ⅩⅩⅩⅦ  暗き焔

 華やかだった屋敷を、赤々と燃え盛る炎が包んでいた。


「父上! 母上!」

「ミカエル様! お逃げください!」

 叫びながら炎に向かって走り出す少年を、もう一人の少年が後ろから飛びつくようにして止める。頬が濡れて光る二人の顔は、炎に照らされて真っ赤だった。

「放せ、オニキス! みんながまだ中にいるんだぞ!」

 振り払おうともがく貴公子に、騎士が必死にしがみつく。

「駄目です、危険です! この中に戻ったら、あなたまで死んでしまいますよ!」

 建物の全体が炎に包まれる。何処かで大きな音がして、壁の一部が崩れ落ちた。

「うわああああっ」

 少年の狂おしい悲鳴が、朱い光に染め上げられた庭園に響く。彼は立ち竦んで動けず、騎士が縋り付くようにその身体を支える。彼には、ただ声を嗄らして家族を呼ぶことしか出来なかった。

「父上! 母上! ノエル!」


 燃え盛る炎を見上げ、呆然としたように口を開けて、一人立ち尽くす少年の姿があった。

「…………はっ、」

 その口から、鋭く吐き捨てるような息がもれる。

「は、はははっ、あははははははは!」

 吐息は笑い声に変わり、まだ幼さの残る少年の声だけが辺りに響く。炎に包まれた建物の崩れる音がその笑い声に重なり、声を誰にも聞かせず掻き消した。

「燃えろ! 何もかも燃え、何もかも失ってしまえ!」

 少年は、力の限り叫んだ。

「そして、ぼくと同じ思いをすればいいんだ!」

 笑い転げる彼の暗い眼から、しずくが一つ落ちた。

「ぼくは何もかも失くした……一番大切なものを失ったんだ!」


「……ミカエル様、夜も更けております。今宵はひとずわたしどものやかたでお休みください。さあ、参りますよ。」

「嫌だ、まだ行かない。ここで、父上と母上とノエルが来るまで待つ。」

 叫びすぎて声は嗄れ、押さえつける騎士を振り払う力ももう使い果たした少年は、座り込んだまま弱々しく首を横に振った。憔悴した虚ろな目は辛うじて意識を保っており、まだ勢いの収まらぬ炎を見つめていた。

 ふと、その目が急に光を取り戻した。半分ほど崩れた館の中に人影を捉えたのだ。彼はオニキスに支えられて立ち上がり、じっと目を凝らした。人影は次第にはっきりと形をとり、程なくして一人の女性が彼らの前に姿を現した。

「母上!」

「奥方様!」

 疲れ果てた様子で倒れ込み膝をついた彼女に、人々は一斉に駆け寄る。少年は涙目で母親に抱きついた。

「良かった、母上……父上は?」

 不安そうに尋ねる息子の目をまっすぐに見つめ、彼女はただ黙ってかぶりを振った。

「そんな……。」

 呆然としたように呟く。近くにいた数人の使用人たちが、堪え切れずに咽び泣いた。

 夫人は息子をしっかりと抱き締める。そして周囲を見回し、かすれ声で尋ねた。

「ノエルは? 先に外へ逃げた筈よ……まだ出て来ていないの?」

「え、はい。ノエルはまだ……」

 少年の言葉を轟音が掻き消す。彼らの見ている前で、館は大きな音とともに崩れていった。

「……大丈夫よ。」

 自分より背の高い息子の腕に支えられた母は、やがてぽつりと言った。

「信じましょう。大丈夫、あの子はきっと生きているわ。」


 長く薄暗い廊下を、顔色が悪く小柄な少年がひとり歩いていた。

 その視界に母の姿が映り、少年は駆け寄ってその手を掴んだ。

「母上。」

「……アレス。」

 母は静かに、幼い息子の頭をそっと撫でた。その明るい色の瞳は哀しげに沈み、少年がいつも知っている優しい母の顔とは違う気がした。

「こんな夜更けに……。お部屋にお戻りなさい。」

 彼女は息子に、何をしていたのかとは尋ねなかった。まるで、何もかも分かっているかのように。

「あのね、母上、ぼく……」

「だめよ。」

 何かを言おうとした息子を、母親は優しく抱き締めた。彼女の瞳と同じ明るい色合いの髪が、少年の滲んだ視界に揺れる。

「ごめんなさいね、アレス。あなたにも辛い思いをさせて。」

「母上の所為じゃないよ。」

「でも、あなたとを引き離したのは私よ。ごめんなさいアレス、私にはこれしか出来ないの……あなたを守る為に……。」

 母の声はかすれ、涙で詰まった。少年は強い口調で言った。

「違うよ、母上じゃない。父上がいなくなったのがいけないんだ。だから、ぼく……仕返ししたんだよ。」

「アレス!」

 母は悲鳴のような声で少年の言葉を遮る。そして、息子の顔を哀しそうにじっと見つめた。

「駄目よ、そんな事。仕返しなんて考えては駄目……。辛いことも、受け入れるしかないの。運命だったのよ。決して逆らえはしないの。」

「いやだ!」

 少年は叫ぶ。母は哀しそうな瞳で彼を見つめ、その頬に伝うしずくを冷えた手で優しく拭った。

「アレス。今は辛くても……きっと、幸せになって。それだけが、私の願いだから……。」

 彼女は優しく微笑み、崩れるように床に倒れた。

「母上!? 母上!」

 少年の叫び声は、人気ひとけのない広い屋敷にむなしく響いた。

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