第三章

先つ祖へ返る者 壱

 皇都おうとの郊外にある久母山くもやまは、丘陵きゅうりょうと言っても差しつかえのない、小さな山である。その名の通りに昔から蜘蛛くもが多く出る地で、この山を越えて地方へ向かうときには肌を出さぬようにせねば蜘蛛の噛み跡だらけになり、髪は白髪しらがの如く蜘蛛の巣だらけになる、と冗談めかして噂されるほどであった。それ故にこの山を避けて通る者が多く、それがまた蜘蛛や他の生き物たちの勢いを盛んにする理由となっていた。だがそれも真冬にあっては、多くの生き物が息を潜めて眠りに沈んだり、寒さにその生涯しょうがいを閉じたりして、静かさに拍車はくしゃがかかっている。それはさておき、普段は極めて長閑のどか久母山くもやまで、後に語り草となる騒動が今まさに起きようとしていた。

 晴雪せいせつの、美しい朝だった。柔らかな雪で枝葉えだはを餅のようにこんもりとさせた常葉ときわの木々が、朝日を浴びてまぶしい。銀砂ぎんさいたようにきらきらと輝いている地面には、夜に徘徊はいかいする生き物の小さな足跡が綺麗に残っているが、今は何の気配もない。きりりと冷えた空気に水の匂いが混じる久母山くもやまは、つねごとく穏やかな風景をたたえている。

 そこへ突如、空気を激しく震わす轟音ごうおんが響き渡った。寝起きの鳥が泡を食って警戒の声を発しつつ一斉いっせいに空へと飛び立ち、粉雪がきらきらと舞う。まるで大きな何かが、硬い壁を打ち破るような音であった。続いて、山頂付近から騒々しい気配が斜面しゃめんを下ってくる。鋭く短い叫びをあげながら跳ねるように駆け下りてくるのは、年若い三人の人間である。足首の上まで積もっている雪に何度も足をとられながら、息急いきせって先頭を走るのは、謌寮うたのつかさ謌生うたのしょう大叢おおむら日和はるたかである。

「ぜ、全ッ然、話がっ、違う! 二人とも、いる!?」

 あまりの悪路あくろに振り返ることが出来ないまま、声を張って後方に安否あんぴを問えば、高鞍たかくら鴉近あこんが返事の代わりに短く悪態あくたいを吐くのが聞こえる。そしてもう一人、息をはずませながら元気にこたえる者がある。

「ははっ、日和はるたか殿、走るのが早くていらっしゃる!」

 無邪気な幼子のように笑う同輩どうはい謌生うたのしょう紅緒べにおの誉め言葉を背中に受けた日和は、絶対に今言うことじゃない、と恐慌きょうこう状態の脳の隅のほうで考えたが、すぐに頭上から降りかかる枝雪えだゆきを顔から払うことに気を取られる。背後からは、巨大な何かが雪をかき分けながら疾走しっそうする、低くくぐもった地鳴りのような音が途絶えることなく追いかけてきており、その不穏な響きが徐々じょじょに近くなっているのは気のせいではない。

「このままでは……っ」

 追いつかれるという言葉を吐き出す白い息ごとつぶした鴉近あこんが、ほとんど斜面をすべるように駆け下りながら、肩越しに後ろを振り返った。積もったばかりの乾いて軽い雪を巻き上げながら、丸い巨体に長い足をたくみに動かして走るそれは、確実に三人に押しせまっている。まるでかにの爪のように先のとがった細く長い八本の足は硬質こうしつつやをもってうごめき、その根元は、こまかな、と言っても一つが紅緒のてのひらくらいの大きさもあるとげのような毛でおおわれている。長い足に対して控えめな頭には、玉のようにつぶらな目がずらりと横並びに四つ並んでおり、てらてらと金属質な光を映している割には意思が読み取れない不気味さを感じさせる。全身が夜のやみのように混じりけのない黒色をしており、頭の何倍も大きく、はち切れそうに丸い腹部にだけ、派手な赤い模様が見えて何とも毒々しい。無機質な目のすぐ下で、獲物えものを捕らえるかまのような上顎うわあごきしみをあげながら開いたのを見た鴉近は、盛大に頬を引きらせて視線を正面に引き戻した。

