第四話 落涙

 その噂を耳にした時、あかりは目の前が真っ暗になるような思いがした。

 疾風はやてが切羽詰まった顔で部屋に飛び込んできた時も、手を引かれて逃げている時も、それを信じることができなかった。


 ―天子様が、亡くなったなんて。


 何かの冗談だと思った。昨日の朝、一緒にお話したばかりなのに。その時まで、穏やかな優しい笑顔を浮かべていたというのに。……頼みごとを。そう、天子様が初めて燈のことを頼ってくれたというのに。

 逃げている最中のことはあまり覚えていない。ただ、疾風の優しく力強い手が最後の頼みであるかのように、強く強くしがみついていた。

 そして、いつの間にかこの小さな部屋にいた。ここはどこだろう。疾風はどこにいるのだろう。幾つもの疑問が浮かぶけれど、頭がじんと痺れて何も考えられない。薄暗い部屋、小さく蹲った燈の頭の中を、ただ昨日の天子様の微笑みが浮かんでは巡る。


『父を助けると思って、息子たちを仲良くさせるために何か考えてはくれないか』


 今でも、その言葉ひとつひとつが頭の中に蘇る。天子様が燈に頼みごとをした時の低く優しい声が、今まさに聞いたかのように耳元に響き胸を詰まらせる。不思議と涙は出ない。ただ何か熱く苦しいものが燈をがんじがらめに縛って、ぴくりとも動くことができなかった。

 嬉しかった。天子様に頼って貰えたのが、燈は本当に嬉しかった。優しい天子様。けれどいつもどこか遠くを見ていた、寂しいをした天子様。初めてその力になれると思ったのに、その瞳の理由が分からないまま、燈の手の届かない遠いところに行ってしまった。

 不意に戸の向こうで音がして、燈はびくりと肩を震わせた。その足音は僅かに床板を軋ませて、燈のいる部屋の扉の前で止まった。


「燈、入るぞ」


 そう言って静かに扉を開いたのは、水盥と麻布の切れ端を持った疾風だった。


「疾風……」


 燈はようやく疾風の顔を見られて少し安堵した。

 疾風は燈の前にしゃがむと、足を出すように言った。体は何とか動いたので、言われるままに足を出す。その時になってやっと、自分の足が血と泥で汚れていることに気がついた。


「すまなかった、裸足で走らせたりして」


 燈の足を丁寧に洗いながら、悔いるように疾風が呟いた。その声で、疾風に手を引かれて逃げたこと思い出す。何が何やら分からないまま飛び出した神苑しんえん。慌てふためく人々の群れ……。


「疾風……。天子様は、本当に亡くなったの……?」

「この目で見たわけではないが、ほぼ確実だろう」


 疾風の返事は淡々として重い。燈にも、天子様が亡くなったのが事実であろうことは分かっていた。それでも、聞かずにはいられなかった。

 暫く無言の時が続いた。疾風の手は優しく、燈は俯いたままその優しさに甘えた。

 ふと、疾風が視線を上げた。釣られて燈も顔を上げた。怖いぐらい真っ直ぐな瞳が燈を見つめる。


「燈。燈は詠姫よみひめだから、次期天子を決めてその人の元でまた詠姫として過ごさなければならない」


 それが詠姫の宿命さだめだった。天子様に何があろうと、例え何か事情があって短期間で何代も天子様が変わろうと、詠姫は「終演の儀」を行うまでただひとり。それが決まり。

 燈は疾風の言葉に頷いた。が、疾風は首を振った。


「だが、俺は燈が望むなら、このまま詠姫に戻らずに逃げてもいいと思っている」


 燈は目を丸くした。疾風の表情は真剣で、とても冗談を言っているようには見えない。


「そもそも、本来は詠姫になるべく教育された貴族の娘を詠姫にするところを、何の事情があったのか知らないが、捨て子だった燈が詠姫になったんだ。本来詠姫に就任する時期よりずっと幼い年齢での就任ではあったが、燈は詠姫になることへの使命感も覚悟も何もないままに詠姫になった。その辺は天子様もよく知っていたはずだ」


 燈もそのことは多少聞いた覚えがある。燈としては、捨て子だった自分を拾って頂けたことだけでも有り難く、恩返しとして詠姫の任を全うするのは当然だと思っていた。だからこそ詳しい事情は聞かなかったのだが、どうやら疾風は違ったらしい。詠姫について色々知った時、燈を詠姫にしたことについて聞こうと天子様に突っかかったのだと苦笑した。それでも、詳しいことは聞けなかったらしいが。


「加えて、俺は燈が天子様を慕っていたのを知っている。父のように慕っていた人が亡くなって間もないのに、見ず知らずの皇子のどちらかを選ぶなんて酷なことだと思う」


 疾風はそう言った後、少し息を吐き、それから真剣な眼差しを僅かに緩めた。


「まあ正直俺は、詠姫の宿命さだめとかどうだっていいんだ。燈が望むなら、どこにだって一緒に行ってやる。何を選んでも、俺は燈のそばにいるから」


 そう言う疾風の顔は、燈の大好きな優しい笑顔だった。

 燈はどうしたいと聞かれて、一瞬、逃げたいと言いそうになった。それも幸せかもしれないと思った。神苑で語った未来が一年早くなるだけだ。燈はただの女の子になって、疾風と一緒に馬に乗って、世界の果てまで一緒に行けたなら……。

