烏丸怪談

萩尾みこり

水底の葬列

 先頭を行くのはひしゃげた顔の人間だった。

 彼の頭からは竿が伸びていた。その先には提灯が吊り下げられている。

 彼のあとに続く人間は皆死んだような目をぎょろぎょろと宙に泳がせていた。

 やたら目の大きな男が着物は黒地に深い青の青海波模様。

 提灯を手に歩く娘の足元からはぴちょんぴちょんと――人の足音とは異なる音がする。

 顔をあげた老女の顔はどことなく蛙に似ていた。



 海釣りをしていた、はずだった。

 小説の続きがどうにも書けないから気分を変えてくる。などと言い捨て、下宿先を飛び出てきたことは覚えている。その際、酒盛りをしていた同好の士どもがへべれけな返事だけしてきやがったことに腹をたてたことも。

 そうだ、こういうときには趣味に没頭するに限る。数日前から玄関先に放置していた釣り竿を背負い、誰のかわからぬ自転車を駆り、下り坂の先にある海を目指した。文士烏丸、風になる――もし、万が一自叙伝を書く気になったとしたら、だ。このような題名にしてみるのも良いだろう……などと思ってしまった事実は墓場まで持っていってやる。あまりにも阿呆らしいし、そもそもおれは自叙伝など書くような輩ではない。

 そうしていつの間にやら海に着いていた。

 海は広い、そして大きい。それは物理的なものでもあり、精神的なものでもあるのだ。文士烏丸、夜風にふかれしみじみと思う――これも自叙伝の題名としていいかもしれない。まあ、何にせよそのような感情は墓場まで持っていく予定だ。今ここで海に流してしまってもいいだろう……いやいや、おれはいつからこんな阿呆な事を言い出すようになったのだ。さっき書くような輩ではないと思ったろうに。

 桟橋の上から釣り糸を垂らした。頭上でガス灯の頼りない明かりが揺れている。おのれ外灯、ポンコツとはいえ光源ならば魚をおびき寄せてくれてもいいだろうが。舌打ちし、上方の光に惹かれた蛾の群れを手で払う。

 そんな事をしていたものだから、水面の異変になど気づけなかったのだ。そうだ、これは言い訳だ。

 慌てて異変の元へ目を向けると、複数の黒い腕が釣り糸に群がっているではないか。ぐいぐい、ぐいぐい。それらはどうやらこの文士烏丸を海へと引き込もうとしているようだ。ちくしょう、到底人のものとは思えぬ力だ。ああ、もう。両足で踏ん張り釣り竿を必死に引いていると言うのに、じりじりと水底へと引き摺られているではないか! こんなものに力で敵うわけがない!

 仕方がない。買った時の金がもったいないが、この釣り竿は手放すしかないだろう。さらばおれの一円。そう決心し力を緩めたその時だった。後ろから衝撃を感じて目の前が暗転したのは。その感覚は、そう、言うなれば――後ろから突き飛ばされたような。



 気づけば、目の前には水に棲む生き物に似た『なにか』の行列。

 全員が喪服のような衣服を纏っており、ぎょろりとした目は一点を見つめているように、見えた。

 白昼夢だろうか。

 それにしても奇怪なものだ。

 水面から伸ばされた手に引きずり込まれた挙げ句に、化物の行進を見てしまうとは。


 頭上を何かが横切ったような気がして顔を上げる。

 巨大な影がゆらゆらと揺れていた。鯨の腹のように思える。

 それにしては何かがおかしい。鯨の腹に黒い穴など開いているのか?

 影が揺れる。ひくひくと震えだす穴からは、ずるりと人の形をとった影が――落ちてきた。底に叩きつけられぴくぴくと動き、手が肥大する――正確には手のようなひらひらとした器官なのだろう。額であろう場所からは二本の角が生え、水に棲む『なにか』の姿へと変容していく。それも、一匹や二匹ではない。

 思わず口を開くが悲鳴は出ない。ぼこぼこと口からあふれる気泡は、まるで声のようだ!


 ――気泡?

 この光景は水底での出来事だと言うのか?