 そう、三人が追われているのは、久母山くもやまに住み着いている巨大な、雪の降りつむ冬には似つかわしくない黒い大蜘蛛であった。




 事の始まりは、なんということのないおつかい程度の雑用ざつようだった。

 久母山くもやま山頂近くにある洞穴ほらあな貯蔵ちょぞうされている、古酒ふるさけの様子を見てきてくれないか、と宇賀地うがちは少し疲れた顔で言った。

「毎年、元日がんにちうたげで、一年の吉凶きっきょうをその古酒ふるさけ出来できで占って奏上そうじょうするんだ。その後、屠蘇とそとして振舞ふるまわれる。酒造さけづくりは勿論もちろん謌寮うたのつかさ職分しょくぶんではないが、時々の洞穴の様子見は謌寮うたのつかさがやっている。あそこは、十年ほど前から、でかい蜘蛛のが出るようになったからな」

 なに、出るだけで人をおそったこともないし、冬は死んだように寝ているから大丈夫だ、と付け加えるうたよみの眠たげな半眼が、ひた、と自分を見ていることに気付いた鴉近あこんは、嫌な予感がして、ゆるゆると首を横に振った。

「酒の運び出しは、別の日にうたよみが酒造司さけつくりのつかさの者に同行してやることになっているから。お前たちは、酒室さかむろが獣やら人やらに荒らされたりしていないか、見回りに行くだけだ。紅緒べにお大叢おおむら弟とお前で行ってくれ」

 宇賀地うがちは紅緒から日和はるたかへ視線をめぐらせて、最後に鴉近の肩口に手を置いた。そのまま意味深に肩を二、三度軽く叩く。それを払い退けたい衝動にられながらも、根が真面目な宿能生すくのうせい渋々しぶしぶうなづいた。別に同行する顔ぶれが嫌でそうなっているわけではない。

 紅緒が巳珂みか身随神みずいじんとした衝撃の日から、鴉近は彼女のお目付めつけ役に位置付けられたふしがある。宇賀地にはっきりとそう言われたわけではないが、高鞍たかくら家柄いえがらのことが理由にあるのだろうと予想はつくし、鴉近自身、自分が適任と考えている。あの日、帰宅した鴉近が、巳珂みか處ノ森ところのもりを出たこと、ふうじのほころびのこと、一族の力がどうしようもなく弱まっていることを話した時の父の顔を、鴉近は忘れることができない。怒りや恥じ、怨嗟えんさとそして悔恨かいこんて行きついたのはかすかに安堵あんどただよう穏やかな表情だったのだ。それらはみな、いく百年続く伽々羅カカラの血筋を背負う当主とうしゅたちの顔であったのだろう。そして、父親はただ静かにこう言った。「その、謌生うたのしょうの女だけが頼りと思え」と。

 鴉近は、日和とともに外歩きに備えて身支度をしている紅緒を見遣みやる。彼女が何らの拘束こうそくもなく謌生うたのしょうとして出仕しゅっししていることについては、勅命ちょくめいであるという。主上しゅしょうにどのような思うところがおありなのかは到底とうてい知り得ないが、自分にはこれを見届ける義務がある、と鴉近は思う。

「高鞍殿、もう出ないと戻りが遅くなりますよ。あれ、今日はいつもより眉間のしわが深いですね」

 鹿革しかがわの、厚みがありつつも柔らかそうな手袋をしっかりとはめながら、日和が鴉近の顔をのぞき込む。紅緒がその後ろから、ひょい、と顔を出して、ほぐしましょうかなどと言ってくるのを聞き捨てて、鴉近は腹をくくった。もう一度言うが、紅緒や日和と行動を共にすることが嫌なのではない。

