s1 ep3-3

 ピンと来た。前のアパートで侵入者相手に銃をぶっ放したときと同じ目の色だ。

「あ、もしかして何かヤバイことになった?」

 質問への答えはなく、坂上は低くこう言った。

「いいか、周りは見ずにそのまま歩け」

「また?」

 つい先日も例の妙な女を始末したあと、同じような指示を受けた。

「四の五の言うな、次の角を曲がる」

「わかったよ」

「それから、俺が何をしても自然に振る舞え」

「何をって」

 例えば何を? と訊こうとはした。だって一応、心の準備ってものもある。

 だけど問う前に目的の角がやってきて、路地に折れるや否や着ていたパーカーを脱いで裏返した坂上は、ライトグレーに変身したソイツを素早く羽織り直してフードを深く被り、ビルの壁を背に中野を引き寄せて乱暴に唇を合わせてきた。

 何の理由もなくこんな行動に出たはずはないし、自然に振る舞えと前もって言われてた。だから中野は坂上の身体を隠すようにして壁に押しつけ、舌を突っ込んだ。そのとき、坂上の鼻腔から漏れてきた吐息は演技には聞こえなかった──というのは、都合のいい錯覚だろうか。

 腰に回した指が硬い感触に当たる。もちろん性器の話じゃなくて後ろに差した火器のことだ。昨夜、話題に上った安全装置の話が頭を掠めて、慎重に腕の位置をずらして背中を抱き寄せる。

 艶を孕んだ微かな呻き。脇に挟んだビジネスバッグが鬱陶しかったけど、足元に落とすべきかを迷ってるうちに気にならなくなっていた。

 表通りから切り離された死角で息苦しいほど濃厚なキスを交わして、一体どれくれい経ったのか。

 やがて唇を離したとき、フードの陰に覗く坂上の目は仄かに潤んで見えた。

「まだ続ける?」

 尋ねると即答が返った。

「もういい」

 ちょっと残念ではあったものの、危険は去ったってことなら何よりだ。

 中野の腕から解放された坂上は、ポケットに手を突っ込んで素っ気なくこう言った。

「先に行ってくれ」

「いいけど、メシ食いに行けるんじゃなかった?」

「地元でな」

「別行動で帰るってこと?」

「駅で合流する」

 路地から出てさりげない風情で歩きはじめた中野の脳内に、いまさら疑問が湧いた。

 駅って、どれだろう──?

 中野坂上駅のことなのか、それとも出発前に合流するって意味なのか。

 後者なら位置的に最寄り駅は神田、でも大手町駅まで歩けば乗り換えなしで帰れる。しかし五路線が交差する大手町で、単純に帰宅ルートの丸ノ内線チョイスでいいのかどうかもわからないし、もしくはフェイントで新日本橋駅か三越前駅って可能性もある。

 そこまで考えて気づいた。女とのデートの待ち合わせじゃあるまいし、相手は坂上だ。きっと、そんなことを思い悩む必要はない。そもそも、結局は合流しない可能性だってある。

 そして帰宅ルートを選択した結果、やっぱり何もかもが杞憂だった。

 日本橋川に架かる鎌倉橋を渡ってほどなく、いつのまにやら隣に坂上が並んだ。

「どっから現れたんだ?」

「気にするな」

「駅でって言ったのに早かったね」

「だったら何だ?」

「俺に早く会いたかったのかな」

 答えはなく、坂上は両手をパーカーのポケットに突っ込んだままチラリと目を寄越しただけだった。

 それからいくらも行かないうちに地下鉄の入口が現れた。

 階段を下りはじめたとき、不意に隣から声がした。

「あんたの言ったことを考えてた」

「俺が言ったこと?」

「あの部屋では、枕の下に銃は置かない。特に──あんたと寝るとき」

 これといった色合いの浮かばない横顔を数秒眺めて、中野は口をひらいた。

「俺はそのほうが安心するけど、それであんたが不安になったりするなら置いててもいいよ?」

「大丈夫だ」

「ほんとに?」

「しつけぇな」

「じゃあ、家に帰ったら早速試してみようか」

 坂上の反応はない代わり、異論も返ってこなかった。

 改札を抜けてホームを目指しながら、ふと中野はどうでもいいことに思い至った。

「そういえばさぁ、さっき店で名乗ってたフジミって名前だけど」

「あぁ……?」

「もしかして、中野富士見町の下半分だったりする?」

 中野富士見町は、中野坂上から方南町に向かう支線でふたつ目の駅だ。ただ、あちら方面は用事がないから降りたことがない。

「どうしても俺の下になりたいんだな、あんた」

「勝手に言ってろ」

「何だったら今夜は、上に乗せてあげてもいいよ?」

「──」

 笑顔の中野と対照的に、ほんの少し険しくなった坂上の表情は、だけどやっぱり異を唱えてるようには見えなかった。

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