面影

ほにゃら

中編:“ザ” ブラック キャット

0. ドッペルゲンガー

 ―――あなたには“今”逢いたい人がいますか



 ・・・例えば、待ち合わせをしている友人が時間を過ぎても現れない時。それは友人に遅刻癖があって、あなたは怒っているかも知れないし、呆れているかも知れない。或いは友人の遅刻はその日が初めてで、あなたは多少なりとも心配していたりするかも。

 暫く逢っていない友人だと、どきどきして何を話そうかと悩むか、わくわくして一人たのしい気持ちになるかも知れない。義務で会う約束をしているのなら、早く会って早く帰りたい場合も無きにしも非ず。それでも逢いたいという事に変りは無い。


「・・・・・・ホリウチさん?」

 ―――人違いという事自体は割とよくある現象だ。誰と誰がよく似ているだとか、○○人と××人は区別がつかないだとか、何と無く雰囲気が似ているからだとかそういう事である。

「あら、ごめんなさい、知り合いそっくりだったから、つい」

 ―――しかし、果してそれはその理由だけだろうか。

「・・・そうよね、だってホリウチさんはもう・・・引き留めちゃってごめんなさいね。何だか懐かしくなっちゃった」

 女性は寂しげな笑みを浮べて暫し打ち明けると、小刻みに辞儀をして去ってった。目尻には涙が溜っていた。



 ・・・・・・人違いされた、喪服の如く黒い服を着たその人物は、静かな視線で女性の後ろ姿を見送った。




 ~面影~




観自在かんじざい菩薩ぼさつ 行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみったじ 照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくう・・・」


 ―――日本・某所。仏僧が読経を始め、久々の再会に盛り上がっていた友人達は一転して哀しみに暮れ始めた。何処にでも在る葬儀の光景。少し小さな斎場。日當ひなた 奈都なとの死はごく有り触れたもの、国内で1日3000人死んでいる内の一人で、彼女の葬儀を終えた後もこの斎場は別の人間の葬儀を控えている。通りに面した斎場は車が引切り無しに走り、厳かな葬儀の中にまでその騒音は入って来る。

 奈都はとおるの幼友達で、些細な喧嘩から口も利かなくなってしまったが、学校で見かける度に、或いは当てつけに別の女の子と遊んでいる時も、胸が締めつけられる思いだった。

 奈都はいわゆる優等生タイプで、風紀委員を務め学校一の不良をして「鬼」と言わしめた強者であった。剣道を習っており、喧嘩にも滅法強かった。

 一方で徹は、中学の一番大切な時期を家庭内のごたごたで邪魔された事もあり、皆がストレートで進学する高校も断念し、1年の歳月を経て漸く最寄の奈都が通う高校へ進学した。今の自分が存在するのは、奈都が傍に居てくれたからだった。


無色むしき 無受想行識むじゅそうぎょうしき 無眼耳鼻舌身意むげんにびぜっしんい 無色声香味触法むしきしょうこうみそくほう 無眼界むげんかい 乃至無意識界ないしむいしきかい 無無明亦むむみょうやく 無無明尽むむみょうじん


 焼香の順が回ってくる。死に化粧した奈都の顔をじっくりと見る時間も無く、後ろの者が徹を列の端へと追い遣る。これではまるで満員電車だ。

 遺影で微笑む顔とは裏腹に、最後に眼にした奈都の死面すがおからは何の感情も読み取れなかった。


「誰かが亡くなった時しか逢う機会が無いのも寂しいけれど、久し振りに逢えて嬉しいよ」

「哀しくてもお腹が空くのがまた哀しみを誘うけどね・・・何か食べ行く?奈都ならきっと許してくれるよ」

 ―――葬式がちょっとした同窓会となり、奈都との想い出を肴に通夜の延長を各人で行なう。遺族の哀しみを置いてきぼりにし、日常という海へ還ってゆく友人達。奈都の母・日當 公香の号泣は、周囲を白い眼にさせる以外にどんな作用も引き起さなかった。

「奈都・・・奈都ーーーっ・・・・・・!!」

「やめなさい、公香。皆さん困っていらっしゃるだろう」

 奈都の父であり公香の夫の幸春が最も困った顔をして彼女をなだめている。そんな彼の目の下にもくっきりと隈が出来ていた。


 ・・・徹は黙って斎場を後にする。今日は真直ぐ家に帰ろうと思った。どうせバイトは全てキャンセルを取ってある。この頃は奈都を避ける様にバイトを立て続けに入れ、単位も危ういところまできていた。

