第18話 二十億光年の孤独 前編

理乃とする話の中で、少しずつだが理科や数学の話が多くなってきた。おそらく、俺に理系科目を好きになってもらいたいという熱意の現われだろう。


「理乃は、どうして数学とか理科が好きなんだ?」


一度そう聞いてみた事もあった。すると彼女は、珍しく陰った表情でぼそりと呟く。


「私、なんにも知らないから。この世界で何が正しいのかとか、私の存在する意味とか...」


このときは予想外に深い答えが返ってきて、返答に戸惑った。そんな俺を察したのか、彼女はすぐに表情をいつものにっこり顔に戻して加えた。


「あと私みたいな名前の人が、理系科目好きじゃない方がおかしいしね」


「まあ、そうだな」


俺は苦笑を混ぜて返答した。それからはまた、いつもの他愛ない話が始まる。俺が学校や部活の話をすると、理乃は基本的に聞き手に回っている。彼女としては聞く方が楽しいからと言って遠慮しているわけではなさそうだった。実際、先生の話など共感できるところがあると話し手に転じる事もある。


一方数学や天体、生物や化学の話題になるとエンジンのかかったように理乃は勢いを増す。聞いたことのある定理や、この前習ったような用語は、熱弁する理乃の言葉によって面白おかしく変えられていくのだ。俺は素直に不思議だと思えたし、今まで嫌いだった数学にも色々な背景があることに関心した。だから理系関連の話では、俺は完全に聞き手に徹っすることとなる。


そうして入院から一週間が経ち、俺たちは中三の夏休みを病院で迎えることになった。その日、俺はリハビリを受けていたためいつもより待合室に行く時間が遅くなった。部屋の扉を開けると理乃がテーブルに突っ伏して眠っている。時刻は午後三時。昼食後の一番眠くなる時間だから無理も無さそうだ。


「ん...なんでよ...」


いつも通り理乃の向かいに座ろうとした瞬間、理乃の方から何か聞こえてきた。しかしまだ理乃は突っ伏したままだ。寝言か何かだろうか。俺は気にせず、彼女の傍に置いてあった科学誌を手に取る。


『ISSから予測した2016年以降の気候予想』『認知症予防に効果的な治療とそのマウス実験』理乃は簡単だと言っていたが、こんなものを進んで理解できる日が来るのだろうか...


「...私じゃ...だめなんだ...」


また寝言が聞こえてきた。今度はさっきよりもはっきりと。俺は理乃が心配になり、「大丈夫か?」と声をかけた。返事はないので無意識なのだろうが、彼女が今見ている夢は悪夢なのではないだろうか。俺は彼女の様子をずっと見つめていた。


「ん...んぐぅ...あ、あれ?カケル君...?」


理乃はゆっくり目を覚まして、俺を認識したようだ。少しだけ、悲しそうな表情をしている。


「理乃、君はさっき辛そうな寝言を言っていたが、なにか怖い夢でも見てたのか?」


だから今日は少しだけ、踏み込んでみようと思う。


「ううん!別にそんなんじゃないよ。ちょっと実験に失敗しちゃった夢見てただけ」


いつも通りの笑顔を挟んで、理乃はそうごまかした。一週間彼女と接してきた俺は、それが彼女の気を遣っている時の表情だと分かった。


「本当は、何だったんだ?俺は理乃が心配なんだよ。正直に答えてくれ」


「なんだか、今日はやけに突っ込むね」


「そうか?俺は信頼できる人に対してはいつもこうだぞ」


「私のこと信頼してくれてるんだ」


「ああ。だから、俺は理乃が何を考えてるかをもっと知りたいんだよ」


そう言うと理乃は黙って俯いた。何やら自分の中の大切な感情と葛藤しているようだ。理系のことばかりを話して、自分の事をあまり話さない理乃に対して、俺が食い下がって何かを追及したのは初めてのことだ。理乃も色々と予想外だったのかもしれない。


「そんな事を知って、どうなるの?」


その一言に少し驚いた。彼女の表情には一貫して陰りがある。俺はすかさず答えた。


「俺らは小さな科学者だからだ。自分の興味のある分野の真実を追求したいと思うのは道理だろう。知ってどうするかは、知ってから決めるさ」


「...それがまがい物だとしても...知りたいなんて思うの...?」


そう言い切った理乃は涙声だった。彼女の理系科目を学ぶ理由、寝言、そして彼女の表情全てが理乃の感情を表しているのだ。


初日に情けない姿を見られたんだから、こっちに遠慮することなどもうない。俺は誠意を込めて理乃に言う。


「俺が知りたいのは、他の誰でもない、今目の前にいる理乃のことだ」


直後、彼女が長らく下向きだった顔を驚いたように俺へ向けた。やっと目が会った。続けて、俺は俺の伝えたかった事をありのまま言った。


「理乃のする話がまがい物だろうが嘘だろうが関係ない!君のしたい話をして、君の伝えたい自分だけ伝えればいい。それを話してくれる理乃が真実だってことは変わらないんだぞ!」


休部中でしばらく張ってなかった声を上げた。言いたいことは言った、あとは理乃を待つだけだ。


その瞬間、圧倒されたような顔でこちらを見つめていた理乃は、歯止めが効かなくなったようにぼろぼろと泣き出した。


そして辛うじて言葉を発する。


「私は、生まれて初めて人に認めてもらえたんだ...」

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