スノウドロップ -合成獣の夢-

高城 真言

第1話 孤独の夢1


その日はやけに静寂が心地悪かった。扉の先の獣に対しての恐怖か、否。きっと彼女が傍らにいないせいだ。隣を見れば、何度か顔を合わたことはあるものの、決して気心の知れたとは言えない、同じ色の制服に身を包んだその場限りの仲間たち。しかしその中でも、青いリボンをはためかせているのは自分だけ。浅い息を吐き出せば、顔色を伺ってくる男共に嫌気が差した。こんなとき、彼女がいれば一瞥してくれるというのに。


「前方およそ166フィート。不審物体確認」


暗がりの中、先を歩く部隊長は扉にレンズを押し嵌めて囁いた。分厚い扉は何重もの施錠がされている。まるでずっとここに閉じ込められているかのよう。一体どこから侵入したのか。それを口走ったのは自分ではない。獣はここにいるのだから、それだけが真実で、他の過程は必要ない。そんな中だから、166フィートという数字を頼りなく感じたのは、自分だけかもしれない。たったそれだけの距離、獣の足ではすぐに迎撃されてしまうだろう。一瞬で終わらせられるのであれば迷う時間すら面倒だ。施錠は八重の南京錠、硬化した蔦はパイプだろうか。それの最後は機械仕掛けのパスコード。暗号の解読が先か、引き金のスタートが先か。なんとも気味の悪い鳥籠だ。なんとも気味の悪い時間だ。そうだわたしは、この居心地の悪さを終わらせるためならば――




「――エリカァアッ!」


ひどい汗が全身を流れていった。悪夢はいつも、自身の叫び声によって幕を閉じる。

あの忌々しい惨劇から、今日で半年が経過した。もう半年、まだ半年。右の手首がギシリと痛む。朝の光に透かして見れば、そこに映るのは細い血潮だけではなかった。これはきっと、彼女を助けられなかった罰。やり場のない怒りは、そのままここに埋まっている。炭だけが残る暖炉の上に吊り下げられた青のリボンを首に掛け、女は懐の銃を確かめた。


「……終わらせてやる。この悪夢も、虚実も」


そう零して部屋を出れば、黒装束の男がにやりとした顔で出迎えた。


(ああ、これも──)


悪夢は、まだ始まったばかりだ。




白に塗りたくられたこの寮棟は、公安の管理下にある。つまりはここに居住する者は皆、公安の人間なのだ。公安とは、この花々が活きる鮮やかな国の法的管理機関。無秩序を粛清する、聖なる機関。公安委員会総本山、それがここに佇んでいる。皆なにかしらの思いを胸に、正義のためか誰かのためか、国を暗躍する犯罪を取り締まるために、白装束に身を包むのだ。そんな純白の正義を身に纏う女――太陽の色が眩しい髪を持つ、ガーベラ――もまた、純粋な信念を胸に秘めている。しかして、彼女の隣を歩くこの男――長い直毛が煩わしい、ビティスという――は、それに当てはまりはしない。正反対の黒衣。往来を堂々たるものだが、彼は先の一件で名声を高くしたマフィア【コモンリード】の一員。そう、この国の影の人間なのだ。そんな男がガーベラの元を訪れるには理由がある。


「で?そろそろイイだろ?」

「……お断りしたはずです」

「なんでだよ」

「何度も言わせないでください」


肩に置かれる手を何度も払い、女は男を強く睨みつけた。その形相に顔を顰め、浅いため息が一つ。


「もう半年も経つんだぜ?そいつを外さねぇことには、あんたの身体が持たねぇぞ」

「……もう手遅れです。それにこれは、私が組織を裏切る故の枷なのです」


手首にうっすらと浮き上がる四角い影。細い血管はどくどくと脈打ち、まるで影に血潮を送り込むかのようだ。この影は半年前、手のひらに不可抗力で入り込んだ金属片。いつの間にか手首にまで移動している。


「真面目だねぇ」


くつくつと笑う男は、まるで悪びれもせずに彼女の額を小突いた。この男と出会ってからも、今日で丁度半年。飄々とした男の所作は飽きるほど見てきたが、やはりどうにも得意ではない。おそらくそれは、公安というカタブツばかりの組織には、こういった軟派な男がいないからなのだろう。