 ―――しかし、最早学校に通う意味などあるのだろうか


 駅の雑沓に辿り着いた。―――行き交う人々。人々の顔が凡て同じに視える。足並を揃え、人波に乗り、我先にと改札を潜る彼等に、心は無い様に感じられた。尤も、いつもは自分がその最前線にいるが。

 ・・・凡ての生存競争が、改札(ここ)で行なわれている様な気がした。

 互いが互いを擦り抜けて歩く人々。満員電車に流れ込み、帰路に着ければ勝ちだ。異性(タネ)を持って帰れれば猶良い。

 地方には、改札を抜ける権利も無い者がうようよしている。

 ―――今日ばかりは、自分が敗者になった気分だ。


 すっ

 Suitaを改札に翳して通り抜けて往く人物がいた。其に該当する者はこの駅で1日40万人在るが、その中の一人に徹は目を奪われる。

(奈都―――・・・?)

 ―――奈都とそっくりの貌をした人物が、ホームの方へと歩いて往く。

 奈都の葬式は先程終えた。実感は湧かないが、死んだという事は理解している。しかし、余りに奈都の雰囲気其の侭で眼が離せなかった。

「・・・っ!」

 徹は無我夢中で奔った。改札を潜り抜け、階段を駆け上り、他人を押し退けながら。その者は思いの外歩くのが速く、徹が追い着いた場所は、多くの人でごった返すホームであった。

 其処に丁度電車が到着する。

 雪崩れる様に人が降り、呑まれる様に人が乗る。足並を揃えて。勝ち組の帰路へと。

 徹はあの人物を見失う。しかし此処で諦めたくはなかった。此処で諦めれば―――・・・奈都が成仏できぬ侭この世を彷徨っている様に後で想ってしまうだろう。

ってくれっ!」

 ―――足音が一旦止み、一斉に無数の眼が徹を凝視する。すぐに発車メロディが鳴り、人々は既に車内に居る者をモノの如く奥へと押し遣った。更に駅員が外側から押し込む。

 みっしりとヒトを詰め込んだ電車は、1分の遅れを出す事も無くあぶれた人々をいて走り去ってった。

「―――何だよ」

「この時間に酔っ払いか?まだ若いのに」

 疎らに残った人々の中に、一際重苦しい服を着た人物の姿も在った。

「君、ああいう事をされたら困るよ」

 駅員がつかつかと速歩はやあしで徹に近づく。だが徹は上の空だった。ホームで電車を待っていたにもかかわらず乗らなかったその人が、徹の方を向いたのだ。

「―――!?」

 ―――徹と同じ喪服を身に纏ったその人物は、奈都と全く同じ空気を放った別の人間だった。




 人違い―――・・・それは割とよく在る事。徹のそれも、単なる人違いで終ると思っていた。

 しかし、今回の場合は、違った。



「今日は厄日か―――・・・?」



 上の空だった事が響いてか、それとも喪服に金髪というある種前衛的な出で立ちが気に入らなかったのか、或いは年齢を訊かれた時に馬鹿正直に答えてしまったからなのか、駅員室に連行されて地下鉄での不審行動がいかに深刻なパニックを引き起すかについて説かれ、脱色がいかに将来ハゲ易くなるかの講義を受け、後者の話題が長引いて22時を過ぎてしまった為に保護者を呼ばれそうになったので逃亡を図り、夜も更ける頃になって徹は或る公園へ辿り着いた。

(げ、もうこんな時間。明日も学校サボリだな)

 取り敢えず、駅が閉るのを待って、駅周辺のネカフェか何処かで一晩を明かすプランを立てた。ドンキで安い服を買って着替えれば、バレずに電車に乗る事が出来る。ホッと息をつき、ベンチに背中を預けた瞬間だった。

