第9話 卵が先か鶏が先かと問われたら雛が先なんじゃないかと思う

 視界を覆うほど生い茂る草木に囲まれながら、道なき道を歩く。

 獣道ですらないただの藪の中は、歩くだけでも困難を極める。

 小学三年生という子供の体格では、こんな藪でも前が見えづらくなるほどの高さになる。


「うああん、うああん」


 俺に手を引かれながら後ろを歩く莉奈は、ずっと泣き続けている。

 慰めるにも体力がいる、という事を今回思い知った俺は、もう泣いている莉奈に対してリアクションを取る余裕がなくなっていた。


 遠足の日。俺と莉奈は、集団から置いていかれて、遭難しかけた。

 標高三百メートルにも満たない、地元の人のハイキングコースとしても有名な、そんな小さな山で。

 俺を含めてクラスでも登ったことがある人の多い山で、まさか遭難者が出るなんて誰も思わなかった。

 しかし、実際に俺たちはこうして登山道を外れて現在地もわからないまま歩いている。


 この時間に「来た」時、俺は中腹にあるトイレの中にいた。この時、少し腹の調子が悪かったせいでトイレの中にかなり長く居てしまっていた。

 この年頃の男子は個室に入る事そのものに抵抗感が強いので、トイレに入るだけでもかなりの時間を費やしていた記憶がある。上手に人気のないタイミングを計り、中でも出来るだけ音を立てないように注意したりと、本来の意図以外の所でやけに時間がかかってしまったのだった。

 今にして思えばどうでも良いこだわりなのだけど、当時は男子のメンツとしてかなり重要な事だったのだ。


 そんな事を懐かしく思いながら手を洗って外に出ると、呆然と立ち尽くす莉奈だけがそこにいた。

 後で知った事だが、引率の先生が人数確認を誤って先に出てしまっていたそうだ。

 クラスの連中も呑気なもので、先生が全員いるというのだからどこかにいるのだろうと勝手に思い込んで何も言わなかったらしい。


 慌てた莉奈が近道をしようと藪の中に入っていき、案の定道に迷ってしまった。

 小さな山でも、木々に囲まれて空もろくに見えない状況では、遠くまで見渡すことも出来ない。

 この年齢だと体も小さいので、足下に生えている木々の高さも意外と馬鹿に出来ない。

 かき分けて進むだけでも大変だし、足下も不安定でなかなか思うように進まない。実際、莉奈も俺も何度か転んで擦り傷を作ったりしている。

 高い方に登ればいいんだよ、と最初は莉奈が気楽に言っていたが、実際の山がそんな綺麗な円錐形をしている訳ではないので、斜面は常にうねり、上がったり下がったりして安定しない。今自分が山頂に向かっているのかどうかも既にわからなくなっている。


 登山道から離れて数分もしないうちに現在地がわからなくなり、もはや元来た道すら見失い、二人でパニックに陥って泣きながら延々と歩き続けた。

 ……というのが俺の当時の記憶だ。

 もちろん今の俺は、当時ほどパニックに陥る事もなく、泣きじゃくる莉奈を引っ張りながら先導する程度の精神的な余裕がある。

 残念ながら体力は当時のままなので、それほど余裕がない。


「死んじゃったらどうしようーうああーん」

「死なないって」

「でもぉーこのまま出られなかったらあー」

「絶対追いつくって」


 少なくともここでは二人とも死なない、という事だけは間違いない。理由は言ったところでどうしようもないから黙っているが。

 十年近く前の記憶なので、それほど記憶は鮮明ではないけれど、何となく歩いた方向は覚えている。この後にも何度か足を運んだことがあるので、当時よりはよほど土地勘が働くはずだ。


「しっかし歩きにくいな……気をつけろよ」

「うあああーん」

「聞いてないな……」


 藪をかき分けながら、出来るだけ莉奈が歩けるように道を作りつつ進む。移動速度は下がるが、滑ったり転んだりすると余計にロスが出るので、地道に進んだ方が結果的に速くなる。

 道に戻る事を優先するためにあまり上を目指さず、斜面を横切るような形で進んでいるのだが、それでもなかなか道に戻れない。最初に突っ走った莉奈の方向がよほど明後日の方向だったのかもしれない。


