5話 醜悪

 ヨウセイの密猟をもはや日常的に行っている釧路くしろりょうだが彼女は葛城くずき大学大学院博士前期課程1年生。修論を仕上げるために研究を進めなければならないし、年が明けてすぐには国際学会がありその準備もせねばならなかった。


 十月の終わり、釧路はバスに乗っていた。窓の向こうには、色とりどりの紅葉が広がっている。向かっているのは市の外れにある葛籠つづら山、そこでのフィールドワークが目的だ。ただ今回は釧路自身の研究ではなく、付き添いのようなものだ。


 釧路は通路側のシートへと顔を向けた。女性が一人、顔に雑誌を置いてぐーすかと寝ている。肩に手を当て、揺り起こす。


柴崎しばさき先生、着いたぜ」

「んん、そんなところのタンパクが上昇してるなんて聞いてないよぉ……」

「どんな夢見てんだよ、あんたは……」


 隣に座ってた女は雑誌を顔から取り、あくびした。彼女は胸ポケットにかけていた眼鏡をつけ、うーんと大きく伸びをする。


「いやぁ、先日のプロテオーム解析についてちょっと気になっててねぇ~」

「夢の中まで研究ですか? ご苦労なこったですね」

 柴崎は寝ぼけ眼を細める。

「夢の中はいいよ。食欲も性欲も睡眠欲もすべて切り離せる。雑音もないし考え事をするのにはうってつけの場所。この世全てが夢のような場所だったらいいのにね」


 また訳の分からないことを、と釧路は内心思った。


 彼女の名前は柴崎しばさき有理ゆうり。役職は准教授で、釧路の指導教官だ。歳は三十後半だが、子供っぽくまだ二十代にも見える容姿。長い黒髪をゴムで束ねて、ポニーテールにしている。身に着けているブラウスはアイロンがかけられていないのか皺くちゃだし、全体的にだらしない印象。だが、研究者としては非常に優れている――と釧路は彼女を評価していた。


 バスから降りた釧路たちは畦道を歩き、葛籠山へと向かう。麓に広がる田んぼのイネは既に刈られている。「ん」と田んぼ沿いを流れている小川の中に、釧路はある生物を見つけた。赤と黒の斑点が入り混じるとても色鮮やかなニシキゴイだ。それを見て釧路は眉を顰めた。後ろから柴崎が小川を覗き込み、「お」と声を出す。


大正三色たいしょうさんけか。カラフルだねぇ。そうそう、そう言えばこの前、釧路ちゃん、面白いこと言ってたよね」

「柴崎センセ、ちゃん付けは止めてくれませんかね」


 釧路は溜息を吐く。もうこのやり取りも何度目か分からない。研究室に入った直後から、かれこれもう二年近く釧路をちゃん付けで呼んでいる。


「いいじゃん。釧路ちゃんだって可愛い女の子なんだからさぁ」

「女の子なんて歳じゃねーですよ」


 釧路は今年で二十三だ。高校の同級生には結婚しているやつもいて、ラインで子供の顔写真が送られてくるなんてこともある。


「そうかなぁ。十分に女の子だと思うけど……ってそうじゃなくてぇ。私が言いたいのはほら、釧路ちゃんこの前、面白いこと言ってたよね。美とは何か、ってやつ」

「ああ……あれですか」


 この前、木槌きづちがマンションで話していた「美とは何か」という話題。それが頭に残っており、与太話として柴崎に話したのだ(当然、ヨウセイの密猟に関しては伏せてある)。


「あのとき釧路ちゃんは、私は理系だからそういう話は分からんとか言ってたけどさ。それって自然科学寄りの話ではあるよねって思ってねぇ」

「どういうことで?」

「神経美学っていう、神経科学の一分野があってさ。人間が美というものをいかにして認知するか、脳機能などの観点から明らかにするって学問だよ。fMRIとかの発展で、非侵襲的に脳機能を計測することができるようになったからねぇ。美を感じるとき脳のどの部位が活動しているか、とか分かってるみたいなんだよ。内側眼窩前頭皮質、だったかな。美しいと感じると、そこが活発になるらしいの」


 釧路は木槌の発言を思い出す。環境や文脈により美しさは変わる、だから自分は今ヨウセイに興奮しないのだ――と主張していた。


 釧路たちの横を親子連れが通りかかった。まだ小学校低学年くらいの女児と、両親と思われる二人。彼女らは小川を覗き込むと、声を上げた。


「わぁ、コイ。綺麗ねぇ」と母親らしき人物が言う。


 そんな様子を見て、柴崎はにやっと笑た。


「あのお母さんは、このニシキゴイを美しいと感じているようだね。彼女の内側眼窩前頭皮質は盛んに活動していることだろうね。さぁて釧路ちゃん、それじゃあ君はどうなのかな? 君はこのニシキゴイを美しいと思った?」