 がさ・・・

「―――私に何か用ですか?」

 ビニール袋が擦れる音と共に、足音が近づき、ベンチの前で止った。暗闇であろうと関係は無い。それは、奈都と同じ空気を放つ喪服の人物であった。

「!?」

 徹は再び出逢う奈都の影におどろく。一度だけでなく二度までも、徹はその人物を奈都と勘違いした。

 まさか偶然にも、その人物とまた会ってしまうとは。流石に不審がるよなと、徹は内心焦った。

「あ―――悪ィ。さっきのは人違いで今俺が此処に居るのは偶然だ。別にあんたを追っている訳じゃあ―――・・・」

「すごい偶然ですね・・・・・・」

 相手の人物は感心したような呆れた様な声を上げた。そりゃそうだ。そんな偶然、徹だって驚いて―――

「・・・でも」

 相手は嬉しそうに微笑んだ。

「運命ですよね♪」

「はっ?」

 いかにもアブナイ人に引っ掛ってしまいました的な展開で、徹はガタリとベンチごと後ろに引いた。

 これは・・・・・・ストーカー女にありがちな、何でも無い男の行動まで凡て自分に結びつけようとする傾向では・・・

「だって―――私は貴方を探していましたから」

 相手は徹に手を差し延べてきた。・・・それはまるで救済の手の様で。


『ほらっ、あんたもあたしと一緒に頑張るの!』


 ・・・・・・奈都に手を差し延べられている様な感覚に見舞われた。

「―――今池いまいけ とおるクン」

 奈都とは懸け離れた低い声に、徹の意識は現実に引き戻される。

「・・・・・・何で俺の名前を知って」

「調べたんですよ」

 ・・・サラリと恐ろしい事を言う。何処の客だと徹は記憶の引き出しを乱雑に開けまくった。ストーカー予備軍となるような客は事前に切っていっている筈だが。それとも引き抜きの為に自分を調べ、偵察していた他所の店のチーフか。

 しかし、目の前に立つ人物には夜の仕事をしている様な印象は全く無く、飾り気も無ければ下品さも無い、かっちりとした職業に就いていそうなイメージだった。現に礼服であるモノトーンの喪服は非常によく似合っているし、切って少しばかり時が経った印象の短髪は、程良く額や鰓骨えらぼねを隠し、ナチュラルに上品に纏まっている。彼の日常では決して出遇であわない類の人間だった。

「貴方は、私が貴方の知る“誰か”に似ていたからついて来たんでしょう?」

 ・・・・・・図星である。どうやらストーカー云々よりも電波系を疑った方がいいらしい。徹が眉をひそめてじっと相手を見返していると

「・・・・・・私の貌はよく在る貌みたいで、人違いされる事も多いんですよ」

 と、相手は笑った。

「―――私の名はしん けい。・・・まぁ、名前はこの際記号なので何と呼んで貰ってもいいですよ。例えば―――・・・“奈都なと”とかね」

「!」

 徹は眼を見開いて前屈みになった。

「あんた―――何でその名前を知ってんだ?それに―――名前だけじゃない、全然別の人間なのに、あんたは何で奈都あいつそっくりの雰囲気をしてるんだ」

「―――ほう」

 秦 珪と名乗る人物は少し愕いた顔をした。

「・・・ま、そうえるのは徹クンだけなんですけどね。少し話が長くなるので、場所を変えましょうか。ささ、此方へ。徹クンはかぼちゃプリンでいいですよね?」

 秦珪はビニール袋をがさがさと言わせながら中からかぼちゃプリンを取り出す。ビニール袋には思い切り『Family art』と書いてある。

「スイーツなのにコンビニか・・・そりゃどうも・・・って、誰がついて行くか。あんたみたいな怪しい奴に「―――いいんですか?」

 秦珪の雰囲気が突如険しいものへと変る。徹は秦 珪の纏う別人のような空気に息を呑んだ。秦 珪はかぼちゃプリンをおもむろに左右に揺らした。

「・・・・・・このかぼちゃプリンが、どうなっても」

「いい。俺は帰る」

「あーん、ってくださいよぉー」

 秦珪は正反対の方向へ去ろうとする徹に泣きついた。

「―――日當ひなた 奈都なとの死の真相を―――・・・知りたくはありませんか」

 ―――抱き着く腕とは裏腹に、突き放したように冷たい声が徹の背筋をなぞる。徹はそれがその者の技巧テクニックだと解っていたが、情報の出処が気になる気持ちに耐えられず背後を振り返る。


 秦 珪は腕の触覚とも声の聴覚とも異なる感情の笑みを浮べ、徹を見上げていた。


「来れば解ります―――・・・さぁ、此方へ」

 秦珪は建てつけのあまり良くない、ダンボールで出来た扉を開き、徹を案内する。と―――

「あんた、リアルにホームレスか!その出で立ちで違和感無く迎え入れるな」

「この近辺には割といます♪」

「あんた、俺に何を言って欲しい・・・・・・?ああ、確かにこの公園はホームレスの溜り場で有名だったなと納得すればいいのか?」



 カランカラン・・・



 駅周辺も駅舎が閉った事で(完全な静寂になる事は無いが)静かになり、寒空談合を断固拒否した徹の希望で室内に入る事になった。


『―――私の知り合いが経営しているバーが在るんですが、其処はどうでしょう?徹クン、お酒強そうですし』


 徹が未成年だという事を知らないのか、或いは拘らないのか、秦珪は酒の在る処を推してきた。名前を調査済なのに年齢を知らないという事は無いだろう。バイト先を知っていて勧めてきたのだと徹は推測した。

