第三話 恋人という選択肢は選ばない

 それからの私は、毎日イシバシくんのアパートへと足を運び、彼の前で一糸纏わぬ姿を曝け出している。構図が定まった今、もう彼が私の身体に触れる事はない。

 そして彼の予言通り、私はイシバシくんに恋をした。生まれて初めての恋心だ。裸の私を目の前にしても普段通りで、キャンバスと真剣に向き合う彼の姿は、とても魅力的な人に見えた。

 最初は復讐だなんて意気込んでいたのになと思うと、自分でもおかしかった。当初の思惑を打ち明けて謝罪した時、イシバシくんは「そんな事だろうと思った。出来もしない悪事を無理に働こうとするな」と笑い、私の鼻を軽くつまんだ。

 私とイシバシくんは、恋人ではなかった。絵描きとモデル、それ以外の何でもなかった。それでも二人の間には確かな信頼が生まれていたし、交わす言葉は少ないけれど、穏やかな時間が流れるようになっていった。


「オノミチ、帰る前にちょっと話さないか。俺たちはもっと、互いの事を知ってた方がいいのかもしれん」


 イシバシくんの方からそう切り出してきたのは、六日目の事だった。私はシャワーを借りてから台所に出てきたところで、彼は私の分もコーヒーを淹れてくれていた。


「うん、じゃあ今日は終電で帰るね」


 私はイシバシくんに対して、媚びることも敬語を使うこともなく、くだけて喋るようになっていた。彼の前では素でいてもいい、むしろ彼はそれを望んでいる。きっと私が「リコリス」として甘えた声を出せば、今も容赦なく「その媚び方は下品だ」と言われるのだろう。


「少し早めに出よう、家の前まで送ってやる」

「いいよ、駅の近くだから平気」


 私はまだ少し湿っている髪を手櫛で整えながらシュシュで一つにまとめ、すっぴんのままで彼の向かい側に座った。


「ダメだ。万が一何かがあったら、俺の責任だからな」


 イシバシくんは二つあったカップの片方に牛乳を注ぎ、そっちを私に勧めてくれた。お礼を言って受け取る。


「常々思うが、オノミチはもう少し自衛しろ。よく今まで無事に生きてこられたな」


 頻繁に、このセリフを言われるようになった。撮影会の時にサービスショットを撮らせていた事も、ちくちくと繰り返しお小言を言われた。ちょっと前の私なら、きっと鬱陶しく思っていただろうけど……相手に何を思われようと、ストレートに心配を伝えるイシバシくんのことを、私は大好きになってしまった。


「乗るのが終電になっても、俺はオノミチを家の前まで送るからな。アンタみたいなゆるふわバカ、夜中に放流できるわけないだろうが」


 ゆるふわバカ……うん、もう慣れた。そのゆるふわバカを使って最高傑作を描こうとしてるのは誰ですかー、と心の中で反論しておく。


「終電でうちに来たら、今度はイシバシくんが帰れなくなるじゃない」

「俺は歩いてでも帰れる、三時間くらい歩けばいいだけだ」


 ああ、また無茶な事を言い出した。自分の意見を通す為なら、平気でこういう事を言う……ちょっと呆れちゃうけど、ギリギリまで一緒にいられるのは嬉しい。

 ねぇイシバシくん、私はあなたと、少しでも長く一緒にいたいんだよ。あなたもそう思ってくれていたらいいな――祈るような気持ちで、ただ、彼の目を見つめた。


「まぁ、話そう、オノミチ。時間がもったいないぞ」


 思いっきり顔を背けられて、だけど耳まで赤いのが丸見えだ。少しだけ勝った気分で、私は大げさにはしゃいだ。


「そだねー、どんなこと話そっか? 改まるとわかんなくなるね!」


 彼の淹れてくれたカフェオレに、口をつける。言わずとも私好みで出されるようになったお砂糖抜きのカフェオレは、温かくて優しくて、ほんのりと甘い。この部屋に漂う空気のように。


