第一話 詠姫

 今日もいい天気になりそうだった。

 開け放った板戸の向こうから、柔らかな朝の光が差し込み、空気をきらきらと輝かせる。


「綺麗……」


 円座わろうだに座していたあかりは立ち上がり、板戸の外へ顔を覗かせながらそっと囁いた。

 ふと、風が吹いた。まだ残暑厳しい季節ながら僅かに秋の匂いを纏った風が、燈の艶やかな黒髪をひと房攫う。

 頭頂で結い上げて簪を差し、残りを長く垂らした髪。綺麗に整えられたそれを崩さないように慎重に押さえた時、後ろから声が聞こえてきた。


「姫様、身支度は整えられましたか?」

疾風はやて


 振り返れば、後ろの障子の隙間から見慣れた黒髪と黒い羽織の裾がちらりと見えた。燈は小さく溜め息をついた。


「もう入っていいわ。……それと、『姫様』はやめてって言ったでしょう? 敬語も」

「ですが……」

「ですがもだってもありません。とりあえず入って来なさい!」


 まだ何か言い募ろうとする疾風を制し、ひとまず燈は彼に中に入るように言った。音もなく入ってきた疾風にぐいっと近づき、彼の黑瞳を覗き込む。


「誰かいる時はともかく、ふたりの時は『燈』って呼んで。せっかく名前があるのに、誰も呼ばないのは可哀想でしょう?」

「可哀想って、お前な……」


 疾風はがくっとうなだれたが燈は怯まない。疾風には名前を呼んで欲しい理由が、ちゃんとあるのだから。


「『詠姫に名前は要らない』……ここで私の名前を呼んでくれる人はいないのだから、せめてこの名前をくれた貴方にはちゃんと名前で呼んで欲しいの」


 燈が詠姫になって早八年。彼女は天羽あまはの首都、瑞希みずきにある「神苑しんえん」と呼ばれる森の中にひっそりと佇む小さな家に住んでいる。「神苑」は宮城にほど近い場所にあるよく手入れされた森だ。神聖な場所であるため、天子様と詠姫を除いては許可を得た者しか入れない。それでも燈は、侍女、庭師、唄や舞の先生など何人かの人と交流してきた。しかし、彼女を名前で呼ぶ人は誰も現れなかった。

 詠姫はただひとり。その上、真幌月まほろづきを鎮める巫女姫であるので、幾つかの祭祀を除いて表舞台には滅多に立たない。そのため、名前を呼ぶ必要性はないとされているのだ。拾われた時、燈に名前が無いのを疾風以外が気に止めなかったくらいに。


「悪かったよ」


 疾風はばつの悪そうな顔で呟いた。


「まだ侍女がいるかと思ったんだ。心配しなくても、俺はずっと燈を名前で呼ぶから」


 疾風がそう言うと、燈は花が綻ぶような笑顔を見せた。

 彼はびくりと背中を震わせると、急にそっぽを向いてぼそぼそ呟いた。


「そ、それより、準備はできたか? 今日は天子様が来るらしいぞ」

「天子様が? 本当?」


 燈は嬉しさで知らず声が弾んだ。天子様はたまにこの場所を訪れては様々な話をしてくれるのだ。忙しい身なのであまり来られないみたいだが、神苑の外の、燈が知らない場所のことを聞くのが何よりも楽しかった。

 わくわくしている燈に対して、疾風は少しげんなりした顔をしていた。


「どうしたの?」


 燈が問うと、疾風は苦笑いの表情を浮かべた。


「あー、あの人、俺には厳しいからさ。まためっためたにされるのかと思うと憂鬱になるんだよ」


 疾風は、天子様に会う度に剣術を教えてもらっている(無理やり作った付き人が『詠姫の護衛である』という言い訳をするためだとか)。天子様はこの国の主でありながら剣術に秀でていた。普段は相手をする人がいないので、疾風とやりあうのが楽しくて仕方がないらしい。