 しかし、秦珪の方は入店できるのか。奈都と見間違えたのが全ての発端だ。幾ら知り合いがいようとも入れる程大人びている様には徹にはえなかった。



 カランカランと音を立てて、バーの扉を開ける秦珪。仕事柄、女性と飲みに行く機会が多いが、『BASIC』―――・・・飲み街の脇道にひっそりと一軒だけ佇むこの酒屋の看板を、徹は見た事が無かった。

「・・・おや」

 店はそれなりに賑っていた。今まで存在を知らなかったのが不思議な位だ。少々古めかしい雰囲気で、時代の流れを感じさせるものの、それは決して悪い意味では無い。下手にノスタルジーを演出しようとする開店して何年も経たない店よりも遙かに趣のある店で年月がそのまま客の信用を集めているようであった。カウンターだけはやはり何度か取り替えているのか、新品同様で磨き上げられている。

「秦 珪。久し振りだね」

 カウンターテーブルのみが光を反射する控えめな照明の中で、この店の主人マスターは正確に客の名前を言い当てた。

「ご無沙汰してます、マスター」

 秦珪は親しげに微笑み軽く辞儀をした。どうやら常連らしい。

「ビールは置いていないんですか?」

「うちには置いていないと言ってるでしょう、もう」

 マスターは微かに眉をひそめ、溜息を吐いた。

「―――その方は?」

 マスターは顎を掬う様に引き上げ、秦珪の背後に立つ徹を示す。微かに開いたその両の眼には、光を取り込んだ瞳の輝きが無かった。

(!このマスター、視力が・・・・・・?)

 しかしそうならば、何故秦珪の背後に人が居る事が判ったのだろう。

「―――彼は今池 徹クン。今回、私にあてられてきた子です」

「へぇ―――君も大変だね、いつも・・・」

 マスターは同情する様に片眉を下げる。秦珪は何も言わなかったが、マスターは徹が愛用する香水の微かな残り香に気づいた様で

「・・・・・・夜の仕事(どうぎょうしゃ)の香りがするね」

 と言った。

「仕事は此処近辺?それとも、二丁目辺りかな?」

「安心しな。こんな都会で仕事しちゃいねぇし、今日は用が有って久々にこっちに出て来たんだ。んで、どういう訳だか、其処の秦珪とやらいう奴とこういう事になっちまった」

 秦珪は相変らずニコニコしている。しかし、マスターはぽかんと口を開けるとあからさまに困惑した顔になった。

「・・・・・・この店では、未成年者はお断りしてるんだけど・・・・・・」

「なっ」

 徹は思わず愕きの声を上げた。容姿の面に関しても、年齢さえ言わなければ誤魔化せる程度ではあるというのに。ましてや、今回は少ない照明でマスターは此方を殆ど見てはいなかった。

「何で俺が未成年だと思うんだ?」

「判るよ。声が若々しいもの」

 マスターは何て事の無いように言った。だが、未成年と成人の声の違いは判っても、その境目を判断するのは至難の業である。

「―――彼は絃端いとはし 仁継きみつぐさん。このお店のマスターです。彼は眼が殆ど視えない代りに“真実”を視貫みぬく事が出来るんですよ」

「仕方無いから、今夜は特別にこの店に居ていいよ。この時間にうろつくと逆に危ないからね・・・秦 珪、今夜は君もお酒は没収」

「構いませんよ。今宵は仕事。さて、徹クン。始めましょうか」

 秦珪はカウンターの端の席に徹をいざなう。彼にとって輪郭だけがぼんやりと視える定位置に置いたグラスを2つ、指先で手繰り寄せて手に取り、マスターはレモンウォーターを注いだ。

「―――では、早速概要ですが「おい、てよ」

 ―――球形に彫られた氷が、指先で弾かれてグラスに当り、カラン・・・と音を立てる。徹が眼だけを隣に流し上目遣いで秦珪を睨んだ。

「その前に」

 事務的な口調に変った秦珪に、徹はやはりあやしさを感じた。あやしい人物の相手に手馴れているのも徹の悲しい職業病だ。

「 あ ん た は 一 体 何 者 な ん だ ? 」

 ―――・・・はっきり、ゆっくりと訊いた。

「―――・・・『秦 珪』ですよ」

 秦珪は徹の熱っぽい視線に、少し浮された様な表情を魅せた。

「・・・そんなんじゃない。今都会で流行ってる探偵か何かか?こんな立派な服を着たホームレスなんて在る訳が無い。わざわざあんなダンボール(隠れ処)を用意して俺の何を調査していた」