 けれど、そこまで考えた燈の頭によぎったのは、昨日の天子様の儚げな笑顔だった。

 初めての頼みごと。元気に頷いた燈。それに優しく微笑む天子様。


『ありがとう』


 別れ際の言葉が、その囁きが、燈の胸を熱くする。気がついた時には首を振っていた。


「駄目……。逃げられないよ」


 小さな声で呟いた時、今まで全く出てこなかった涙が溢れた。頬を伝い、顎から滴り落ちる涙を拭いもせずに、燈は言葉を重ねる。


「詠姫は一人だけ。いくら私が特殊な選ばれ方をしても、この天羽あまはにひとりだけだもの。その私が逃げるということは、天羽を見捨てることになっちゃう」


 詠姫がいなくなったら、きっと天羽は混乱する。いや、今まさに混乱しているところだろう。次の天子様は決まらず、二人の皇子様は詠姫を探して争う。やがて、人々は鎮める者のいなくなった真幌月まほろづきに怯えるようになるのだろう。


「疾風の言葉はすごく嬉しい。私も一瞬、逃げてしまってもいいかと思った。でも、私は天羽を見捨てることは出来ないよ。……天子様が愛しんだ場所だもの」


 神苑を訪れる天子様は、いつもとても大事そうに天羽のことを話す。天羽の土地、移り変わる季節、そこに暮らす人々の生活。全てが大切で、愛しくて堪らないといった表情で。

 そんな天子様だからこそ燈はずっと尊敬してきたのだし、どんな些細なことでもいいから力になりたいと思ったのだ。


「それに、私、天子様に頼まれたもの。二人の皇子様を仲直りさせるって」


 もう、考えても教えてあげられる人はいない。けれど、それならどうにかして燈が仲直りさせたらいい。それが天子様の願いだと思うから。


「だから……。疾風?」


 いつの間にか、疾風に抱きしめられていた。その黒い羽織の肩口が濡れるのを見て、燈は自分の涙が全く止まらないことに気がついた。

 明かり採りの窓から光が漏れるだけの薄暗い部屋に、燈の小さな嗚咽が響く。身を震わせて泣く燈を、ただ疾風はじっと抱きしめていてくれた。

 そうして、天子様が亡くなって初めて、燈は泣くことができたのだった。


                     *


 いつの間にか眠っていたらしい。

 日が差していた窓から溢れる光は、もう静かで冷たい月明かりに変わっていた。おそらく泣きつかれて眠ってしまったのだろう。のそりと起き上がって辺りを見回す。疾風もいつの間にかいなくなっていた。

 敷布に座って、腫れぼったい目を擦る。思いっきり泣いたおかげか、心は穏やかに凪いでいた。しばらくぼんやりしていたが、扉の音ではっと顔をあげた。


「疾風?」

「起きてたか」


 そっと扉を開けて入ってきたのは、予想どうり疾風だった。

 疾風は見たことのない羽織に鉢巻を締めていた。燈は首を傾げる。


「その格好、どうしたの?」

「さっきまで、宿屋の仕事を手伝っていたんだ」


 それでやっと、燈はこの場所が宿屋の一室であることを知った。疾風は燈に宿の女将さんからもらったという芋粥を渡した。その粥を少しずつ啜りながら、神苑を抜け出してからこの宿屋の女将さんに助けられるまでの経緯を聞いた。


「私も、女将さんにお礼を言わないといけないわね」


 燈が空の椀を床に置きながらそう言うと、疾風は柔らかく微笑んだ。


「それはとりあえず明日にしよう。まずは、これからどうするかだ」


 燈は少し考えた。本来なら天羽のために次の天子様を決めるのが第一だが、それではふたりの皇子様を仲直りさせられない。そもそも、圧倒的に情報が少ない今、独断で新しい天子様を決めていいものか。


「まずは、助けて頂いたのだから宿屋のお手伝いをしましょう。その間に情報を集めるわ」


 ここが宿屋というのは都合が良かった。人が集まるから沢山の情報を得られるだろう。

「どんな情報を集める?」


 瞳を輝かせて疾風が問う。今にも走り出しそうな様子に、「お手伝いもしながらね」と前置きしてから言った。


「まずは天子様のことかな。どちらの皇子様を次の天子様にするかはもちろん、二人の皇子様を仲直りさせるための方法を考えていたかもしれないもの。……それに、天子様が殺された状況もおかしいというし」


 それも疾風に聞いたことだった。天子様は誰に殺されたのか、どうして抵抗しなかったのか。もう本人に聞くことはできないけれど、それでも燈は知りたかった。


「それから、皇子様とお后様のこと。今の天羽の状況もできる限り知っておきたいわ」


 疾風は燈の言葉にひとつひとつ頷くと、最後にいたずらっぽく微笑んで燈の髪を撫でた。


「分かった。俺も調べる。燈も無理はするなよ」


 とりあえずもう寝ろと言われて、急に眠気がやってきた。疾風が椀を持って部屋を出ようとする。燈はさっきまで寝てたのにと思いながら、その背を呼び止めた。


「どうした?」


 振り返った疾風の優しい表情に息が詰まる。お礼を言おうとして、それでは全然足りないことに気がついた。いつも傍にいてくれて、何度も助けてくれた疾風。一度ありがとうと言うだけではとても足りない。

 結局、燈が口にしたのは全く別のことだった。眠たくて、もう半分以上夢見心地のまま、そっと囁く。


「どうして、疾風は私とずっと一緒にいてくれるの……?」


 疾風は驚いたように目を見開いた。それから燈がそうしたようにそっと教えてくれた。



「ずっと昔、誓ったんだ。何があっても俺が燈を守ってやるって」



 それは何かを悔いるような、酷く切ない声だった。

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