ⅩⅩⅦ   記憶の欠片

「……〈伯爵〉?」

 あまりに現実味がなく、口に出してからその言葉の意味を理解するまでに数秒掛かった。伯爵というのが貴族の中でどのような地位なのかは全く分からないが、平民、それも町はずれの裏路地に住んでいたような者にとって雲の上の存在だということは分かる。

「そう、伯爵。先代は私とお前の父上で、私は……五代目だったかな。八年前、父の跡を継いだんだ。お前はあの時七歳、私だってまだ十四歳の少年だった。」

 ミカエルは丁寧な口調で説明する。そして、真剣な目でノエルを見つめた。

「約束だ、その時の事から全て話そう。しかしこれは、ノエル、お前の封じた記憶を呼び覚ます事になると思う。辛い記憶を、だ。心の準備はいいか。」

 口調も視線も怖いくらい真剣だったが、彼女を心配し気遣ってくれているのは感じた。ノエルはちょっと視線を落とす。そしてひとつ大きく息を吸い、自分と同じ色の瞳をまっすぐに見つめた。

「はい。」

「……分かった。」

 ミカエルは言い、昔の事を思い出そうとするように目を細めた。

「私の十四になった年の初夏の、ある夜のことだ。この伯爵家の屋敷の一角で火の手が上がった。炎は瞬く間に燃え広がり、この建物を……私たち家族と、使用人たちが眠っていたこの家を包んだ。何から火が出たのか、何が原因だったのかは、未だに分からない。」

 ノエルは目を見開いた。急に早まった鼓動が胸を打つ。何故か、息が苦しい。

「私はオニキスに叩き起こされ、真っ先に屋敷から連れ出された。庭へ逃げて、家族の姿が見えないと知った私は半狂乱になったよ。泣きながら、父と母とお前を呼び続けた……。オニキスが止めてくれていなかったら、私は炎の中に飛び込んでいただろう。」

 ミカエルは出来るだけ淡々と述べようとしているが、その声は少し震えていた。

「やがて母は自力で逃げ出してきた。だが父は……この少し前の出来事で体を悪くしていた父は、助からなかった。共に残ろうとした母を、子供たちをどうする気だと怒鳴りつけ、半ば無理矢理追い出して……。」

 彼は一旦言葉を切り、目を伏せた。話すことさえも辛い記憶。ノエルは息をするのも忘れて聞いていた。はっきりとは出てこないが、少しずつ断片的な、薄い膜の向こうのようなぼんやりした映像が次から次へと脳裏に蘇り、溢れる。炎の色、数歩先が燃え上がり迫り来る熱さ、何かを叫ぶ人影、響く声、そして、炎に行く手を阻まれる恐怖と、絶望。その奔流に負けないように、彼女は腕で体を支えてしっかりと前を見つめた。

「お互いの無事が分かった私と母は、ノエルを探した。母はお前を逃がしたと言っていたが、お前はいつまでも現れず、火が消えてからも見付からなかった。でもずっと信じていたよ。ノエルは生きていると、いつか会えると。そして五年前、やっと見付けた。」

「五年前……。」

 ノエルがロビンと出会い、マーヤの家に引き取られた頃だ。

 ミカエルは潤んだ瞳で優しく微笑み、ノエルの頭をそっと撫でた。

「改めて……お帰り、ノエル。また辛い思いをさせて、すまなかった。」

「兄様……。」

 ノエルの目からしずくが一つ落ちた。大きな手のぬくもりに、涙はとめどなく溢れ出す。声を出さずに泣く妹を、ミカエルはしっかりと抱き締めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る