「ふふ・・・とても私が情熱的みたいな言い方ですが、残念ながらそれは逆です。貴方が私に引き寄せられて来た」

「誰に頼まれた」

「頼まれていません」

「じゃあ何で俺を調べる」

「私が必要としたからです」

 ・・・埒が明かない。先程の会話と堂々廻りだ。この秦 珪という者は謂うなれば空気の様だった。会話の内に入る事も出来ず、掴めない。

「・・・日當ひなたの関係か」

「・・・まぁ、謂うなれば」

 ・・・煮え切れない答えである。しかし否定はしなかった。その件について茶化す事は在り得ないだろう。秦珪はその話で徹を釣り上げた。

「日當と知り合いなのか?」

「・・・いえ、全く」

 ・・・・・・・・・

 非常に心苦しそうに言う秦珪に、徹はグラスを取り落した。マスターが慌てて台拭きを用意する。

 水に程よく溶けて水晶の様な光沢を放つ球体の氷は、滑る様に転がって秦珪の前で止った。水晶玉はカウンターの照明の光をたくさん取り込んでいるからか、目の前の人物の姿を映さなかった。

「・・・・・・貌を見た事もありません」

 ・・・マスターが氷を拾い、台を綺麗に拭き上げる。また新しく作り直すよ、と徹の手からグラスを取るが、徹は・・・いい、マスター。と言ってカウンターに置いた。

「・・・俺、帰る」

「始発まだなのにかい。危ないよ」

 徹は扉を開けて出て行く。どれほど奈都を想っていたか。秦珪との出会いで突きつけられた気がする、ずっと逸らしていた自分の本心を。赤の他人に奈都の幻影を追い求め、まんまと口車に乗せられる哀れな末路。似たような事を自分の同僚にされて泣き寝入りする女達を何人も見てきた。

 まさか自分が、引っ掛る側になろうとは。

「待ってください、徹クン!」

 がたりと大きな音を立てて、秦珪が追って来た。

「私は日當 奈都の事は知りません。でも貴方が私のもとへ来る事は知っていました。何故だと思いますか?」


『あんたがいつからそんなになったのか、あたしは知らない。でもあたしは、いつかあんたが戻って来る事を信じてる。だってあたしは―――』


 ―――まただ。秦珪が不意に現れると、忘れかけていた奈都との記憶の断片が鮮明に蘇る。固くとざした過去の扉が開かれる。


『あたしは、あんたが―――』



「私が日當 奈都のドッペルゲンガーだからです」



 ばたん! バーの扉が開口部に叩きつけられ『BASIC』の文字が街灯に照らされた。カランカランと鳴る程度である筈のベルが、振り幅大きく扉に叩きつけられ悲鳴の如き声を上げる。

「ああっ、ベルが壊れるじゃないか、もう」

 ある意味で暢気のんきだが切実に扉とベルの心配をするマスター。・・・しかし、店の外で一般客には気づく者と気づかない者が分れる程度の大きさの鈍い音がした時には僅かに微笑んだ。


「―――あんた、この期に及んでまだ話をはぐらかすか・・・・・・いい加減イタイよな?」

「すみません・・・・・・」

 頬を押えて倒れ込む秦珪。見ている側は様々な意味で痛いが、本人は強ち満更でも無さそうなのがますますイタイ。

「でも―――私を知る人は皆、私をドッペルゲンガーと呼ぶんですよ」

 秦珪は立ち上がり、『BASIC』の入口に佇んだ。中に入るのを躊躇っているようにも見える。先程は足を止める事無く店の扉を開いたのに。

「は―――「店内なかの客の会話を、聴いてみてください」

 徹に扉のノブを持たせ、自らは石の階段を下りる。路地の真中に静止した秦珪は、幽霊のように影が無く、無機物のように生気が無く、空気のように気配が無かった。

 ―――このまま眼を逸らせば、存在が認識できなくなってしまうのではと危惧する程に。

「―――扉を、開けてください」

 ・・・・・・先程とは比べものにならぬほど平坦で愛想の無い声。少し嗄れている様に聴こえるのは気の所為か。つくづく何故奈都と誤ったのか不思議に思うが、とにかく、徹は『BASIC』の扉を細く開けた。

 ―――予想通り、マスターだけは真先に気づいて此方を向いた。

 店内の客は―――感情の種類は多様であるが―――どの客も興奮していて、中には泣いている者も在た。出て行く前には当然ながらばらばらな話題で盛り上がっていた客だが、今は或る一つの話題が彼等を団結させていた。