「……いま、オノミチが欲しいものって、何だ?」

「欲しいもの?」


 唐突なその問いにも、彼の照れが透けて見えた。そして私は、質問の意図を把握した。もうすぐ私の誕生日だ、定期試験の初日。イシバシくんに伝えてはいなかったけれど、ネットで「リコリス」のプロフィールを見れば、そのくらいはすぐにわかる。

 私を「クソビッチ」とまで罵ったこの人が、今やネットで私の情報を調べて、プレゼントのリサーチまで始めたのだ。イシバシくんのこういう部分に触れるたび、私は彼に想いを打ち明けたくなってしまう。


 あなたが好きです。

 私のことを、好きですか。

 恋をしていても、いいですか。


 イシバシくんの絵が完成するまで、そういった気持ちは打ち明けないと決めていた。この部屋で裸を晒す「小野道オノミチ理子リコ」という存在そのものが、彼の望まないものに変わってしまいそうで、怖かった。

 もし「恋人」と「モデル」のうち一つだけを選べというのなら、私は恋人という選択肢は選ばない。彼にとって、他の誰にも代わりが利かない、かけがえのないものでありたいから……それなのに、彼女という立場に憧れてしまう私は、やっぱりワガママなんだろうな。


「そんな真剣に悩むような話か?」


 私が欲しいものを考え込んでいるのだと思ったイシバシくんは、苦笑しながらコーヒーカップを揺らしていた。甘くない、だけど濁ってもいない琥珀色の液体は、その手を止めても惰性で渦巻き続けている。


「やっぱ女って、服とか鞄とか、そういうのがいいんじゃないのか」

「そういうのもいいけど、大事なのは選ぶ気持ち……かな?」

「営業用のセリフは言わんでいい、俺は取り巻きじゃない」


 彼はわざわざ立ち上がって、私の額に軽いデコピンを打ち込んだ。「営業」って、私は貢がせたことなんて、ただの一度もないんだけどな。


「真面目な話だよ。プレゼントを選ぶ為に使ってくれた時間とか、手書きのカードを添えてくれたりとか、私はそういうのが嬉しいって思うよ」

「じゃあオノミチは、品物には拘らないって事か……アンタらしいな、なんか」


 その言葉は、私のイメージが完全に反転した事を指していた。あれだけ鬱陶しがっていた私を、今はきちんと見てくれている。たった六日で印象を修正する事ができるというのは、さりげなく凄い事だと思う。

 イシバシくんの心は、きっと本当は柔らかいんだ。


 私たちはすっかり話し込み、気がつけば二十一時を回っていた。もう帰らないとね、とアパートを出てから駅まで歩く間、私たちはまるで反動のように黙り込んだ。


「今日、満月だったんだな。見てみろよ」


 イシバシくんの指差す方を見ると、雲の無い夜空に満月が浮かんでいた。


「まんまるだね、お月様も意外と明るいね」

「月明かりは優しいよな。太陽みたいに目潰しで攻めて来ないのがいい」

「……あはは、ひっどーい! お日様かわいそー!」


 イシバシくんらしからぬ言葉は、どうやら彼なりのジョークらしいと気がついて、私は笑いが堪え切れなくなった。イシバシくんは苦笑したあと、私の右手を難なく片手で捕まえて、そっと指を絡めてきた。


「綺麗だな」


 私に同意を求めるかのように、繋がれた指に力が込められた。月はいつだって綺麗だけれど、イシバシくんと手を繋いで見る満月は、最高に綺麗だった。


「うん、綺麗。すごく綺麗だと思う」

「……良かった。俺はオノミチと同じものを見て、同じ気持ちになりたかった」


 イシバシくんは、目尻を下げて笑った。頬が熱くなる。ねえ、そんなに優しい表情をして、そんなに甘いセリフを言うなんて、告白してるようなものなんだけど……私は自惚れてもいいの? あなたに恋をしていても、いいの?


「私も、同じ気持ちなら嬉しいよ」

「そうか。それなら良かったな」


 それが、私たちの精一杯だった。私も彼もそれ以上、何かを確かめたりはしなかった。そのうち他愛もない会話へと流れてゆき、普段通りの穏やかな雰囲気になった。


 ――曖昧なままの私たちは、絡めた指を解く事も、できなかった。

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