蛇と蜜、そして金剛石 弐

 それは海を渡ってきたのだという。

 謌寮の一室、仰々ぎょうぎょうしく漆塗うるしぬり高坏たかつきの上に、これまた御大層な白絹しらぎぬの布を敷いて置かれた石を、大叢日和はしげしげと眺めた。一見、こぶし大のごつごつしたなんの変哲もない岩石なのだが、ある一面から見ると鶏の卵ほどの大きさの鉱物を内包ないほうしているのがわかる。水晶より少し象牙色に曇った白っぽい石は角張った結晶を成していて、黒緑色の岩石に握り込まれるようにしてはまっている。

「本当に出るんだろうか、これ」

 誰にともなく呟いたが、少し離れたところで殺気を飛ばして、もとい、ほうけた様子でひじをついている兄、氷雨がちらりと目をくれただけであった。かれこれ一時いっときほどこの石を見つめている日和は深い溜息を吐いた。この石、そもそもは外国とつくにから戻った商船によってもたらされたのだという。何ヶ月か前に、およそ三年ぶりに港に入った大型船に、皇都は上を下への騒ぎとなった。戻ったのは七年ほど前に同じく皇都の港から出港した商船らしく、遠方の国で交易を行い、珍しい品々をたっぷりと積んで、悪天候にはばまれながらもやっと祖国に戻ったのだという。その噂を聞いた氷雨が珍しく興味を持ち、船を見に行くと言うので、日和もついて行った。そして、同じく荷降ろしの見物に押し寄せた者たちにもみくちゃにされて結構酷い目に遭った。一方、船から慎重かつ迅速に降ろされていく荷を、鬼気迫る様子で穴があくほど睨みつける氷雨の周りには、円形に人のいない空間があった。日和から見ればちょっとわくわくしているだけの兄であったが、やはり周りが自然と物理的接触を避ける程度には怖かった。とにかく、その時の荷の中にこの石があり、しばらくは中仰詞ちゅうぎょうしである深彌草ふかみくさ家の所有であったものが、とある問題があり、謌寮に預けられたのだという。そして、その『とある問題』のために氷雨と日和は朝からこの石を眺め続けているのだ。

 曰く、鈍く輝く鉱石部分に、時折何者かの目玉が浮かぶとか。

 人外のもののように見受けられるというそれは、特にこれといって害をなすわけではないらしいが、周りの人間が動くのを、ギョロギョロと“追う“のだということも聞いた。本当だとしたら確かに気味は悪い。気味は悪いが、これだけ見張っているというのに、一向いっこうに現れる気配がないので、日和はそろそろこの石ころに疑いの目を向け始めている。そうは言っても根が真面目な日和は、石を注視したまま声だけを兄に向けた。

「兄上、そろそろ交替の時間ですよ」

 返答がない。

「兄上?」

 少し焦れて、さっと背後を振り返ると、氷雨は弟の声など耳に入らぬ様子で、あらぬ方向を睨みつけていた。日和は長い溜息を吐いた。もとよりふわっとした性格の氷雨であるが、流石に呼んでも気づかないということは無かったのに。最近の氷雨は大概こんな感じだ。

「兄上〜、またそんなぼんやりしてー。交替ですってば」

 少し大きな声で呼びかけると、「は? 殺すぞ」という表情でやっと振り返った氷雨が、いそいそとこちらへやってきた。

「すまぬ」

 氷雨は日和のすぐ隣に腰を下ろして、替わって石を見張り始めた。あんなに睨まれていると出るものも出ないんじゃないだろうか、と朝から何度目かの懸念が日和の頭をよぎったが、ともあれ凝り固まった筋肉をほぐそうと、首をぐりぐりと回して、足を前へ投げ出す。無作法だが仕方ない。

 いい加減首と肩の血行を促してから、ちらりと隣の氷雨を見遣ると、世界を呪う目つきで心ここにあらずの様子である。日和は半眼で、乾いた笑いを浮べる。早くも石見てないじゃない……。

「おやおや、どうされたのでしょうか、我が兄は。何か心配事でもおありになるなら、相談にのりますよ」

 兄想いの弟は、少々芝居がかった声音で言った。まぁ、およそ予想はついているのだが。最近氷雨に起きた変わったことといえば、例の奇妙な同輩の謌生とよく言葉を交わすようになったことしかない。氷雨が家族以外と親しく話すところなど見たことがなかった日和は、強烈な違和感とともにそれを眺めていた。兄が新しく開拓した「友人」と交流をはかるのを、何となく邪魔してはいけない気がして、話に混ざることなく、ただそっと見守っていたのである。