 ――――『一番逢いたいと想っている人が、目の前に現れた』というものである


 その対象は様々で、亡くなった自分の子供とそっくりだったと話した老紳士も在れば、別れた恋人そっくりな人が居たと言う女性も在った。3次会利用客で既に酔っていた中年男性は、母親を想い出し泣き上戸に拍車が掛り、たまには遊びに行きたいわと嘆いていたOLは、学生時代から仲の良かった友人が来たと勘違いしたと語った。その他、病身の妹、恩師等、老若男女問わず面影を視たと、勿論内輪での話ながら各々が全く同じ話題であった。共通点として、彼等が逢いたい人に逢えた瞬間というのが

『秦珪がこの店に入って来た瞬間』

 なのである。

 本来は静かに飲む筈のバーが少し騒がしかったのは、賑っていた訳ではなく、愕(おどろ)いていたのだ。

『もう一人の、その人(ドッペルゲンガー)』の存在に――――


「―――徹クンが、亡くなった日當 奈都の面影を私に重ねるのは、決しておかしな事ではありません」

 ・・・・・・ふと、また奈都のかおりがする。秦珪は徹よりも細身・小柄ではあるものの、だからといって女性の奈都に特に似た突出した特徴が在る訳では無かった。謂うなれば、何処にでも見るような―――・・・人間の共通した部分を融合した様な特徴を有していた。例えば、東洋人である事は顔の造りから判るが、それが日本人なのか、中国人なのか韓国人なのかは判然としない。幾らか男勝りの少女に視えるのは、徹がその人物に奈都の影を感じているからで、幼さの残る少年にも映れば、しっかり者の大人の女性にも映り、はたまた少し小柄な男性に感じる人も在るだろう。身に着けているシックな喪服は、年寄りを演出している印象をも受けた。

「誰もが私に、逢いたいと願っている対象を投影するのです。―――徹クン、私を助けてくださいね」

「は―――?」

 秦珪が路地裏に繋がる交差点に眼を遣る。スポットライトの如く街灯の光が幾重にも重なった強烈なオレンジに照らされ、わらわらと黒い影が無駄なほど大きく連なっていた。暫し経つと声まではっきりと聴こえる様になってくる。明け方4時、活動時間帯の早いヤクザがうろつき始めた。

籐廼とうの組籐廼唯恭ただやすゥーーー!!」

 屈強な男共が集団でごろつき、秦珪に向かって呶鳴どなり込んで来る。こうなる事を予測できていた様で、秦珪はやれやれと溜息を吐き

「・・・私はトウノタダヤスではありませんよ、人違いです」

 と、答えた。

かしてんじゃねェぞコラ!手前てめえのそのしけたツラが証明してンだよ!!これ以上ばっくれると、土手ッ腹に風穴開けて紐徹すぞボケ茄子がァ!!」

「・・・・・・本当なのに」

 あァ!? ヤクザが秦珪の胸倉を攫んで殴り懸ろうとする。拳が秦珪の眼前に迫った時、ヤクザは頬を張り飛ばされ『BASIC』の向いのシャッターまで吹っ飛んだ。

「徹クン」

 秦珪は嬉しそうに言った。

「―――何と無く理由は判ってきたが、後で一から説明し直せ。何で日當と俺について調べたのか」

 徹がヤクザと秦珪の間に割って入り、構える。最前列の仲間が遣られて唖然としていた彼等は、たかだかホスト風情の軟派な男が向かって来るのに逆上した。

「手ん前ぇ・・・よくもモトさんを・・・・・・!」

「・・・わかりました。では、ちゃっちゃと殺っちまいましょう。このカン違い野郎共を」

「・・・んだな。て、え」

 柔かな口調に毒のある言葉が含まれていた気がして、徹は思わず聞き返す。しかし、彼の反応より秦珪の移した行動の方が早く、徹は太腿辺りに突風を感じて風の向かう先を眼で追う事でのみその台詞の真実性を理解した。

 ・・・・・・・・・ちんこ潰れる。

 徹の前に立っていた男が沫を吹かして後ろへ倒れる。敵方のみならず徹まで、冷や汗止らず血の気が引いた。これはイタイ。

「・・・『仏の顔も三度まで』って日本人なら聞かないか?ん?」



 うぎゃああぁぁぁぁぁ!!