 彼は虫が大嫌いなのだ。




 久母山くもやまには、宮城きゅうじょうから徒歩かちで向かえば半刻はんとき辿たどり着く。酒室さかむろのある洞穴ほらあなまではそこからまた半刻、雪に埋まった細い道を、目印を頼りに山頂付近まで登らなければならない。

 謌生うたのしょうの三人は、最初こそ日和と紅緒がじゃれ合っていたものの、|久母山に到着してからしばらく登ると互いに無言になり、行程こうていの三分の二を越えた今では、ただひたすらに歩を進めていた。疲れた、というよりは、全ての音が雪に吸い込まれているかのような静かさと、肺を満たすいっそ清らかなほどに冷たい空気、背の高い常盤木ときわぎが陽光をさえぎって見下ろしてくるさま、白く滑らかに積もった雪が灰青はいおあ色の影をところどころに落としている景色が、人を自然と寡黙かもくにさせる。さくさくとくつが雪を踏む音と、軽く乱れた己の息だけが聞こえる中、先頭を行く日和が空を振りあおいで「あぁ」と一際ひときわ濃い白息しらいきを吐いた。彼の梔子くちなし色の毛先が、木漏れ日に透けてきらきらと輝いて見える。

「もうすぐみたい。山頂が近く見える。ねぇ、ちょっと休もう」

 縦一列になって前を行く者の足跡を踏んで歩いていたので、日和が止まれば後ろの二人も止まる。二番目を歩いていた紅緒はにっこり笑って、後ろの鴉近に「休憩です」と伝えると、すぐそばにあった倒木とうぼくの雪を払った。

「お二人とも、ここに座りましょう」

「いやぁ、そんなに雪深いわけではないけれど、やっぱり歩きづらいね」

 紅緒とともに倒木に腰掛けながら、日和は気休め程度にくつについた雪を落とす。つま先まで硬い革で覆った上等なくつだが、もう結構湿ってきている。それでも、足首まで筒があり、内側に柔らかな毛皮がられているので暖かい。藁沓わらぐつなどよりはかなりましだ。

 紅緒は、汗ばんだ額に張り付いた前髪を払い、熱を逃がすために円被えんぴの半身をまくって右肩にかけている。円被えんぴは軽くてたっぷりとした大きな布を肩から羽織はおり、体の正面で深く合わせて組紐くみひもを結んで留める防寒具で、広げると円形になるためその名がついている。さらに黒い毛皮の首巻をくつろげ、手であおいで風を送っている紅緒を、近くの木に立ったまま寄り掛かっている鴉近は凝視する。あれは黒貂くろてんの毛皮じゃないのか。

「あれ、高鞍殿は座りませんか」

 人好きのする笑顔で、日和が自分の隣を示してくるが、鴉近は渋面じゅうめんを作って「遠慮します」と素っ気なく答えた。

「なんで?」

「は?」

「いや、何で? 座った方が休めるのでは」

 やけに食い下がってくる日和に、鴉近は固唾かたずむ。この男、もしかしてわかって聞いているのではあるまいな。冬の倒木なんてきっと、中で虫が、群れで、冬眠を……。そこまで考えて自らの思考で精神的損害を受けた鴉近は、寄り掛かっている木からも背を離した。

「俺は、疲れておりません」

「そうなんだ! じゃあ、次から高鞍殿が先頭を歩いて雪を踏んでくださいね」

 さも自然な流れとでも言いたげな笑顔で役割の交代を告げる日和と、眉間に渓谷けいこくを作った鴉近が静かに見つめ合う間、紅緒はせっせと雪の中から枝を拾ってきては手ごろな大きさに踏み折り、一所ひとところに集めている。