 燈は疾風の言葉を聞いて、くすくすと笑った。


「そう言いながら、疾風だって楽しそうにしているじゃない」


 燈は数度、疾風と天子様の稽古を見させてもらっている。その時は、普段笑顔を絶やさない疾風の真剣な表情に驚いたものだった。

 疾風はまあな、と言って薄く笑った。


「強くなれるのは嬉しいからな。……ボロ雑巾みたいにされるのは嫌だけど」


 まだ馬に乗る方がいいなと言った疾風に、燈は目を見開いた。


「疾風、馬に乗ったことあるの?」

「あれ、言ってなかったか」


 疾風は少し拍子抜けしたような顔をした。


「一応、馬に乗れた方がいいだろうって何度か連れ出されたんだよ。お城の周りをちょっと走っただけだけど」

「神苑の外に出たの?!」


 今度こそ燈は仰天した。燈は詠姫なので、神苑の外に出たことがほとんどない。偶に宮城の祭祀舞台に行くこともあるが、輦車てぐるまでの移動で、ほとんど外は見れなかったのだ。


「いいなあ。私も外に出てみたい」


 宮城の周りとはいえ、神苑の外に出たというのはとても羨ましかった。普段天子様の話でしか外の様子を知らないので尚更である。

 疾風はにっと笑った。


「いつか乗せてやるよ。ほら、詠姫の就任期間が終わった時とか」


 詠姫は若い娘しかなることができない。正確には十六歳になるまでが就任期間だ。十六になった時、天羽の中心に位置する依月山いづきやまの神域で舞う「終演の儀」を行い、詠姫の任期は終了する。

 燈はこの春十五になった。任期満了まであと一年だ。

 急に一年後が楽しみになった。乗ったことのない馬に乗って、見たことのない場所に行けるなんてとてもわくわくする。


「約束よ? 馬に乗って色々な場所に行きましょう? 城の周りだけじゃなくて」


 念を押すように繰り返し言う燈の頭を、疾風がぽんぽんと撫でた。とても優しい表情で。


「ああ、約束だ。天子様に教えてもらったところも、まだ知らない場所も全部行こう」


 燈はあまりの幸福感に心が浮き足立つのを感じた。

 疾風も嬉しそうに顔を綻ばせていたが、急にぽんっと手を打った。


「それから、燈は詠姫の任期が終わったら、もっと明るい色の衣を着るといいな」

「明るい色の?」


 燈は突然の言葉に一瞬きょとんとした。疾風はいたずらっぽい表情で微笑んだ。


「今は詠姫の衣装だから仕方ないけど、お前もそっちの方が好きなんだろう?」


 言われて、燈は表着うわぎの袖を伸ばしてみた。その色は紺桔梗こんききょうはかまから帯に至るまで古い意匠のしっとりと深い色で統一されている。唯一、腕に纏った領巾ひれだけが淡く透けるような白藍しらあいの薄絹。

 詠姫は夜見の姫。日向の主として国を支える天子様とは対で、真幌月に祈りを捧げて影から天羽を支える役割を担う。そういう意味があるので、詠姫は舞姫であるにも関わらず闇色の衣が多いのだ。

 でも、確かに燈は明るい色の方が好きだった。小物として朱の簪を毎日のようにつけているくらいには。

 疾風もその簪を見て言ったのかと思ったが、どうやら違ったらしい。彼の艶やかな黑瞳が見つめていたのは燈の瞳だった。


「その不思議な色の瞳にも、明るい色の方が似合いそうだしな」


 燈の瞳も基本的には真っ黒だが、光の加減によって紅く発色する。多分今も紅い色が見えているのだろう。何だかじっと見られているのが恥ずかしくて、燈はぷいっと視線を逸らした。


「そうね。それも来年の楽しみにしとくわ」


 視線を逸らした先に、神苑を歩いてくる天子様の姿が見えた。燈の口元に淡い微笑みが浮かぶ。


「天子様が来たわ。お迎えしましょう」


 そして、燈は疾風とともに、天子様をお迎えするために玄関に出た。


 ――部屋を出る時、ほんの少し夏の名残の香りがした。だが、すぐに秋風に攫われていった。

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