 ・・・駅裏通りの路地一帯に、断末魔の悲鳴が響き亘る。周辺の繁華街も引っくるめてこの地を潰滅状態に落す様な、マンドラゴラの叫びであった。



「・・・彼等は、最近になって山梨組と提携を結んだ『君津会』という小さな極道組織です。御曹子若頭の君津 元がこれまた愚かで、調子に乗っているのか数々の組織に喧嘩を売っているみたいですね」

 警察にしょっ引かれる彼等を尻目に、バー『BASIC』の中に入って行く秦珪。徹の耳にその情報は最早入って来なく、ほぼ一人で総ての相手を叩きのめしておきながら、自分ほど息を切らしていないドッペルゲンガーに人間である事さえ疑い始めていた。

 カラン・・・

「―――困るよ、秦 珪。店の前で暴れて貰ったら。夜の仕事は平和が第一なんだ」

 ・・・閉店し、外の収拾がついたのを計らって人払いを終えたマスターは、ベルが鳴るなり眉をひそめて小言を言う。秦珪はいえ私に言われても・・・といった表情を浮べながら、すみません、マスターと謝った。

「?」

 ―――突然、徹が秦珪の腕を掴んで服の袖を捲り上げる。秦珪は流石に愕いて、と、徹クン・・・?と眼を白黒させた。

「私の勇姿に惚れました?」

「黙れ、ドッペルゲンガー」

 ・・・・・・いちいち奈都の影がちらつく。これが自分が、能動的に奈都を秦珪に投影しているのなら、と徹は想った。

 華奢な身体でよくやるな、と徹は思いながら君津会の団員をボコっていた。しかし秦珪は、君津会の者からは別の暴力団の若頭と間違われたのである。自分が秦珪にいだいている印象というのは、やはり奈都の延長線上でしかないのではないか。

「―――あんたが何者かについては一応棚に上げておく。でも約束は約束だ。日當と俺に近づく理由を説明しろ」

 徹が秦珪の腕を離した。秦珪は少し険しい顔をし、袖を下ろしてボタンを留めた。

「―――先程が丁度よい例だったと思います。私はよく人違いをされる」

「それと日當の件と一体どういう関係があるんだ」

「あのような喧嘩を売られる事も一度や二度ではありません。酷い時は命を狙われる事だってあります。殺した相手を再確認する際、似ている人物を発見すれば殺し損ねたと思うでしょう。日本の裏社会かげは貴方達が考えている以上に危険なものなのです」

 日本は米国の要人暗殺や、中国マフィアの様な物騒な報道はあまり為されない。しかし実際はスパイ天国と謳われるほどに影は日常に浸透し知らず知らずの内に人々は食い物にされている。影との境界線が曖昧となる夜の仕事はその危険度が更に増すが、突然の説教を受けているような気分になって徹は共感が出来なかった。その世界に入っていかなければ生活できない点で、なりふり構ってはいられない。

「―――とばっちりを避ける為に私は現在の稼業を始め、私に接触の可能性のある人物を突き止めました。今回の場合、それが日當 奈都の周辺人物だったのです。徹クン、私はあなたを特定していた訳ではなく、日當 奈都の周辺人物の一人と認識しているに過ぎませんでした」

「だから、何で日當が調査対象となったんだ」

「―――知っていましたか?徹クン・・・彼女の父は消費者金融に手を出し、返済が出来なくなって借金のかたに娘を取ると脅されていたそうですよ。私も少しだけ参列しましたが・・・死に化粧をしていても気色けしきに違和感がありましたし、母親の取り乱しようも異様でした」

「あんた・・・何言ってんだ」

 徹は即座に否定した。奈都は徹が昔からよく知る幼馴染だ。学校にも最近に至るまで真面目に通っていた事を知っている。快活で正義感が強くて―――・・・影の欠片も感じさせない太陽のように明るい少女は、眩しくて、熱くて、自身のように冷めてしまった手には握る事は出来なかった。

 しかし―――奈都の父とは幼い頃に一度会ったきりであるし、母親に至っては派手な水商売系女に変っていた。

「勿論これは私の憶測です。現に借金取りや暴力団は未だ来ているようですし。でも、私にとってはそのどちらであっても脅威なのです」

「・・・それで、あんたは俺にボディガード的なものをして欲しいとでも言うのか」

「『真実』を知りたいと思いませんか」

 秦珪は徹の質問に応えず、突きつける様に質問で返した。

「彼女の死因は事故という事になっていたと思いますが、若しかしたら殺人なのかも知れませんね。殺人だという事は、日當 奈都を殺害した犯人が在るという事です。―――犯人を、日當 奈都の“影”の部分を、見つめる勇気はありませんか」