「もう少し東へ進まないと道に出られませんよ」

「お前知ってたんなら早く言えよ!」

「知ってらしたのかと思いまして」

「知ってたら今こうして歩いてないよね」

「ですので口添えさせて頂きました」


 今回に限ってはありがたい助言だ。

 一つの問題点を除いては。


「何か問題がありましたか」

「俺たちに方角を知る術がない」

「おおよそ太陽の昇る方角へ進めばよろしいかと」

「この空も見えないような状況でか?」


 高い木々に空が覆われて、光はほとんど差してこない。

 現在地がわからない理由の一つであり、俺たちが不安がっている理由の一つでもある。

 知っていてわざとそんな言い方をしてきたんじゃなかろうかと思ったが、彼女にはそこまで気を利かせる事は出来ないはずだ。相対的な進路表現では正確な指示が出来ないと判断して方位を使ったのだと思う。

 理性ではそう理解出来るのだけど、感情はそこまで融通が利かない。

 後ろで止まらなくなった莉奈の嗚咽を聞きながら、この女神の態度にもかなり苛ついていた。


「道見えないようー」

「少し休憩される事をお勧めします。心拍数や発汗量が通常と比べて」

「わかってるよ! うるさいな!」


 うっかり声に出してしまった。

 しかもかなり大声で。

 間の悪いことに、莉奈の発言の直後に叫んでしまったために、莉奈が驚いてまた泣き出してしまった。

 今までに聞いたことの無いような激しい泣き方だった。

 そういえば、当時は二人の泣き声のおかげで先生に見つけてもらえた事を思い出した。

 ……いや、だからといって莉奈をこのまま泣き続けさせるわけにもいかない。


「わ、悪かったよ。ついイライラしちゃったんだ。少し休もうな」

「う……ッく、お、怒って、ッっく、ない?」

「ないよ。ほら、麦茶」

「ありが、ッく」

「落ち着いて飲めって。まだ沢山あるから」


 しゃっくりのせいで上手く飲めずにこぼしているものの、それでも何とか水筒の蓋の中の麦茶を飲み干して少し落ち着いたようだ。

 会いからわずしゃっくりは続いているものの、声を出して泣くような事はなくなった。

 水筒から麦茶をもう一杯出して莉奈に与え、少し周りを見渡してみる。

 相変わらず視界は悪く、道も見えてこないけれど、女神の言う東方面は若干登り調子になっているようだ。山頂に向かう方角なのかもしれない。

 空になった蓋に少しだけ麦茶を入れて口に含み、ゆっくりと喉へ流した。

 呼吸も幾分落ち着いて、先ほどまでのイライラも大分解消された気がする。


 とにかく、莉奈を無事に戻してやらなければならない。

 あまり時間がかかると先生達も気がついて大騒ぎになってしまうかもしれないし、出来れば山頂に着く前に合流したい。

 当時は迷ったあげく二人の泣き声を聞いた先生に見つけて貰って何とかなったけれど、今回は移動ルートも違うのでそんなうまく話が進むとも思えない。


「悩んでてもしょうがないか……」

「どうしたの?」

「なんでもない。歩いても大丈夫か?」

「うん、麦茶ありがと」

「なくなったら莉奈のもらうからな」

「うん!」


 莉奈の手を引き、移動を再開した。

 藪をかき分けるのに片手では難しいが、手を離した事で転んだり見失ったりする方がよほど怖い。いくら未来で無事に合流出来ている事がわかっているとはいえ、その経過については全くわからないし、これまでも俺の記憶とは違う展開を迎えているのだから、油断は出来ない。


「大丈夫か。疲れてるだろうが……」

「りなの顔になにかついてる?」

「え? どうして?」

「さっきから何回も顔を見るから……恥ずかしいよ……」

「わ、悪い」


 さっきまでと違って莉奈が泣きながら歩かなくなったので、静かになった反面、状況がわからなくなってしまった。

 普段はあまり自分から具合が悪いとか疲れたとか言い出さないので、俺の方からよく見てやらないと無理をしそうな気がして、つい何度も振り返っていた。

 そんな俺の心配をよそに、全く関係ない理由で恥ずかしがって目を逸らす莉奈のなんと可愛いことよ。

 この短時間で十年近く過去を遡って莉奈を見ているけれど、どの時代でも可愛い。ずっと自分よりオトナだと思って見ていたのだけど、こうして見てみれば、無理に背伸びをしている事もなく、年相応に可愛いと思う。

 要するに俺がどれだけガキだったのかという事だな。この頃は莉奈のことを女子という認識もほとんどしていなかったし、こうして手を繋ぐことも何とも思っていなかった。

 当時そうしていたので手を繋いでいるが、実は内心ドキドキしてばかりいた。温かい掌から、自分の緊張や考えている事が伝わってしまわないか、なんて事まで考えながらも平静を装っていた。

