第2話

 とぼとぼと事務所の廊下を歩いていると、後ろから声を掛けられて、振り返る。


「ああ、ちょっと待って。君が白石くん?」


 声を掛けてきたのは、スクエア型の赤い眼鏡が印象的な、スーツ姿の男性だった。すでに私の芸名を知っているということは、この人が社長の言っていた赤坂という人なのだろう。


「まあ……はい」


 違いますと言うわけにもいかず、曖昧な返事をする。社長に会ってからというもの、気分は急降下。私の表情は、きっと物凄く酷かったに違いない。


「良かった。間に合って。改めまして、黒瀬セメルのマネージャーをしている赤坂昇あかさか のぼるです。話は全部、社長から聞いています。君が女性だってことも」


 ああ、なんだ。やっぱりこの人は私が女性だって知ってたんだ。でもまあ、よくよく考えてみれば、今の私は髪も長いし、ヒールの低いパンプスを履いている。

 化粧も身だしなみ程度には施しているし、普通に考えれば間違いようがないのかもしれない。


 社長に君は今日から男性だと言われ、すっかり自信を喪失していた。


 そうだった。私、女だった。


 田中社長の言葉に、私は少なからずダメージを受けていたようだ。


 憧れの声優になる為に大手事務所の養成所を卒業したというのに、どうして私は今、ここにいるのか。甚だ、疑問が拭えない。


「社長から指示されてることがあるから、取り敢えず、三階の事務室に一緒について来てくれるかな?」


「分かりました」


 ゆらぎは素直に答え、赤坂の後を追った。



「ここが三階、事務室。黒瀬くんのマネジメントをする為に、主に私がここを使用しています。隣は会議室」


 扉には事務室と書かれた、シンプルなデザインのプレートが貼られていた。室内はデスクとホワイトボード、ウォーターサーバー等、マネジメント業務には欠かせない品々が設置されている。


 パーティションで区切られた場所へ案内され、ゆらぎは赤坂に勧められたソファへ腰を下ろす。


「コーヒーでいいかな」


「はい。お願いします」


 お願いしますとは言ったけど、寧ろ自分からやりますと言った方が良かったのだろうかと、意味もなく悩む。そうこう悩んでいる内に、赤坂がコーヒーを注いだ紙コップを手に戻って来た。


「じゃあ早速だけど、簡単に説明するね」


 ローテーブルに分厚い書類と、二人分のインスタントコーヒーの香りが漂う、紙コップが置かれた。


 先ず始めに、私が赤坂さんから指示を受けたことは、現在住んでいる防犯性皆無のボロアパートから、事務所の寮へ引っ越しをすることと、髪の毛をカットし、男装をすることの二点に絞られた。オーディションを受ける為の事前準備らしい。


「──白石護くんという架空の人物になりきる為の完璧な準備をして欲しいというのが社長からのお願いです。……女性だし、やっぱり髪の毛切りたくないかな?」


「いえ、平気です。こだわりは特にないので。服装もお任せします」


 寧ろ、タダで髪をカット出来て、服もゲット出来るなら私側に何も問題はない。一人暮らしでアルバイトを掛け持ちして、悲しき貧乏生活を送っていた養成所の頃に比べれば、かなりのランクアップだと思う。


「そっか。そう言ってもらえると助かるよ。ありがとう。後、もう一つ。これは忠告なんだけど、寮で生活をするにあたって。うちのタレント、黒瀬くんには絶対に気をつけて欲しいんだ」


「はぁ……。なんだかよく分かりませんが、分かりました」


 いきなり気をつけてと言われても、私に何をどうしろというのか。黒瀬セメルという人物は、そんなに危険人物なのかと、今から少しだけ不安が募る。


 しかし、寮で生活をすることになった以上、基本的には全て諦めるしかないのだ。


 私、この事務所で、やっていけるのだろうか……。


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