が多いかも知れない、でも一緒にいてほしい。愛してる』って。私の答えはもちろん『Yes』よ。身分や常識に囚われない、珍しい考えを持った方だったわ。あの方は必死で周りを説得し、私も貴族の社会に受け入れられようと必死に努力した。」

「……大変そう。」

「あら。本当に愛する人と一緒にいられるんだもの、強い風当たりも努力も全く苦にならなかったわ。」

 サーヤはあっけらかんと笑顔で言う。彼女のまっすぐな想いは清々しく、美しかった。父は母のこういうところに惹かれたのかもしれない、とノエルは感じた。

「やがて私たちのもとにミックが生まれて、あなたも授かった。それと同じ年には、なかなか子宝に恵まれなかった姉様にも男の子が、エディが生まれた。……あの頃がいちばん平和だったわね。」

 呟くように言い、サーヤはそっと目を伏せた。

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