 不安や緊張は伝わりやすいし、今はとにかく安心させたかったので、違和感を覚えさせないように必死である。

 いくつになっても中身はこんなもんであり、莉奈が言うほど大人でもなんでもない。


 そういえば、迷っている途中で当時はペプシを拾ったんだったなあ。

 捨てられていたのか、迷っていたのかはわからないけれど、生後数ヶ月の子猫が藪で弱っていたのを莉奈が見つけてそのまま連れてきたのだった。

 クラスの奴らと合流した後、俺たちが置いて行かれた事も、遭難しかけた事も全てこの子猫が話題をさらっていってしまったのであまり追求されることがなかったのは、ちょっと助かったのを覚えている。


 今まで遡ってきた過去の話でペプシは存在していたので、この移動ルートでもペプシを拾うことは出来るのだろうと思っている。会話の中でも遠足のおかげでペプシを拾ったという点に修正がされなかったので間違いないだろう。

 他の人たちとの合流も大事だが、ペプシ探しもある程度視野に入れつつ歩いた方が良いという事か。当時とは移動ルートがかなり変化してしまっているので注意しなければならない


「過去に起こった事を守るっていうか、俺がその過去の事例を実現させているみたいになってないか」

「結果としてそうなっているだけで、それを強要するものではありませんが」


 これまで何度となく繰り返した過去への遡上の中で生じた疑問を女神の奴にぶつけてみる。


「卵が先か鶏が先かみたいな話なんだろうけどな」

「大抵の事はご自身の死で収束する事になっているので、あまり気になさらなくてもよろしいかと」

「逆に言えば、ここで無茶して俺たち二人が本格的に遭難しても何とかなっちまうんだろうか」

「先ほどの話と矛盾するかもしれませんが、おそらくは貴方が自発的にそういう事をしない事を前提としてこの時間移動は成立していると思われます」

「俺が今ここで無茶をしないからこそ、過去の俺は無茶をしていない、という事象が固定されているというわけか」

「すでにこの時間よりも未来で言われていた事、莉奈さんの記憶についての改竄は出来ませんから、それもまた固定されていると思って頂ければよいかと」

「なんでだ? 俺の記憶と食い違ってる段階で、あれは一度改竄出来てるんじゃないか?」

「同じ時間に移動する事が出来ませんから、その変化を観測する事が出来ません。観測する事が出来ない以上、変化は起こらないという事になります」

「……なんだかよくわからなくなってきた」

「とにかく私達は貴方に心残りをなくして頂きたいだけですので、あまり気にしないで構わないと思いますが」


 確かに考えた所で答えが出るわけもないのでこれ以上考えるのはやめよう。

 現状の問題点は本隊へどうやって合流するか、とペプシをどう見つけるかの二点であり、その点だけを考えて行動した方がいい。

 その上で今までの話を踏まえれば、合流はさておいてペプシを探しに回った方が良いのかもしれない。恐らくは探すという意思が働いた段階で結果が自動的に追随してくるような気がするのだけど……。


「ねえ、しゅうちゃん、何か聞こえない?」

「なんだ?」

「猫……?」


 おいでなすった。


「どこかに猫がいる?」

「うん……こんな所にいるのって変だけど……」

「莉奈が聞こえたっていうんなら、きっといるんだよ。そいつも腹を空かしてるかもしれないから探してみようぜ」

「う、うん!」


 現在地を見失わないように木に目印を付けて、周囲の足下を探っていく。

 猫の鳴き声は時折聞こえてくるものの、か細い声は周囲の虫の声にかき消されがちで、場所の特定にはなかなか繋がらない。


「猫ちゃーん、どこー?」

「こっちもいないぞー」

「こっちかなー?」

「……気のせいなのかな……」

「いや、いる。何度も聞こえてるんだから、きっと助けを呼んでるんだ。探そう」


 ペプシを拾うことが確定した事象ならば確実にここにいる。理由は言えないが自信を持って答えることで莉奈も安心して捜索を再開した。小さくて真っ黒な猫が、この薄暗い中の更に暗い物陰に居たら、見つけ出すのは容易な事ではない。

 消え入りそうな声を頼りに方向を定め、屈んだ姿勢で藪を分け入る。あまり乱暴に移動するとペプシが驚いて逃げてしまうので、加減しながら進むとこちらの行動に反応したような声がした。

 ゆっくりと声の方向へ進むと、小さな黒い塊が木の根の隙間に詰まっていた。


「いた……!」


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