「と、いうよりも。このチップを抜き出したところで、私の身に何も起こらないとも言えません。あなたたちに渡ることのほうが、私は不安なのです」

「……ほ〜んと、信用ねぇよなぁ」

「マフィアを信じろと言うほうが難しいでしょう」


言ってしまえば、男はピクリと眉を動かして、その場に足を止めた。どうにも癇に障ったらしい。この男はあまりにわかりやすい。タイミングを見計らったかのようにして振動を始めるタイのレンズを握り締め、彼女もまた寮棟の上を目指す階段へ足を向ける。


「出勤時間です、失礼」


白装束に身を包み、同じく純白の階段を登る彼女は、花嫁には見えない。不揃いの後ろ髪が鮮やか過ぎて、白を邪魔しているのだ。あの階段を上り詰めた先、それこそが公安本部。半年前の惨劇が、繰り広げられた場所。


「……俺は公安のほうが、信用ならねぇよ」


残された男の心の内は、相も変わらず、わかりやすかった。




今から半年前、あの日はいつもと変わらぬ夜を迎えるはずだった。公安の夜の任務といえば、市街地の警ら及び、本部内の見廻り。この国は、どの街も夜が早い。夜に行動を起こすのは、マフィアか、公安か、もしくは良からぬことを企む者か。善良な市民は皆、外を出歩きやしない。故に、公安が犯罪を見逃すことは殆どないのだ。いや、それもおかしな話だった。確かに市民は公安に対し絶対の信頼を置いていて、聖なる機関の教えを遵守しているようにも見える。しかし、エネルギーの有り余る青少年らですらも、夜はきちんと床につくのだ。かくいう彼女も、公安の夜勤時以外は、きっちり日が落ちる頃には床についていた。疑問に思ったことなどなかった。それが当たり前だったのだ。しかし今は。


「や、やあ、ガーベラ、ね、ねね、眠そうだ……ね?」

「ああ、ヤナギ」


吃音の癖が未だ治らないこの男──ヤナギ。彼ともまた、半年前から付き合いを濃くしている。あの惨劇に居合わせた内の一人だ。あの時と違うのは、その制服の形。以前は開発部に属し、技術者として務めていた彼だが、今や彼女と同じ肩当を背負う。これは、執行部の証である。


「昨夜ね、嫌な夢を見たのよ」

「ゆ、夢……?まただね……?」

「ええ」


半年前から、あの夢を見る。魘されるようにして起きるのはいつものこと。内容はいつも同じだ。親友が殺される瞬間の夢。実際に目にしたわけではない。しかし、夢は厭にリアルで、彼女の死を克明に刻んでいく。


「資料を見るのに没頭して、明け方に寝たからかしら」

「すごいなぁ、ぼ、ぼく、そんなに起きていたことないよ」


自分も今まではそうだった。半年前までは。しかしどうしたものか、あれ以来夜更かしが叶うのだ。そしてあの夢を味わう。手首に眠る、この金属片の影響か。だとしたらこれは一体何だと言うのだ。ますます、気味が悪かった。


「親殺し……」

「え?あ、ああ……!あれ以来、そ、それらしい事件がないか、しし、調べてるんだけど、……やっぱり、まだ、わ、わからないや」

「そう」


親殺し。尊属殺の意だが、これは言い換えではない。親殺しという、特異な犯罪者の総称なのだ。マフィアから初めて手に入れた情報はこれだった。親殺しらは、脅威的な力を持つという。その姿は、人間そのものであったり、人間をベースにした異形であったり、もしくは見えないところが人を外れたそれであったりと様々らしい。


「連中の言った親殺しが、本当に世をはびこっているのならば、一刻も早く探し出さなければ。被害者がまた、出てしまう」

「そ、そう、だね」


彼女の親友は、化け物に殺された。親友だけではない。幾人もの公安職員が、親殺しという得体の知れない者の、成れの果てによってその命を絶たれた。交配種。そう呼ばれていた。いくつもの獣が無理矢理縫い付けられたかのような、鋭い爪と長い舌を持つ、この世のものでは無い物体。それが公安の本部に侵入したのだ。いや、おびき寄られたと言ったほうが正しいかもしれない。その事件をきっかけに、彼女と、隣で肩をすくめる男はマフィアと知り合った。あれの退治を任せられていたと言うが、それも鵜呑みにしたわけではない。しかし、確かにマフィアはそれを成し遂げたことで公安の信頼――という名の権利――を勝ち取った。コモンリード、彼らは厄介だ、彼女は思う。


