第二十二話 希望

 茜色の陽が屋敷の部屋に差し込む。ねぐらに帰る烏のどこか物悲しい声に混じって、疾風はやての陽気な、けれど少し抑えた声が響いた。

 

「……とまあ、そんな感じでさ。寅彦とらひこ様の馬を借りて、何とか間に合うことができたんだ」

 

 目の前には、押し黙って文を読む辰彦たつひこ。彼がそれを読み終わるまでの間、あかりは疾風から依月山いづきやまであったことを聞いていたのだ。

 

「そう……。ありがとう、疾風」

 

 燈は疾風に礼を言うと、そっと辰彦の様子を見やった。

 俯いて文を読む辰彦の手が震えている。目を大きく見開き、引き結んだ唇が我慢できないというように、ぽつりと一言漏らした。

 

「とら……」

 

 その様子を見て、疾風はしてやったりというように口角を上げた。

 

「その文のとおり、寅彦様は辰彦様と争うつもりはないんです。むしろ、もう一度仲良くしたいとしきりに言っていました」

 

 疾風の言葉に燈が重ねる。

 

「辰彦様もそうでしょう?お互い争いたくないのは、これで明白な筈です」

 

 辰彦は文を握りしめたまま、絞り出すような声で言った。

 

「だが……。今更、どうすればいいというのだ!」

 

 震える言葉。呟くその表情は、直衣のうしの広袖に隠れてしまってよく分からない。

 

「もう、どうしようもないではないではないですか。とらが私が天子になることを望んでいたとしても、西の御方はそうではない。先程そこの男が言ったように、私が天子になってもとらがなっても、天羽あまはには禍根が残りすぐに争いに発展することなるでしょう。……そして、詠姫よみひめ様は私もとらも選ぶつもりはないのでしょう?」

 

 辰彦が顔を上げる。見つめるすず色の瞳に浮かぶのは、諦念。けれど燈は、彼を見てにっこりと微笑んでみせた。

 

「ええ、私はどちらかを天子に選ぶつもりはありません。それよりいい案を考えて、ここに来たのですから」

「それよりいい案…?」

 

 辰彦が首を傾げる。後ろに立つ疾風は既に笑いを堪えている。燈は笑顔のまま、得意気に胸を張った。

 

「どちらを選んでも禍根が残るのならば、どちらも天子になればいいのですよ」

 

 辰彦が目を見開いたまま固まった。鳩が豆鉄砲を食ったような顔に、耐え切れなくなった疾風がぷっと吹き出した。燈は笑顔で、けれども至って真剣に頷いた。

 

「今日の対談で、辰彦様も寅彦様もお互い気持ちが通じていることが分かりました。お二人でしたら、協力して天羽を治めることができるでしょう。どちらかを選ぶより、ずっと良いではないですか」


 辰彦は目を見開いたまま。そこに僅かに希望の光がよぎるが、震える声は尚も否定の言葉を紡ぐ。


「だ、だが……。天羽は昔から、一人の天子が治めるものでは」

「それも、歪んだ詠姫の制度によって作られたものに過ぎません」


 燈は、辰彦の否定を打ち砕くように声の調子を上げた。

 差し込んだ燃える赤光に決意に満ちた声が煌く。凛とした空気が、簡素な部屋さえもひとつの舞台に変える。


「辰彦様は、天子の成り立ちをご存知ですか?」


 燈が取り出したのは、ありきたりな巻物。初代の天子を讃え、永久に続く御代を祈るために書かれた、皇族のあらましを著すもの。

 その挿絵に描かれた真幌月まほろづきを指で指し示す。


「初代の天子様は、真幌月を作った神様に詠姫を捧げる契約を交わした者とされています」


 神様は、女神を嘆かせてしまったことを悔やむ天羽の人々を許し、ひとりの男に詠姫を捧げる約束の代わりに己の力を分け与えた。だから、詠姫を捧げ続ける限り、神の力でもって天羽は繁栄し続けるだろう。それが、今日まで伝わる天子の栄華譚であり、天羽の国の起こりを謳う物語だ。けれど。


「けれど、真幌月に女神様なんていない。詠姫を捧げる意味もない。これが偽りの物語だと、辰彦様も分かっていらっしゃるはずです」


 天子による治世がいつから始まったのかは定かではない。詠姫の制度とともに、いくつもの村が合併していったことが関係しそうと分かっているだけだ。だが、大事なのはそこではない。

 何よりも重要なのは、「天子はひとりで、且つ、詠姫に選ばれなければならない」という制度に拘る必要はないということ。


「辰彦様、これまでの天羽の制度は、ほとんどが間違った真幌月や詠姫の制度から始まったものです」


 この国の真実を知り、詠姫の制度を終わらせるため、調べ続けた多くの資料。その殆どが真幌月の伝承に関係していると知って愕然とした。けれどそれは、裏返せばそれらを変えてはいけない理由はないということ。

 もちろん天羽にも、残されるべき伝統は多く存在する。人々が培った技術、それらによって編み出された文化。長く子孫に受け継がれてきたもの。燈も実際に見て、その知と技に驚嘆したものも多い。

 けれど、変えることで良くなるのであれば、それは変えるべきだ。


「伝承は時とともに変わるもの。それは縛り付ける鎖ではなく、ひとつの時代に残された足跡に過ぎません。囚われるのではなく、より良い方へ変遷していくべきです」


 きっとすぐには変われない。一度浸透したものが、そうすぐに消えるとは思えない。けれど、始めの一歩を踏み出せば、より良い方向に進めると思うから。


「偽りの伝承による制度を続けるよりも、二人の天子によって作られる新しい歴史の方が、天羽をより良い方向に導くと、辰彦様も信じてみませんか?」


 燈は信じている。天羽を兄弟二人で統治することは、きっと上手くいく。貴族の辰彦と武人の寅彦が互いに協力すれば、きっと天羽は新しい場所に辿り着くことができるだろう。天羽は、自由に天を翔けていく双翼の鳥の姿をしているのだから。

 果たして――。恐る恐る反応を窺う燈の前、辰彦は腹を抱えて大笑いをした。


「これは面白い!」


 予想外の反応に、思わず瞠目する燈と疾風。辰彦は暫く笑い続けた後、瞳に涙をにじませてにやりと口角を上げた。


「詠姫様は肝の座った御方だとは感じておりましたが、まさか神をも恐れぬ豪胆さをお持ちだったとは」

「そ、そんなつもりは」

「冗談ですよ」


 慌てる燈に辰彦は悪戯っぽい笑みで笑うと、打って変わって真面目な面持ちで頷いた。


「良いでしょう。それが天羽の希望となるのなら、私もそれを信じて母上を説得してみましょう。但し詠姫様……いや、今は燈といいましたか、貴女にも協力してもらいますよ」


 微笑む彼の瞳には、最早諦念はどこにも存在せず、ただこれからへの期待と希望に満ちていた。燈は、こみ上げる嬉しさのままに大きく頷く。


「はい! 私にできることがあるのでしたら、何でも協力させてください!」


 まだ、始めの段階が終わったばかりだ。これからやることはたくさんある。特に、二人の妃を説得するのは骨が折れるだろう。けれど、新たな道へ一歩踏み出した天羽には、きっと明るい未来が待っている。そう思えた。

 夜は更け、冷ややかな空気が夢桜ゆらを満たす。けれど、話し合いの続けられる部屋は暖かな空気に満ち、星の海を行く月の舟が彼らを煌々と照らしていた。

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