「日和殿にはずっと先を歩いてもらっていましたから、火をおこして足を暖めてもらいたいのですが」

 枝の小山が出来たところでそう言いながら、ちら、と鴉近を見る紅緒。日和は礼を述べながらも、困ったというふうに眉尻まゆじりを下げた。

「この生木なまき、というか、湿った木に火をつけるような高度なうたは私には無理だなぁ」

「言い出しっぺがこう言うのは心苦しいですが、私が詠めばこの辺一帯、焼け野原になりかねませぬ」

 そうだねぇ、と互いに顔を見合わせた紅緒と日和は、何度も横目でわざとらしく鴉近を盗み見る。そして見られた数だけ苛立いらだちをつのらせていく優秀な宿能生すくのうせいは、眉間のしわ海溝かいこうほどに掘り下げて、はなはだ嫌そうに口を開いた。

『……色の心の頑是がんぜなき 赫々かくかくと 濡れにし袖を干す熱さ 煌々こうこうと りにし恋のかすあかさ 燦々さんさんと くもまなこしろさ』 

 鴉近が謌を詠むにつれて、何かがはじけるような極々ごくごく小さな音が枝の山の中でだいだい色の火花とともに起こる。

『やがて身を焼き心を焦がし 暗き熾火おきびとなり果てて 白くなりてもまだ愛し 片生かたおいなりの緋の心 たまを ほの削る やよ ほの削る』

 やがてふわふわと白い煙があがり始めたかと思うと、突如大きな赤い炎が鈍い破裂音をあげて立ち上がった。じろじろと火種ひだねを眺めていた日和と紅緒は思わず顔をけ反らせる。危うくまつ毛でも焦がしそうな乱暴な着火である。それでも、徐々に落ち着いていく焚火たきび有難ありがたそうに手をかざしながら、「よっ、宿能生すくのうせい」「お見事」などと口々にめそやす二人を、心底うっとおしそうに見遣みやった後、鴉近はふらりと歩き出したので、紅緒が慌てて声をかける。

「鴉近殿、どこへ?」

「先に道を作っておく」

 いっそ清々すがすがしいほどに忌々いまいまし気に吐き捨てると、ザクザクと音を立てて道を踏みならしながら遠ざかっていく背中をしばらく眺めてから、紅緒は小さく笑った。

「近頃、鴉近殿がお優しい気がします」

 純粋に嬉しそうなその声音に、日和は理解できないという表情を浮かべてこたえる。

「どこをもってそう感じたのか是非教えて欲しいな」

「前ほど私を目障めざわりと思うていらっしゃらぬご様子ですし、無視されませぬ」

 枝が燃えていく暖かな音を聞きながら、紅緒はにこにこと頬杖ほおづえをついた。確かに、紅緒の存在自体を無視していた以前に比べれば、最近の鴉近はまだましに見える。それに、まれにではあるが、先ほどのように悪ふざけを黙殺もくさつしないこともある。至極しごく迷惑そうなのは隠しもしないが。だが、露骨ろこつわずらわしそうにされて喜んでいるのだから、紅緒は面白い。それを指摘すると、彼女はやや艶のある声音でこう答えた。

「気になるひとは困らせてみたくなるものでしょう」

「ははぁ、それはわからないでもない。紅緒とは気が合うなぁ」

 気になる云々うんぬんを別にして、最近何となく鴉近のことを揶揄からかいたくなるのは日和も同じであった。鴉近がまとっていたどことなく近寄りがたい雰囲気が、薄れた感じがするのだ。肩の力が抜けたといった方がいいかもしれない。表情も特別不機嫌でなければ、わずかに丸くなった気がする。

 しばしの沈黙が流れて、ぱちん、と一際大きく木がぜた。

 日和が独り言のように呟く。

「綺麗な目もあまりしなくなったしね」

 その言葉を反芻はんすうした後、紅緒はゆっくりと一度まばたきをして、翡翠ひすい色の瞳だけを、隣に座る同輩どうはいへと向けた。

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