マリウス・チューブ 月は無邪気な夜明けの王女

蔵持宗司

プロローグ Selenological and Engineering Explorer


 彼女は闇の中に浮かんでいた。

 はてしなく暗い、真空の世界。しかし星々の輝きと、何にもまして力強い光を放つ大いなる存在があるために、彼女は孤独と恐れを知らなかった。彼女には使命があった。遥か遠き生まれ故郷から送り出され、暗闇の世界にまでやってきた理由があった。

 彼女の使命は、「知る」ことだ。

 眼下に広がる白き大地。光によって乳白色とも灰色ともとれる、斜長石と玄武岩からなる、生命なき世界。彼女はその大地とつかず離れず、一定の距離を保ちながら浮遊し、そして巡っていく。大地に対して徐々に横滑りし、いつしか一巡する。それを何度も繰り返す。何度も、何度も。その間、彼女は片時も大地から目を離さない。

 白き大地を隈なく、一つの漏らしもなく眺め尽くすこと。それが彼女の使命だ。遥かなる故郷にもはや帰るすべはなく、だからこそ彼女は与えられた任務に全力を尽くす。

 ふと、彼女の高精度な「瞳」が何かを捉えた。

 どうやらそれは、大地に空いた大きな縦穴のようだ。白き大地には数え切れないほどの起伏があるが、中にはこうした穴が地形に生まれている事もある。

 彼女は考えることができるが、思うことはできない。故郷の父親たちの言葉なしに、自らの行動を変えるようなことはしない。そして、今は故郷の父親たちからの言葉はなかった。だから彼女は穴を気にせず、いつも通りに「歌」を歌った。

 彼女は使命を果たすために、父親たちからいくつものプレゼントを貰っている。

 「瞳」も、そして二つの「歌」も、そのプレゼントの一部だ。

 空気を震わせることができない暗闇の世界では、音は生まれない。しかし彼女の「歌」は目に見えない波を使って、白き大地をより詳しく知ることができる。また、まっすぐに伸びる「歌」を使えば、白き大地の起伏、高さを知ることができる。

 「歌」によれば、穴の下には穴よりも大きな空洞があるらしかった。故郷のどんな街よりも大きい、長大な横穴が。そんなものを彼女が見つけたのは初めてのことだった。けれど、彼女の使命は知ることであって、考えることではない。それは故郷の父親たちや、その仲間たちがやるべきことだ。

 今いるのは、白き大地の表側だ。裏側ならば彼女の小さな同僚――あるいは兄妹、あるいは子供たち――の力を借りることになるが、今はその必要もない。急ぐこともなく、彼女は時間通りに故郷の父親たちへ向かって集めた知識を送った。

 彼女は長い間ずっと、白き大地を眺めていた。青き故郷はここからでも見ることはできるはずだが、最初に到着してから一度だけ見ることを許されたものの、それからはずっと使命のために白き大地を眺め続け、知り続けていた。そして時が来れば、彼女は自ら白き大地へと身を投じ、役目を終える。

 それを不幸だとも、苦しいとも思わない。彼女は思うことを知らないのだし、彼女はそのために生まれたからだ。使命を果たすこと。それ以外に彼女が望むことなどない。

 けれど、もしも。

 彼女が使命を果たすことで、何か意味を残すことができたなら。彼女が「知り」、そして父親たちが「考える」ことが、この白き大地に新たな世界を築く始まりとなったなら。

 そんなに素晴らしいことは、ないだろう。

 彼女に思うことはできない。だからそれは、父親たちの誰かが言った言葉を、いつの間にか覚えていただけの感慨なのかもしれない。それでも構わない。彼女にできることは、与えられた使命をこれ以上なく完璧に果たしてみせること。その結果がどうなるかは、故郷の父親たちに委ねることにしよう。

 彼女は白き大地を眺める。故郷の青き大地に背を向けて。

 「知る」ために生まれた者の誇りを持って、彼女は任務に全力を尽くす。

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