「ともかく、周りに勘づかれないように。今日も私たちは正義を執行しましょう」

「う、うん……!」


自分たちの生きる世界に、疑問は絶えない。それでも彼女たちのやるべきことは変わらず。犯罪の取締、市民の安全、世情の安定。それを行使するためには、強くあらねばならない。心を、身体を、信念を。




母のことは、どうしても好きになれなかった。いや、嫌いではない。嫌いではないのだが、好きでもないのだ。穏やかで、それでいて気さくで、分け隔てのない、人徳の絶えない女性だった。しかし、自分に対しては違ったのだ。無論、キツく当たられたわけではない。周りへ対するそれと同じで、朗らかに語り掛けてくる。しかしそこに、分け隔てがありすぎた。どういうわけか、自分にはたくさんの兄弟がいたらしい。〝らしい〟と言うのは、会ったことがないからだ。皆病持ちだかで、生まれて間もない頃にこの世を去った。残ったのは自分だけだ、と。何度も母に聞かされた話だ。そんなわけだから、母は自分に執着しているようで。それが堪らなく鬱陶しいと思った。まるで自分を宿り木にでもしているかのようで、絡まる蔦は振り払ってしまいたかった。


「それで、殺したのかい?」


笑う声。掠れたハスキーは、声変わりの途中で、穏やかな物言いがアンバランスだ。


「そんなわけないでしょーよ」


仕事の報告を終えてしまえば、男は少年に親しい態度を見せる。今回の報告は、今朝の件。女に張り付いたチップは、そう簡単に剥がさせてくれないらしい。しかし、アレが彼女に良からぬ結果をもたらすのではないかと、気が気ではなかった。


「ビティスのことだから、早々に終わらせてしまうと思っていたよ」

「人を悪魔みたいに……。俺だってねぇ、ターゲット以外には優しいんですよ、ハギ様」


目の前で革張りの椅子に鎮座する幼い少年は、彼の上司。否、組織の長だ。ハギ。その幼顔で作り上げた黒い組織は、今やこの国全土の裏社会に知れ渡っている。もともとこの界隈は、老舗の二つの組織が牛耳っていたため、晴れて三大組織として組み込んだわけだ。化け物退治が功を奏した、言えばボスは困ったように笑っていた。


「だったらその女もターゲットにしてしまえば良いんじゃない?」


背中に突き刺さる冷たい声。冷や汗と共に振り向けば、笑みを張り付かせた女が戸に手をかけたまま見つめていた。


「ダ、ダツラ様……いらしたんですか」


クスクスと笑いながらボスの元へ歩む女の、男を見る瞳は、笑っていなかった。いつものことだ。


「私がいちゃあいけないの?」

「そ、そんなことないですって!」


思わずと声が上ずる。まるで蛇に睨まれたカエル。慌てて視線を逸らせば、飽きれた笑い声が耳を掠めた。


「姉さん、あまりいじめないであげて。ビティスは恋をしているんだよ」

「まあ、そうだったの」

「違いますって!」


ボスの姉。それだけで、構成員は恐れをなしていた。しかし、男は違う。この女の、何を考えているかわからない、冷たい瞳が苦手なのだ。まるで、母の瞳とそっくりだった。


「そんなことより」

「そんなことより!?」

「エキノプスからの出向さん、もうお見えになるんですって」

「ああ、わざわざ確認してくれたんだね」

「ふふ、かわいいハギのためですもの」


この二人は似ていない。姉弟だと言うが、髪の色も、瞳の色も、顔の形も、性格も。総てがまるで違う。しかし、笑った顔はどことなく似ている気がした。些細なことだが、それだけで、姉弟なんだと納得してしまう。兄弟と顔を合わせたことのない彼としては、それだけで少し羨ましかった。


「なによ」


だがしかし、やはり女の瞳は得意になれない。口角だけの笑顔にから笑いを落とし、男はそこから逃げ去った。




コモンリードは新参者。黒の界隈では、まだまだ彼らを認めないものも多い。「あんな子どもに何ができる」「姉弟でお遊びか」「ガキの出る幕じゃあない」さんざん言われた。それに対して拳を振りかぶりたかったビティスを止めたのは、他でもないハギだ。