 海辺で釣りをしていただけだというのに、なぜか水底の葬列――のようなものに立ち会うことになろうとは。白昼夢だの夢だの、そういう類は実に奇抜なものだ。正直自分が書いている小説よりも、である。無意識で見るものよりも劣っているおれの小説は一体なんなんだ。はあ。ついたはずのため息は、案の定気泡になり消えた。



 文士の好奇心とはある意味では異常なものだ。我ながらそう思う。

 だからこうして異形の行き先を追う。ここにおれ以外に同士がいたとしたら止められていたかもしれないが、とは思う。ただ幸いなことに、一人だ。

 列をなす異形の表情は一切読めないし、どうやらこちらのことを見てすらいないようだ。思い切って近づいてみても奴らは誰ひとりとして反応しやしない。それもそうか。これは葬列だ。祭礼の最中にがやとも言える文士にかまう阿呆などいるわけがない。

 先頭を行く提灯持ちのすぐ後ろだ、目が白く顔も手も鱗に覆われた女が位牌を持って続いている。しかし彼らは何を弔おうとしているのか。順当に考えるなら仲間である『なにか』といったところか。それ以外のものの可能性もあるかもしれない。例えば、神の類。

 とはいえどもあの海に――自分のような文士どもが気晴らしに釣りをしたり桟橋で愚痴を言い合うような海にそのような高貴な存在などいるのだろうか?


 異形の視線の先、そして自身の視線の先。

 やけにひらけた地があった。頭上でほのかな光がゆらめき、ぷかりぷかりと泳ぐ海月がそれを反射している。まるで灯篭流しの灯りのようだ。癒やされる。


「迷い込んでしまわれたか」


 声がする。

 したしたと足音が響く。

 それを追うように鈴の音が鳴る。

 穏やかな光に照らされる空間に、何者か姿を見せる。


 気づけば、葬列に並ぶ異形たちが皆一歩引き下がり深々と礼をしているではないか!

 まるで、その人物に敬意を払っているかのようだ。


 先程考えていた仮説があたっていたのだろうか。まさか、なあ?


「此処は生者の領域に非ず」


 水底に再び声が響く。

 よくよく聞いてみれば、とても透き通る声だ。美しい声だ。そう、おれの知っている言葉で表すならば、穏やかなる水のような、母なる海のような――。


「同胞が貴殿に戯(じゃ)れついて引き込んでしまった件については謝罪しよう」


 こちらに差し出された手は人間に酷似している。

 童子(こども)の手だ。

 握手でもすればいいのだろうか。恐る恐る握り返す。

 投げかけられた彼の笑顔は、とても穏やかなもの。


「貴殿はそもそも逝きたいがために我が元に訪れたわけではないのであろう」


 その御守と同じ色。

 彼の双眸は揺らめいていた。

 波打ち際のさざなみのように。

 光の射す水中のように。

 深い深い、海底のように。


「此方だ。此方の道をゆけば貴殿の領域へ帰ることができよう」


 文士烏丸、いくら阿呆でも彼が何なのかわかる。

 海に棲む異形が敬意をはらう者。

 この海に宿る者なのだと。


 神様、なのだと。



 目が覚める。

 鳥の囀りが遠くから聞こえる。見慣れた天井が目に飛び込んできた。それから、心配しているような馬鹿にしているような表情をした同士ども。

 聞けばどうやらこの文士烏丸、桟橋で眠りこけていたようだ。海に落ちる寸前で偶然釣り人に発見され、この下宿先へそのまま運び込まれたのだとか。九死に一生。

 それから同好の士どもによれば、自分は発見されてから今起きるまでずっと何かを握ったままだったとのこと。器用なもんだなあと、呆れたような感心されたような声が投げかけられる。うるせえ、などとまずは悪態をついておこうか。


 特に何事もなく昼が来る。ばたばた、ばたばたとやかましい。勢いよく襖を開け部屋の外を見れば、同士が年甲斐もなく羽目を外していたようだ。奴らが言うに、この間作ろうと盛り上がった結果の産物ことかわら版が刷り上がったらしい。それはこのおれでも羽目を外す。仕方ない。

 一冊渡されたので、ぺらりぺらりと頁をめくってみた。おれの書いた文はとても素晴らしい。仲間の文は……まあ、普通だ。この面子の中ではおれが一番素晴らしい文を書くのだから必然だ。ふふん、と鼻を鳴らす。

 そう言えば絵に長けていた奴が挿絵を描いたとかぬかしていたような。

 そう思い、頁をめくった。


 水底を歩く異形と童子姿(こどもすがた)の神を描いた絵。

 そういえば眠っている間、鮮やかな夢を見ていたのだ。

 その、夢の中で見たような光景だ――そう思ったと同時に、風が吹く。


「貴殿の、末永き息災を祈る」


 囁くような声と、潮の匂いが届いたような――気がした。

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