第6話

 無事に事務所内の寮へと引っ越しを終えた数日後のこと。


 ゆらぎは、午後から事務室へ来て欲しいと赤坂から連絡を受けて、出掛ける為の準備をしていた。


 外出をする前に室内を見渡す。引っ越しの際にボロアパートから持ち出した私物は、必要最低限の物ばかりで、無駄な物は殆ど無く、女性だということを隠しているにしても、ひどく殺風景だった。


 要するに、ゆらぎの部屋には女性らしさの欠片が一つも無い。これならば万が一、黒瀬が部屋へ訪問して来たとしても、違和感はないはずと想定し、ゆらぎは玄関のドアノブに手をかける。


 すると、ピンポーン。と、絶妙なタイミングで呼鈴が鳴った。


 腕時計を一瞥する。赤坂に呼び出された時間までには、まだ余裕がある。では、呼鈴を押したのは誰だろうと逡巡する。


 この事務所の最上階寮フロアは、基本的に社長と黒瀬、赤坂、そして、先日入居したゆらぎしか立ち入ることは出来ない。


 もし、この呼鈴を押したのが赤坂ならば、何か緊急の用事なのかもしれない。そう結論付け、ゆらぎは少し慌てながらドアを開けた。


「よ! 新人くん。いま暇? これから部屋でさ、一緒に映画見ない? 赤坂誘ったら断られてさ」


 開かれたドアの僅かな隙間から顔を覗かせ、一方的に話掛けているのは──有ろうことか、黒瀬セメル本人だった。


「いえ、これから事務室に行かなければならないので」


「えー、つまんないな。せっかく、君の分の唐揚げの王様買ってきたのに」


 視線を落とすと、確かにその手にはコンビニ袋が握られていた。微かに唐揚げの良い匂いも漂っている。


「その……、黒瀬さん、今日お仕事は」


「今日は半日オフ。珍しく早く収録が終わったから暇なんだよ」


 警戒心を怠らず、そして、その警戒心を悟られないように、言葉を慎重に選びながら会話を続ける。


「そう、なんですか。お疲れ様です。では、わた──オレ、急いでいるので失礼します」


 自身のことを危うく『私』と言い掛けて、直ぐに『オレ』と言い変える。ゆらぎが黒瀬に背を向けて施錠をしている間、彼は言葉を発しなかった。


 もしや、勘付かれてしまったのだろうかと思い、恐る恐るに振り返る。だが、彼はゆらぎの異変に気付いた様子は、微塵も感じられなかった。


「じゃあさ、夜なら空いてるでしょ? 俺、部屋で待ってるから。なんなら、赤坂も連れて来ていいから。な! だから来いよ、絶対」


 黒瀬は、ゆらぎの都合などお構い無しに一方的に告げると、断る暇もなく自身の部屋へ消えて行った。



「という訳なんですが……」


「セメルくん、ああ見えて実はかなりの寂しがり屋なんだ」


「なら、友人を誘ったら良いのでは?」


 事務室で赤坂からオーディション予定日の説明を受けた後、ゆらぎは先ほど、寮で遭遇した黒瀬のことを伝える。


「セメルくん、インドアだから……」


 赤坂はゆらぎの視線から逃れるように、手元の書類に視線を下ろして答える。


 成る程。つまり、黒瀬さんは友人が少ないのですね。というより、寂しがり屋だとは初耳です。そういう人物には見えませんでした。


 黒瀬のこととなると、何故か言い淀んでしまう赤坂だが、それは彼に対するイメージダウンを考えてのことなのか。それとも気を使っているだけなのか。その理由は解らない。


「白石くん。新人はオーディションが命なので、全力で頑張って来てくださいね。私も、良いお仕事が取れるように、頑張りますので」


「はい。頑張ります」


 タレントの仕事予定日等が、みっちりと書き込まれているボードを眺め、ゆらぎは返事を返す。


 予定表ボードに真新しく加わった『白石 護』の名前に、いずれは愛着が湧く時が訪れるのだろうか。


 そんな漠然とした思いを抱きながら今週末、ゆらぎは人生初めてのオーディション用ボイスサンプルを収録することになった。無論、BL作品だ。


 だが、その前に。今日は赤坂と共に、寂しがり屋である黒瀬の部屋に、訪問しなければならないのだ。


 少しだけ。ほんの少しだけ、黒瀬に対する不安が募った。

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