「皆さんの仰ることはよくわかる。それならばどうだろう、我々の働きを監視してみては?」


何を言い出すのかと思わず唾を吐き出した。しかしボスは笑う。小さな声で、右腕にだけ聞こえるように、そうっと。


「私たちに課せられた勅命を憶えているね」


それだけで背筋を風が撫でた。

コモンリードに課せられた、公安上層部からの勅諚には、他ファミリーの制圧が加えられていた。化け物の次は、裏社会の沈静とは、なんやかんやいいように使われている気もする。しかし、それは自分たちにとっても悪くない話だった。マフィアを牛耳ることができれば、あとはその上を抑えるだけなのだから。


この風評を逆手に取るとは、自分の上司が上司であってよかったと、男は心から思う。そんなこととはつゆ知らず、老舗のファミリーはしたり顔で笑っていた。


そのうちの一つが、エキノプスだ。


エキノプスのボスは、意外なことに物腰の柔らかい美女だった。しかし、荒くれ者が揃うファミリーのボスであるその女は、やはり柔らかな笑顔と言葉で、新参者に嫌味を回してきた。


「では、私どもから出向致しましょう。そうね、元気な若手の子がいたわ。あの子たちならそちらとしても気兼ねないと思うの」


言葉の裏にある、舐めた態度。その程度の力でも、お前たちの弾圧など容易だと言っている。ハギは笑ってそれを受け入れていたが、ビティスは刃を向け掛けた。今思えば、自分のその歯止めの利かない行いも、コモンリードの評判を下げかねないと反省は止まないが、それでも腹が立つものは腹が立つ。


ダツラから逃げるようにして飛び出した裏路地は、アンダーグラウンドだというのに晴天が眩しかった。壁の隙間から漏れ出る光は、そこを空に変える。この道は、あまり好きではなかった。黒い世界に身を置くからか、光を自分が求めているようで。見上げた太陽が、チップを握り締めたまま離さない強情な女と被り、余計に気が滅入る。彼女だから事を急いているわけではない。違うはずだ。だが、あの女はどこか腹に据えたものが他のものと違う気がした。


(幻想かもしれねえけど)


感情のまま、どこかから転がってきたユズの実を蹴り飛ばせば、純白のドレスに乗り上げた。


「あ……」


見事にドレスは砂まみれ。往来をそんな姿で歩くなと眉を顰めると、ドレスの主はふわりと笑みを浮かべた。


「あなたのユズ?」

「……いや」


思わず息を呑んだ。あどけなさの残る顔付きだが、それを抜きにしてもあまりに美しい。艶やかな漆黒の長髪は風に靡き、その軽やかさが目に見えた。透き通る肌は可憐の象徴で、愛らしい瞳は吸い寄せられるようでーー気づいたときには、その頬に触れていた。


「ッ、悪い」


自分でも驚いた。硬派というわけでもないが、見ず知らずの女性をいきなり口説くなど、したこともないし、したいと思ったこともない。しかし目の前の少女には、自然と引き寄せられてしまう。そして彼女もそれを受け入れているかのようで、美しい弧を描いた口元は、そこに目があるかのように視線を外させてくれない。


「恥ずかしいことなんてないよ。みんなそうなの。わたしを見た人は、みんな」

「なんだそれ」

「ねえ、わたし、あなたの顔が好きだな」


そう言って、少女は男の手を取り、それを腰に巻き付ける。ゾクリと腕が震え、慌てて少女を突き放した。


「何してんだ!」

「どうして?わたしは魅力的じゃないの?」


信じられない。彼女の瞳は、そう訴えていた。まるで逸らせない視線は、ゴーゴンのよう。喉を一度だけ鳴らしてから、ビティスは少女に背を向けた。


「……悪いな、俺はもっと、クールな子が好みなんだ」


少女は瞳を瞬かせる。


「わたしを振ったのは、あなたが初めてだよ!ねえ、お名前は!わたしは、ハイデ!」

「……ビティスだ。あばよ」


立ち去る男の背中を見つめ、少女はペロリと唇を舐めた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る