「……わたしゃぁ、大層おぞましいと思ったよ」

「うん、私もね」柴崎は笑って頷く。「こんなところにいていいはずがないものねえ。この暴食の魚がさぁ」

「……そうですね」


 釧路はもともとこの街の出身ではなく、大学への進学とともに越してきた。ここは街の中心を離れれば野山が広がり、多くの希少な動植物が住み着いている。一年生のとき、学期末のテスト前に野山を訪れたことがある。陽が沈み、辺りが暗闇に落ちるなか水田の上を飛び交うヘイケボタルの蛍光色。その幻想的な風景に目を奪われた。毎年ここに来てホタルを見よう。当時の初々しかった釧路はそんなことを思ったが、その願いが叶うことはなかった――。


 翌年、麓の樹々は切り倒されてしまった。麓に池を作り、ニシキゴイを放流するという名目のために。ホタルの幼虫たちが生息していた小川は埋め立てられ、代わりに作られたのは人工的な池。主導したのは、地元の環境を守るという主張を掲げているNPO法人。放流されたニシキゴイは池に繋がる川をさかのぼり、小川に生息する小魚やエビ、ホタルの幼虫とあらゆるものを食い尽くした。その年の夏、ホタルの淡い蛍光色は、小川を泳ぐ派手なニシキゴイの色彩に取って変わった。


 だからそれを知る釧路たちには、これは美しい光景ではなくておぞましい物にしか見えない。ここは人間のエゴにより破壊つくされた場所だ。


 ちなみにそのニシキゴイたちは放流された翌々年、有識者たちにより駆逐が提唱され、結局は全て捕獲されてしまった。この一匹は恐らく捕獲漏れしたか、後々やって来た誰かにより放流された個体だろう。


「ま、難しい問題だとは思うけどねぇ」と柴崎。「専門でない人たちがどこまで生態系破壊について理解してるかは分からないし。逆に言えば私たちも専門でない分野では、よかれと思って間違ったことをしてるかもってことでもあるしねぇ。まぁ、そういうのに対処するためにこうして調査にやって来たんだけど」


 柴崎の研究室では、放流されたコイがこの山の生態系にいかに影響を与えたのか、また駆逐後どのように本来の生態系へと回復しているのか調査を行っている。今日やって来たのも調査の一環だった。


 釧路はがしゃがしゃと髪を掻きむしる。


「ときどき思うぜ。本当に私らのやってることに意味なんてあるのかなって」

「ん、どういうことぉ?」

「動物の生息数や範囲の調査だとかして、果たして何の役に立つのかってことだよ」


 そのニシキゴイ放流に関してはある顛末がある。そのNPO法人理事の一人は、ニシキゴイ販売業者の役員だった。放流されたニシキゴイはその業者を通して提供されたものだったのである。つまりは、ニシキゴイの放流は利権絡みのイベントだったのだ。また、その役員は農学の修士を取っている。ニシキゴイの放流がいかに環境に影響を与えるか分かっていないはずがない。分かっていながら、利益のためにニシキゴイの放流を行った。利益と名誉のために、だ。


 分かっていないのなら、柴崎たち専門家が正しい知識を世に広めることで、生態系の破壊を防ぐことができる。だが、向こうが分かった上で利益のために行っているというのなら自分たちには防ぎようがない。


「まぁねえ。釧路ちゃんの言うこともちょっとは分かるよぉ。でもさぁ、そこで専門家である私たちが投げ出すわけにはいかないよ。世間のほとんどの人がどうでもいいと思っても、私たちだけは心配しなくちゃね。、なんて思ったら終わりだよ」

「……それは、耳が痛い話だな」

「んん?」

「いや、何でもねーですよ」


 釧路は山に向かって歩き出した。


 世の中には利権にまみれた汚い大人が跋扈していることを釧路は知った。環境保全をうたいながら、利益のために平然と環境破壊を行う。そんな資本主義の世の中で自分に何ができるのか。何もできない。ならば自分だって向こう側――利益のために破壊を行う側に回ってもいいではないか。それが賢い生き方というものだろう。


 賢くない生き方をした人間を、釧路は一人知っている。バカ真面目だったその男は、友人の借金を背負い、妻には見放され、最後は孤独に人生を終えた。同じつては踏みたくない。だから釧路は利益のため、ヨウセイを捕まえ続ける。

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