 彼らの話す内容といえば、あるときは『氷雨殿、私は今朝は干した鮎を食しました。氷雨殿は何を?』『……鳥だ』『肉ですか。通りで、今日はよりいっそう肌艶がよくていらっしゃる』『そうか』『ええ、思わず触れてしまいそうになるほどに』『…………』といった会話であり、またあるときは『明日は雨になるようですよ、氷雨殿』『……そうか』『そろそろ氷雨が降るやもしれませぬ』『かもな』『私は冷たい雨は苦手でしたが、近頃は少し好きになりました』『何故』『氷雨殿を思い出しますゆえ』『…………』という会話であった。つくづく紅緒という女は不可解だ。

 氷雨の表情をこっそりと窺うと、心なしか頬を染めているようにみえる。日和がそれに軽く狼狽えているうちに氷雨は意を決した様子で口を開いた。

「……俺は、口下手だ」

 あ、うん、そうですね? と日和は少々拍子抜けしたが、黙って次の言葉を待った。日和にしかわからないが、兄は見たことがないほどもじもじしている。

「紅緒に気持ちを伝えたいと思うが、どのように言ったら誤解なく伝わるのかわからない」

「きっ?! ……気持ち、とは?」

 日和は頬を引きらせて、驚愕の表情を抑えた。気持ちとは? どんな気持ちでしょうか兄上? はやる気持ちを隠しかねてわずかに身を乗り出す弟をよそに、氷雨は暫し言葉を探しあぐねてから、ぼそぼそと話し始めた。

「あの者は、自らの思ったことを、真っ直ぐに言葉にのせることができる。だからこそ、うたよみとしての才があるように思う。俺は……紅緒のことを称賛したい。だが、どう言えばいいかさっぱりわからない」

「あ、何だ、そういう気持ちですか。あの、今更ですが、そもそも兄上は私が最初に彼女に声をかけた時に、いい顔をしていませんでしたよね」

 確か、謌生の初顔合わせの時に紅緒に声をかけた自分を、氷雨は止めようとしていたように思う。それが今や自ら積極的に彼女に関わろうとしている。

「俺が女に関わると必ず怯えさせることになるということぐらいはわかる。なのにお前が話しかけるから」

「それは、すみません」

 氷雨は弟である日和や他の家族にこそ、今のように話すことができるが、他人に対してどういうわけか妙に無愛想で冷たい物言いをしてしまう傾向がある。顔が怖いので、冷徹な振る舞いに違和感など 微塵みじんも感じないのだが、その実中身はそうでないのだから、上手く他人に気持ちが伝わらないことは日常茶飯事だ。それ故、特に女性と交流することに向いていない。

 なにはともあれ、兄の気持ちとやらは色恋沙汰ではなさそうだと、日和の胸騒ぎが治まりかけたとき、氷雨が再び口を開いた。

「翡翠色の瞳が美しいことを伝えたいし、猫のように自由なところが魅力的であることも、意外と肩が細いところも、髪から良い香りがす」

「ちょっ、ちょちょちょちょ!」

 弟の鳥の鳴き声のごとき制止に、氷雨は怪訝な視線を送る。

「ちょっと兄上、それはまずいですよ」

「何故」

 きょとんと睨んでくる氷雨に、日和は愕然とした。兄は紅緒に毒されすぎたのだろうか。例え心から美しいとか魅力的だとか良い香りがするとか思ったとしても、普通は迂闊うかつに口に出しまくってはならない。女性にそのようなことを言うということが客観的に見てどういうことなのかすっかりわからなくなっている。あれは彼女だから許されているのだ。

 日和は真顔で噛んで含めるように諭す。

「あれは、女性です」

「……あぁ」

 たっぷり間をおいてから氷雨が頷いた。

「猫などに例えるのは失礼ということか」

「うーん、違う!」

 いつもより反応が激しい弟に、氷雨は目をしばたたかせた。何が違ったのかよくわからないが、何やら考え込んでしまった日和を黙って見守ることにする。きっとどう言えば兄に伝わるのか熟慮しているのだろう。いつも苦労をかけるなぁと、感謝の意を込めて睥睨へいげいする。

 一方日和は、いろいろ思案したが兄には直球で言わないと伝わらないという結論に達した。

「兄上、女性にそれらの言葉をかけるということは、口説いているということです」

「俺はいつも紅緒に口説かれていたのか」

 日和は眉間を押さえた。

「うーん……違います。彼女のあれは違います。全方向に向かう博愛の言葉です、多分。しかし、兄上が同じように彼女に返すのはとても拙い。完全に意味合いが変わりますから」