 ・・・殺人という重い言葉が、徹の心に深く喰い込んでゆく。と共に、自分がひどく中途半端な存在に感じられた。自分はこれまで、誰からも理解されない心の闇を抱いていると思っていた。生い立ちもそうだが、自分は夜の闇の世界が性に合っていると思っていたのだ。自分を切り売りし、一時の快楽を手に入れ、翌日にはまた自分の別の部分パーツが系統の違う女と遊んで寝ている。それでよかった。

 しかし現実の闇は違う。秦珪の話は確かに闇であったが、闇とは堕ちてゆくものではなく飛び込む勇気が必要なものだった。

 だが秦珪は言う。

「日當 奈都の“影”は、必ずあなたを救ってくれる筈です」

 ―――秦珪は微笑んだ。

「今回に限り犯人捜しにお代は必要ありません。ただ、お願いしたい事があります」

 ―――まるで服を脱ぐように、気配も雰囲気も真っさらに消える。マスターはぴくりと反応し、ほんの僅かの間、閉された眼を開いた。


「―――私を、見つけてください」


 ――――・・・ 徹は射貫かれた様に動けず立ち尽していた。秦珪は空気を消した侭、白々しい笑顔を器用につくっている。

「・・・・・・あんた、見つけるも何も、今此処に居るじゃねぇか」

「それでは解らないよ。秦 珪・・・・・・」

 徹が極めて真っ当な返答をする。これにはマスターも一票入れ、困惑した顔で彼に続いた。秦珪はえー、そうですかねぇと呟く。

「・・・私は、誰かの“影”となり続けている内に、自分を失い、私自身が何であるか一切が判らなくなりました。過去の記憶、それは、私が他人に成り代ってきた履歴で、他人に拠って造り上げられてきたものです。利用され、虐げられ、そうあってなお方向性が判らない者の末路は悲惨です。思考を授かり地球上に生み落された生きる義務ある人間われわれにとってはそれは致命的な問題かも知れませんね」

 ―――これが己を切り売りした者の末路かと徹は思った。感情が無く、表情が無く。ものを見る眼に輝きが無く、生きているという印象を全く感じさせない。すべての働きがばらばらで、連動しておらず、それが空気だけの変化や声と表情の不一致さに如実に現れていた。

 これだけ心を失って、これだけ人間から外れてもなおまだ壊れずに済んでいるのは取り戻す事を渇望しているからかも知れない。

「―――私は、徹クン、あなたなら、私を見つける事が出来ると信じています」

 秦珪は感情の無い眼に感情を籠め、抑揚の無い声に抑揚をつけた。しかしその「信じている」という言葉自体が徹にとっては不自然で

「・・・・・・今日、しかも人違いで会った人間を、どうして簡単に信じるなんて言うんだよ」

 と、反論する。秦珪はくすりと笑う。

「・・・信じていますよ。徹クン、あなたはすぐに人違いに気づいた。大切な人の幻想を見破り、それを認めた。なかなか出来る事ではないんですよ。大切であれば大切であるほど・・・特にそれが離別わかれともなれば―――・・・ますますその面影に固執する。しかし、人間ひとはいつか必ず別れ最期は独りでなければならない」

 ・・・徹は幻想(ドッペルゲンガー)の存在を認めたものの、秦珪の姿が奈都に准じているようでは未だ奈都から独立できてはいないのだろう。生前に口うるさい女と罵ってはいながらも、結局は甘えていたのかも知れない。

 ―――そして、彼女から独立する為には、彼女に何が起ったのかを知る必要がある、とこの影は言いたいのだ。

「日當の死の真相が判ったら、あんたの正体も明らかになるという事だな?」

「・・・そうとも謂えますね」

 ・・・秦珪は何故か残念そうに言った。

「わかった」

 ・・・・・・秦珪はしょぼんと溜息を吐いた。恐らく秦珪の言いたいようには理解していない。まぁ慣れてはいるけれども。

「・・・・・・道のりは遠そうだね」

 マスターが苦笑する。手探りでコーヒー豆を取り、朝一番のドリップを淹れる。カランカランと音がし、彼等が顔を上げると、朝の光が顔に射し込んできた。

 ―――徹の後ろ姿が影となって映る。

「―――帰るのかい?」

 マスターが手を止めて尋ねる。徹は

「―――ああ。ドンキ閉ってるけどな」

 と、振り返らずに答えると

「世話になった。マスター」

 がしゃん。秦珪が席を立つ間も無く扉を思い切り閉められ、たたた・・・と走り去る足音が、ベルが大暴れした後に聞えた。

「あ」

「・・・・・・撒かれたね」

 マスターは高い位置からコーヒーを注いだ。

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