⑥ 約束

 

 友人というほどでもなく、知り合いというわけでもない。ましてや、恋人なんてほど遠い。


 私たちは長い間、ずっとそんな関係を保ち続けていた。

 初めて会った中学二年生の夏から高校、大学と、同じ学校に通った。


 とても心地のいい距離感だった。上辺をなぞるような関係と、生産性のない会話を繰り変えすだけの日々。何も積み上げない。何も目指さない。


 私と在原の価値観は、これでもかというほど噛み合わなかった。

 音楽の話題も、本の趣味も、映画の感想も。


 話せば話すほどに、外国人と会話しているような気分にさせられた。或いは、異星人と会話しているという方が適切かもしれない。


 それでも、私たちは定期的に会い続けた。一年三百六十五日、少しでも暇があれば二人で会った。そうして、あらゆる方法で時間を潰した。


 在原との付き合いは六年ほどになるが、それまでの間、彼は私と交わした約束一度として破ることは無かった。待ち合わせの場所に行けば、いつも十分前に彼はいる。台風が来ようが、街が洪水に呑まれようが、彼は待ち合わせの時間を守る。……一度は、それで大変な目に遭ったこともある。


 変なところで律儀というか、不器用で非常識な奴なのである。在原 悠という人間は。

 そして、在原のそういうところを好きになってしまう私も、不器用で非常識な人間なのだった。


 あんなにも長い間ずっと一緒にいたのに、こんなにも近い場所にいたのに、最終的に私は在原という人間のことをよく理解できなかった。在原もきっと、私をそのように見ていたと思う。


 そんな私たちが、たった一つだけ。

 きちんと共有できた価値観があるとすれば――それは、孤独だ。


 私はあらゆる人間関係を蔑ろにすることで、在原は家族という関係を真摯に守り続けることによって、極めて近しい結論に達していた。


 即ち、人間とは孤独であるということ。


 漫画や小説のテーマに登場する他人の価値観でなく、私たちは、私たちの視界が捉えた現実の延長線として、そのことを理解していた。


「どうやら俺の一族は、現実逃避が得意らしい」


 在原が、唐突にそう言った。

 あれは高校最後の文化祭、ぼんやりと夜になる瞬間を屋上で待っていた時のことだった。

 どうしてそんなことをしていたかはまるで思い出せないが、藍と橙の交差する空の美しさと、在原の空虚な語り口は、昨日の出来事のように思い出せる。


 母親が若年性アルツハイマーに罹っているのだと彼は語った。


「もう随分前から、俺のことが分からなくなっているんだ。どころか、自分が誰かも分からなくなっている。つい昨日は、と思い込んでいたんだ。……笑わせるよな、親父はもう十年も前に自殺しているっていうのに」


 在原は淡々と事実だけを並べていた。民営放送のニュース番組でも見ているような気分にさせられた。

 日本のどこかで起きている、ごくごく普通の出来事のように聞こえた――という感想しか持てなかったといえば、私がどれだけ他人に無頓着であるか分かるだろう。


「頼れる親戚なんていない。絶縁状態だからな。親父が自殺した時のごたごたで、そういう連中とはすっかり縁が切れちまったらしい。……唯一俺のお婆さん、つまりお母さんの母親は、生きているらしいんだが……旅に出るといったきり、もう二十年も戻っていないらしい。今ではどこで何をしているやら、だ」


 在原にしては、珍しく饒舌だった。そのせいか、何度も喉を撫でていた。

 そうしなければ自分が喋っているということを認識できなかったのだろう。


「俺は時々、自分以外の家族が時折、無性に羨ましくなる。彼らのように自分勝手に現実逃避して、ここじゃないどこか遠くに行ってしまえたら」


 太陽の微かな光が、在原の横顔を照らす。

 夕日はもう、落ちてくる藍色の押しつぶされていた。

 

 彼がこういう自然の美しさに晒されるとき、私は必ず虚像を見ている感覚に陥った。まるで無言の内に、自分自身を見せつけられている気分になる。


「ふふっ」


 その正体を不意に理解して、私は笑ってしまった。

 可笑しかった。


 在原は、答えなんか求めていないのだ。

 にも拘わらず、私にこんな話をしている。それが滑稽でなくて一体なんだろう。


 私がそうであるように、在原もまた、私の中に虚像を見いだしている。だからこそこれは会話じゃなくて、問いかけすらでなく、ただの確認だった。


 自分が孤独であると認識する行為に過ぎない。

 何故なら、孤独とは自由だからだ。


 そして自由こそが、彼の求める唯一の答えだったからだ。

 私という虚像に映った自由が、彼の求めていた答えかどうかは、別にして。


 だから私は、自らの役割を自覚した上で、その役割を放棄した。

 虚像ではなく、現実の会話を持ちかけた。


「いつか、私がみんな殺してあげようか? 在原もお母さんも」


 在原は、ゆっくりと顔を上げて私を見た。

 無表情だけど、驚いていた。私にはそれが分かる。

 しきりに喉をさする手が、ぴったりと止まっているから。


 可愛いと思った。在原の驚く表情なんて、貴重だ。

 そういう感情、在原にもあるんだ。


 私がそう自覚すると同時に、彼もそのことに気が付いたようだった。

 そしてゆっくりと、頬を釣り上げる。


「………くっくっくっく」


 最初はそんな風に笑いを堪えてたけれど、すぐに我慢の限界を迎えたようで、すぐに大声で笑い始めた。


 釣られて私も笑ってしまった。なんでだろう。あの時の高揚感を、私は未だに言葉にできない。だけどそれは、重要な事ではなかった。


 その瞬間、私たちは確かに通じ合っていた。

 それだけが、重要な事だった。


「なら俺も、いつかお前を殺してやろう。だ」


 在原が無邪気な笑顔を浮かべた。

 それが、とても嬉しかった。




 その日以来、在原は以前よりも笑うことが多くなった。

 不謹慎なジョークも、それ以上に多くなった。


 そんな在原とのやり取りを楽しんでいなかったと言えば嘘になる――否。


 この期に及んでそんな言い方はやめよう。

 言葉を濁すのはやめよう。


 核心に触れ、現実と向き合う。


 正直に言おう。


 私は、在原に殺してほしかった。

 そして在原も、私に殺されたがっていてほしいと思っていた。

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