 そうなのか、ふーん。氷雨はしっかりと頷いた。

「……いや、わかっていらっしゃいませんね。婉曲的えんきょくてきに好意を伝える昨今の華家社会の風潮と、兄上が普段から無愛想が過ぎることを踏まえると、瞳が美しいとか魅力的だとか言ってしまうと、それはもう求婚の域ですよ」

「求婚?」

「そうですとも。ガッツガツの求婚です」

 ふーん、そうなんだ。氷雨は再びしっかりと頷いた。いやいやいやいや、と日和は兄の肩に手を置いてその三白眼を正面から捉えた。

「もしかして求婚の意味がよくわかっていらっしゃらな」

「構わん」

 相変わらずの無表情で、氷雨も真っ直ぐに日和を見ていた。兄の眼は、注意深く見ると深い瑠璃紺るりこん色をしている。日和は久し振りにそれを思い出した。

「俺を『穏やか』だなどと言う女は得難いと思わないか?」

「それ、は」

 確かに、と言わざるを得ない。今まで、彼の内面を発見することができた者は家族以外にいなかった。そんなことを紅緒が兄に言っていたとは。まさか対人関係に後ろ向きな兄の口から肯定的な色恋沙汰がでるとは思っていなかった日和は混乱する。

「全方向に向かう博愛の言葉とやらだとしても、それが嘘でないなら、俺にとっては大切なものだ。俺も同じものを返したい。それが世間的に求婚だとしても、別にそれで何も困ることはない」

「そ、そんな恥ずかしいこと……よく真顔で身内に言えますね」

 日和は浮かせていた腰を力なく床に落とす。そうか、兄はとっくに紅緒に落とされていたのか。それにしても早くないか。いや、というか彼女は身元がはっきりしていないのだが、大叢家的にはいいのか? そもそもあの女、結婚とかするような女なのか?

 ぐるぐると思考が先走る日和の肩を、氷雨がぽんぽんと叩いた。その鋭い目許めもとが、ほんのわずかに緩んでいる。

「日和、心配してくれて、ありがとう」

「……」

 兄が笑うのを見たのは何年振りだろうか。二、三度まばたいた日和は、やがて深く息を吐いた後、にわかに表情をにやにやしたものに切り替え、わざとらしく思案気な仕草をする。

「しかし、あの人は一筋縄ではいかないと思いますよ。本人もなかなかですが、私が思うに玄梅くんが相当厄介……ん?! あっ、兄上、目! 目が!」

 すっかり存在を忘れていた石が視界の端をかすめた途端、日和は叫んだ。鉱石部分に目玉が浮かびあがっている。あまつさえ、周囲を見回すようにぎょろり、ぎょろりとうごめいている。銀灰ぎんかい 色の虹彩に、馬のように横長の四角い瞳孔の目であった。成程、これは人のものではない。ふと、目玉は氷雨と日和をその視界に収めたらしく、その動きを止めた。

 こちらを見ている。

 人のものとは違う瞳孔のせいで、目が合っているかどうかいまいち確信は持てないが、二人は目玉に探られているような、値踏みされているような緊張感を覚えた。

 しばし無言でその目玉と見つめ合う。

「……あ、目をそらしましたね」

「本当に特に何かしてくるわけではないのだな」

 ふい、と目玉の視線が明後日の方向へ逸れたので、二人は静かに息を吐いた。

「とりあえず記録をとりましょう」

 各々筆を執ると、氷雨は岩石に浮かぶ目玉を詳細な図に描き、日和は目玉の色や動きなどの仔細しさいを書き留めていく。特に危険性が無ければ、観察して記録するだけで良いと指示を受けている。この目玉には意思を感じるものの、敵意などは感じない。今はもう大叢兄弟など眼中に無く、再び部屋をきょろきょろと見回している。

 暫く黙々と筆を進めていた日和ぽつりと呟いた。

「彼女、玄梅くんと共に治見はるみの二の姫のところに行っているとか」

 今朝、宇賀地に聞いたのだが、治見家の二の姫をとり殺そうとしているらしい謎の怪の様子を見に行っているらしい。彼らも、あと半時程すれば報告のために謌寮に帰ってくることだろう。因みに高鞍鴉近は厄介そうな案件の解決を命じられて先輩の謌生とともに出掛けたので、もう少しかかりそうだ。

「この報告書を仕上げたら、彼らが戻るのを待ってから退出しましょう」

 ふと筆を休めて宙を睨んだ氷雨は、少し考える素振りを見せたが、すぐに筆記を再開させつつ、「そうだな」と応えた。

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